先に僕のスタンスをはっきりさせておくと、基本的に死刑制度に反対の立場だ。世の中は死刑執行容認の風潮が強いが、戦後民主主義の影響が強かったからか、あるいはたんに死刑に対する「違和感」からか、いずれにしろ基本的には反対だ。
違和感。ここで僕のいう違和感とは、誰が他人の死の決定権を持つことができるのだろう、社会秩序維持のために・あるいは社会の意思として他者の命を奪うことなどできるのだろうかといった感覚だ。「魔女狩り」や「生け贄」と本質的な違いが理解できない。
しかしこのニュースについてはどう考えればいいのだろうか。
妻子殺害の男に懲役7年、長男障害苦に心中図る さいたま地裁
無理心中図った男に懲役7年判決 「ほかにも取るべき手段あった」
【無理心中判決】「生きてほしい」思い届くか 死刑望んだ被告
判決にもあるように、無垢な命を奪ったという意味でもそれなりの罪に問われるのは当然だ。その意味で懲役7年というものが妥当なのかどうかはよくわからないが、他の判例と比べれば(他の裁判と比べることそのものもどうかという気もするが…)それなりに妥当なのだろう。
しかしこの加害者は自分1人が生き残ったことに対して「死刑にしてほしい」と訴えていたという。
仮に最も極刑を「死刑」であるとするならば、裁判官の下した「懲役7年」以上の極刑である「死刑」を望んでいる。僕らは、あるいはこの社会はこの加害者に対して「死刑」を下すべきなのだろうか?
いくつかの観点があるだろう。
命の自己決定権を重視するならば、(今回の件に関わらず)本人が死を望む以上、死刑とするべきだと考えるだろうし、もう少し感情的に「(生き残るのは)かわいそうだ」として死刑を支持するかもしれない。
また法制度による社会の維持を重視するならば、そうした叙情的な要素を抜きにして一審が下したような量刑を支持するだろうし、加害者にとって死刑は逃避もしくは願望でしかなく「罪」を償わせるには「死刑」としてはならない、という考え方もあるだろう。
何よりも倫理的に「人は生きるべきだ」と考える人もいるかもしれない。だとすると「死刑」とは必要なのだろうか。
そもそも今回の場合、一番に償う先である遺族自体が本人であり、更正の後の社会生活を本人が求めていなかったのだ。量刑や罰とはなんのために与えられるのだろうか。
陪審員制度がスタートした時、こうしたことが問われることになるのだ。
〈個〉からはじめる生命論 / 加藤秀一 - ビールを飲みながら考えてみた…
違和感。ここで僕のいう違和感とは、誰が他人の死の決定権を持つことができるのだろう、社会秩序維持のために・あるいは社会の意思として他者の命を奪うことなどできるのだろうかといった感覚だ。「魔女狩り」や「生け贄」と本質的な違いが理解できない。
しかしこのニュースについてはどう考えればいいのだろうか。
妻子殺害の男に懲役7年、長男障害苦に心中図る さいたま地裁
無理心中図った男に懲役7年判決 「ほかにも取るべき手段あった」
【無理心中判決】「生きてほしい」思い届くか 死刑望んだ被告
判決にもあるように、無垢な命を奪ったという意味でもそれなりの罪に問われるのは当然だ。その意味で懲役7年というものが妥当なのかどうかはよくわからないが、他の判例と比べれば(他の裁判と比べることそのものもどうかという気もするが…)それなりに妥当なのだろう。
しかしこの加害者は自分1人が生き残ったことに対して「死刑にしてほしい」と訴えていたという。
仮に最も極刑を「死刑」であるとするならば、裁判官の下した「懲役7年」以上の極刑である「死刑」を望んでいる。僕らは、あるいはこの社会はこの加害者に対して「死刑」を下すべきなのだろうか?
いくつかの観点があるだろう。
命の自己決定権を重視するならば、(今回の件に関わらず)本人が死を望む以上、死刑とするべきだと考えるだろうし、もう少し感情的に「(生き残るのは)かわいそうだ」として死刑を支持するかもしれない。
また法制度による社会の維持を重視するならば、そうした叙情的な要素を抜きにして一審が下したような量刑を支持するだろうし、加害者にとって死刑は逃避もしくは願望でしかなく「罪」を償わせるには「死刑」としてはならない、という考え方もあるだろう。
何よりも倫理的に「人は生きるべきだ」と考える人もいるかもしれない。だとすると「死刑」とは必要なのだろうか。
そもそも今回の場合、一番に償う先である遺族自体が本人であり、更正の後の社会生活を本人が求めていなかったのだ。量刑や罰とはなんのために与えられるのだろうか。
陪審員制度がスタートした時、こうしたことが問われることになるのだ。
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