ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

「半落ち」 / 横山秀夫:命の「絆」は繋がるのか

2005年09月20日 | 読書
不覚にも泣いてしまった。映画でストーリーは分かっていたはずなのに。読みながら映画のシーンを思い起こされたと言うのもあるけれど、それ以上にやはり作品自体が心を打つ。映画では十分に描かれきれなかったそれぞれの心象風景や映画にはなかったエピソードも描かれており、映画を見た人にも必読の一冊。帯の言葉をそのまま用いるならば「日本中が震えたベストセラー」だ。



こうやって原作を読んでみると、限られた時間という制約の中で、映画が非常によくできていたなぁと思う。原作での最後のエピソードは含まれていないものの、「法廷」という1番緊張感のある場面を軸に、志木(柴田恭兵)、佐瀬(伊原剛志)、中尾(鶴田真由)、植村(國村隼)、藤林(吉岡秀隆)のそれぞれのエピソードのエッセンスを非常にうまく抽出していたのだと思う。とくに、植村弁護士のエピソードについて言うならば、原作以上に今の人生を生きることを伝えていたのではないだろうか。

この小説が他の横山秀夫の小説と異なる点として、まず1つの事象(梶の嘱託殺人)に対して、立場の異なるそれぞれの登場人物がそれぞれの関わり方とそれぞれの葛藤を描きつつ、それを「空白の2日間」の解明というミステリー仕立てに仕上げていることだろう。それまでの作品は、同じように主人公が自らの職業的な立場と良心との間での葛藤を軸としながらも、あくまで主人公が見た「点」と「点」を「線」に繋ぎ直す作業こそが「ミステリー」として成立させる要件だった。しかし今回はそうではない。梶の逮捕から判決、受刑までの間に関わったそれぞれがそれぞれの文脈の中で自身の人生を葛藤し、生きる姿を描いている。事実、梶の真意を知るものは、志木と古賀しかいないであろう。

そうした立体的な構成がこの作品に深みを与えていることは間違いがない。佐瀬や中尾の組織人と個人あるいは良心との葛藤、藤林の同じような境遇を共有しながらも決して認められない「信念」の違いといったものは、「空白の2日間」に関わらず十分魅力的なないようのものだ。しかしやはり何と言っても、この物語をもっとも深く感動に誘うのは、梶が何故「生きる」ことを選択したのかを解く、小説での「古賀誠司」の章でのエピソードにあるといっていいだろう。この部分に関しては、映画のそれは小説に遠く及ばない。

それにしてもだ。映画版のレビュー「半落ち:横山秀夫が問い掛けた「人として生きる」ということ」でも書いたが、この梶の突きつけた問題に対して、僕等はどのように考えればいいのだろうか。

 半落ち:横山秀夫が問い掛けた「人として生きる」ということ

アルツハイマーという病。自分が自分で無くなると言う病。我々が「自分」として生きていくというのは、それまでの「記憶」や過去から現在にいたる関係性を保持できるということが前提となる。しかしそれができなくなったとしたら、自分自身はどのような選択を望むのか。また家族がそうなった場合、どのような選択が許されるのか。

もちろん「殺人」が許されるべき行為でないことは当然のことだ。しかしそれは1つの「人格」として認められているからだ。その「人格」が崩壊しつつある時、同じレベルで「殺人は悪だ」と言えるのだろうか。その一方で、では「尊厳死」を認めるのか、本人が「死にたい」と言っている時それを許すのか、あるいは家族がそう望んだ時、それを認めるのかと問われれば、自信をもって「認めるべきだ」と応えられる人はまだ少数派だろう。

梶は「病」故に息子を失い、「病」故に妻を絞殺し、「病」で生死の境にいる池上一志を救った。彼の妻を絞殺した「優しさ」と池上を救うことになった「優しさ」の間には違いがあったのか。結局、今の日本では、「臓器移植」のように「生」に結びつくものについては明確な倫理や道徳感などなくとも何となく肯定し、「尊厳死」といった「死」に結びつくものについては思考を停止させているといってもいいのではないか。

この物語でもそれらの是非については何ら応えるものではない。

映画では描かれなかったラストシーン。梶の前に現れた池上一志の姿に、梶はどのように思ったのだろうか。あるいは志木や古賀の想いをどう受け取ったのであろうか。それは命の「絆」が一方通行ではなく、それぞれの結びつきによって成り立っていることを示している。


「半落ち」/横山秀夫


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