ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

僕らの罪と東電社員の責務

2011年03月19日 | Weblog
今日は第5グループが18:20~22:00まで停電対象ということで、会社終了後、飲みに行く。でもそんな中でもやはり今回の震災や原発の話が出るわけで、やはり僕らが今おかれている状況を、あるいは罪を忘れてはいけないのだと思う。

今日、ネットでこんな記事を見つけた。

asahi.com(朝日新聞社):「立ち去るわけにはいかない」東電社員、放射線との闘い - 社会

「もう会えないと思った。でも自分だけが立ち去るわけにはいかないと思った」。地震発生直後から福島原発で作業にあたっていた東京電力社員は、家族に繰り返し言ったという。

そのとおりだ。この原発事故に対して、今も必死で食い止めようとしている人たちがいる。そして彼らには家族がいる。

家族の一人はいう。「政府や東電は、現場で体を張る連中を見殺しにするのですか。今まで信頼してきただけに、腹立たしいのです」

この記事を読んでいるだけで胸にこみ上げるものがある。しかしではどうすればよかったのか。ここでは究極の選択を問われることになる。

福島原発:東電全面退去打診 首相が拒否…水素爆発2日後 - 毎日jp(毎日新聞)



この記事によると、東電側が14日夜に、原発の職員全員を退去させる方針を政府に打診していたとのこと。現地での作業継続は困難と判断し、自衛隊と米軍にその後の対応を委ねる構えだったという。

これに対して、枝野官房長官、海江田経産相は認めず、菅総理が東電社長に「東電がつぶれるということではなく、日本がどうなるかという問題だ」として合同対策本部を作ることにしたという。このことは東電側からすれば、「『撤退は許さない』というのは『被ばくして死ぬまでやれ』と言っているようなもの」ということになる。

最初の記事を見れば、僕らはその職員の責任感や家族の想いに共感する。しかし後者の記事を読めば、多くの人が東電は「逃げるのか」という感情を抱くだろう。そのアンビバレントな感情はそれはその通りなのだ。僕らは彼らの英雄的な活動に心を震わせ、感動し、共感し、愛惜の情を感じつつ、彼らしか救えないこと、彼らが対処すべき責があることを感じている。

それが日本人特有のものなのかどうかはわからない。ただ僕らはその両方を彼らに感じ、その両方が真実なのだ。

しかし忘れてはいけないこともある。

彼らは僕らの「人身御供」なのだ。

僕らは僕らの生活とライフスタイルを維持するために、多くの電力を必要とし、それをコントロール不可能な「原子力発電」というものに頼ってきた。彼らは関東に住む僕らのために働き、電力を供給してくれていたのだ。もちろんその対価を払いつつ。

そして今回の事故があり、その危険に曝されているのは何も福島の人だけではない。放射能汚染が激しくなれば、関東に流れてくることもあるし、食料や物資の供給ということを考えればその影響は大きい。

彼らは現在と将来の僕らの生活を守るために、決死の覚悟で戦っているのだ。被爆を覚悟しつつ、その責任感・使命感の下で。

僕らは日々の生活を維持するために、省エネを実施し、いつもより混雑している電車に我慢し、多少の不便を感じているかもしれない。しかし僕らは安全圏にいて、計画停電を避けるために酒を飲み肴をつまんでいられる。この瞬間にも被爆の危険を感じながらも戦っている人がいるというのに…

これを職業的な役割分担だといっていいのだろうか。それとも彼らには行う責務があると期待するのは悪いことなのだろうか。結論はない。ただこのことは忘れてはいけないことなのだと思う。


asahi.com(朝日新聞社):「英雄フクシマ50」欧米メディア、原発の作業員ら称賛 - 社会

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