ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

nativeのライブとぴあとFacebook

2012年01月24日 | ネットビジネス
地元の小さなCafe「cafeline」にNujazzの雄・nativeのライブを見に行く。何年か前にタワレコで視聴していらい、そのままnativeはお気に入りのアーティストの1つ。ただライブの参加自体ははじめてで、東京のライブハウスではなく、柏でやるというので参加することに。しかし驚くことに柏でのライブは3年連続やっているとのこと。おっと、全く知らなかった。

今回のライブも、twitterやFBなどのソーシャルメディアで地域のライブ情報を収集していたから知った。こうしたメディアがなければ、そのcafeの利用者かよぼどそのバンドの情報を収集していなければ気が付かなかっただろう。

かってはそうした情報の集積機能をはたしていたのは「ぴあ」だった。テレビやラジオといったマスメディアでは取り上げられないようなカウンター・カルチャー、サブカルチャーやアンダーグランドの情報をとりあえず雑多に、かつ「平等」に掲載する。そんな多様な情報の中から、「読者」が自分に必要な情報を判断し利用する。それはスポンサーや業界の力学によって情報を統制するマスメディアにはない魅力で、多くの学生が利用した。

いつの頃からだろう、そうしたサブカルが当たり前のように氾濫してからは、あまりにも情報が氾濫しすぎて、何を見つければいいのかがわからなくなる。やがて皆が「欲しがりそう」な情報を編集する「TOKYO Walker」系の雑誌に情報誌の主役の座を明け渡すことになる。氾濫した情報の海で、学生や社会人たちも何かの指針を求めるようになったのだろう。あるいは与えられることになれた世代にとって、自ら「欲しいもの」を見出すということは困難だったのかもしれない。誰もがトレンディドラマを見たり、ミリオンセラーのCDが連発した時代と重なっているはずだ。

一度、多様化した嗜好は、かといってすべてが共通のものに集約されるわけではない。あらゆる領域において趣味や嗜好性は多様化し続けていく。そしてインターネットの発達はそのことに拍車をかけた。その人が生活する世界の範囲では成立しえなかった「趣味」「嗜好」も、ネットを通じて世界中の人と繋がれば成立する。

情報を発信したかった表現者たちにとっても、それまではマス媒体やメジャーな出版社、レーベルなどを通じてしかコミュニケート出来なかったファンたちと、インターネットを利用すればほぼ無料でつながることができるようになる。ネットを通じて「コミュニティ」と言うなの様々な小宇宙が成立する。

今は再び情報が爆発的に拡散している時代だ。

そんな時代には必ずしも「個人」が自らの求める情報を見出すことは難しい。かっては「ぴあ」の中に平等に、雑多に存在していた様々な情報の中に求めていた情報が埋もれていったように、情報が爆発的に拡散しはじめたインターネットの中では、「検索エンジン」だけでも求める情報を見出すことは難しい。

かといって、拡散した「コミュニティ」という名の小宇宙を「マスメディア」や「TOKYO Walker」のように中央集権型で編集するようなメディアでは対応しきれない。結局、そうした中で「コミュニティ」を含めた人と人とのつながりの上で互いの求める情報を見出すことになったのだ。

Twitterがどこかで無責任かつ匿名的に発せられる情報をWatchするためのツールだとして、Facebookが実現しているソーシャルグラフとそれを中毒化させるニュースフィードは、情報の海に漂う僕らに「つながり」を再構築してくれる。そしてそこで発見される情報はそれぞれの「人」というフィルターを通して、「意味」や「価値」を与えてくれる。

しかし今以上に情報が爆発的に拡散したら?

そこにはFacebookを超えるような新しい仕掛けと金脈が存在するのだろう。果たしてそれは権力集中型の編集型メディアなのか、キュレーターと呼ばれるような分散型の編集型メディアなのか、もっと別の仕組なのか…うん、5年後には全く別な様相を呈しているのだろうな。

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going with the flow / native

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