現実が「正義」と「悪」に分かれていて、「原因」と「帰結」が明確で、努力をうれば常に「明るい未来」が保証されているのであれば、この物語は必要ないのだろう。昔読んだ「童話」のように、昔見たTVドラマのように。でも現実はそんなに分かりやすくはない。それはこの物語のロスだけではなく、警官を信じられず、教師を信じられず、あるいは母親でさえ信じられない日本でも同じなのだろう。決して、明るくはない物語。しかし絶望することなく、優しい視線で「日常」の裏側をたどった秀作。
ロサンゼルス。ハイウェイで一件の自動車事故が起きた。日常的に起きる事故。しかしその“衝突”の向こうには、誰もが抱える“感情”の爆発が待っていた。ペルシャ人の雑貨店主人は護身用の銃を購入し、アフリカ系黒人の若い2人は白人夫婦の車を強奪。人種差別主義者の白人警官は、裕福な黒人夫婦の車を止めていた。階層も人種も違う彼らがぶつかり合ったとき、悲しみと憎しみが生まれる。その先に、あたたかい涙はあるのだろうか。(goo映画より)
忙し過ぎるのか、過度のストレスか、些細なことが人間関係のトラブルになっているケースが少なくないように思う。「そんな話聞いていない」「メールじゃなく、口頭で直接言ってください」言わなくてもいいような一言をいい、その結果、互いの怒りと後悔の念だけが残る。そんなとき、思ったこと・思った気持ちを直接そのまま言うのではなく、相手のことを考えて、言い方を変えたり言うのを我慢すればいいのに、と思う。そうすればそんなトラブルを避けられるのではないか―でも現実派そんなに甘くない。
感情を抑えた側の気持ちは伝わることなく、感情を爆発させる側は後先を考えない。反応がなければよけいに相手を追い込みはじめ、なぜ自分をわかってくれないのかと余計に一方的となる。抑えたほうもただ我慢を続けることはできない。その帰結は、逆切れなのか自暴自棄なのか。
黒人のテレビ演出家キャメロンと妻クリスティンの果たしてどちらが悪かったのか。
人種差別主義者の警官ライアンは、(黒人が)豊かな生活をしているものへのひがみなのか、その権力をかさに警官としてはあるまじき行為をする。この時点では心ある人であれば誰もが彼をろくでなしの警官だと罷免を求めるだろう。しかし彼のような警官が、人の命がかかったような場面、自分の抑圧された感情を忘れられるのであれば、命を投げ出し勇敢に職務をこなすことができるのだ。
はたして警官はすべての面において「人格者」でなければならないのか。
この映画はそうした現実の抱えたジレンマや矛盾、神ではない人間がもつ愚かさを見事に描いている。この映画に完全な悪人は登場するだろうか。
犯罪を肯定するつもりもないし、戦後民主主義者のように性善説に立ち環境と教育によって全てが解決するといった楽観主義者というわけでもないが、事実、現実に起こるさまざまな犯罪などは、マスコミが喧伝するように一方的な「悪人」ではなく、またそこに導く要因もそんなに簡単なことではないのだろうと思う。
ペルシァ人ファハドのとった行為は愚かではあったが、彼の受けた悲劇―アラビア系としての差別や暴力―がなければ銃を手にとっただろうか。
ハンセンの犯した罪は「善意」が招き入れたのではないか。
社会全体に蔓延している「人種差別」や経済的格差にもとづく「ルサンチマン」、予期しないままに巻き込まれる「暴力」に対する「不安」。あるいは「こうあらねばならない」という社会が要請する「ペルソナ」と実体との乖離、常に他者と比較し比較され自らの幸せを自分自身で測ることができない心性…弱者や敗者(あるいは下流社会の人々)の誰もが努力をしていないわけでもなければ、いい加減に生きているわけではない。
だからこそ「ストレス」や「苛立ち」、「不安」「ルサンチマン」が社会全体を覆っているのだろう。
しかしこの物語はそれを「絶望」としては描かない。
まだ無垢なララが信じた何ごとにも傷つきられない「透明なマント」が、毎日を精一杯生きている人々に奇跡をもたらしたように。そこに何か「可能性」を感じさせてくれるのだ。
それが何なのか。ちょっとだけ優しくなれれば救われるのか。どういった生き方を目指すべきなのか。それは現代を生きるわれわれに課せられた課題なのだろう。
【評価】
総合:★★★★☆
脚本:★★★★★
その奥の本質的な問題はそれぞれに:★★★☆☆
---
ミリオンダラー・ベイビー:「生きる」ことの尊厳と「死」
ロサンゼルス。ハイウェイで一件の自動車事故が起きた。日常的に起きる事故。しかしその“衝突”の向こうには、誰もが抱える“感情”の爆発が待っていた。ペルシャ人の雑貨店主人は護身用の銃を購入し、アフリカ系黒人の若い2人は白人夫婦の車を強奪。人種差別主義者の白人警官は、裕福な黒人夫婦の車を止めていた。階層も人種も違う彼らがぶつかり合ったとき、悲しみと憎しみが生まれる。その先に、あたたかい涙はあるのだろうか。(goo映画より)
忙し過ぎるのか、過度のストレスか、些細なことが人間関係のトラブルになっているケースが少なくないように思う。「そんな話聞いていない」「メールじゃなく、口頭で直接言ってください」言わなくてもいいような一言をいい、その結果、互いの怒りと後悔の念だけが残る。そんなとき、思ったこと・思った気持ちを直接そのまま言うのではなく、相手のことを考えて、言い方を変えたり言うのを我慢すればいいのに、と思う。そうすればそんなトラブルを避けられるのではないか―でも現実派そんなに甘くない。
感情を抑えた側の気持ちは伝わることなく、感情を爆発させる側は後先を考えない。反応がなければよけいに相手を追い込みはじめ、なぜ自分をわかってくれないのかと余計に一方的となる。抑えたほうもただ我慢を続けることはできない。その帰結は、逆切れなのか自暴自棄なのか。
黒人のテレビ演出家キャメロンと妻クリスティンの果たしてどちらが悪かったのか。
人種差別主義者の警官ライアンは、(黒人が)豊かな生活をしているものへのひがみなのか、その権力をかさに警官としてはあるまじき行為をする。この時点では心ある人であれば誰もが彼をろくでなしの警官だと罷免を求めるだろう。しかし彼のような警官が、人の命がかかったような場面、自分の抑圧された感情を忘れられるのであれば、命を投げ出し勇敢に職務をこなすことができるのだ。
はたして警官はすべての面において「人格者」でなければならないのか。
この映画はそうした現実の抱えたジレンマや矛盾、神ではない人間がもつ愚かさを見事に描いている。この映画に完全な悪人は登場するだろうか。
犯罪を肯定するつもりもないし、戦後民主主義者のように性善説に立ち環境と教育によって全てが解決するといった楽観主義者というわけでもないが、事実、現実に起こるさまざまな犯罪などは、マスコミが喧伝するように一方的な「悪人」ではなく、またそこに導く要因もそんなに簡単なことではないのだろうと思う。
ペルシァ人ファハドのとった行為は愚かではあったが、彼の受けた悲劇―アラビア系としての差別や暴力―がなければ銃を手にとっただろうか。
ハンセンの犯した罪は「善意」が招き入れたのではないか。
社会全体に蔓延している「人種差別」や経済的格差にもとづく「ルサンチマン」、予期しないままに巻き込まれる「暴力」に対する「不安」。あるいは「こうあらねばならない」という社会が要請する「ペルソナ」と実体との乖離、常に他者と比較し比較され自らの幸せを自分自身で測ることができない心性…弱者や敗者(あるいは下流社会の人々)の誰もが努力をしていないわけでもなければ、いい加減に生きているわけではない。
だからこそ「ストレス」や「苛立ち」、「不安」「ルサンチマン」が社会全体を覆っているのだろう。
しかしこの物語はそれを「絶望」としては描かない。
まだ無垢なララが信じた何ごとにも傷つきられない「透明なマント」が、毎日を精一杯生きている人々に奇跡をもたらしたように。そこに何か「可能性」を感じさせてくれるのだ。
それが何なのか。ちょっとだけ優しくなれれば救われるのか。どういった生き方を目指すべきなのか。それは現代を生きるわれわれに課せられた課題なのだろう。
【評価】
総合:★★★★☆
脚本:★★★★★
その奥の本質的な問題はそれぞれに:★★★☆☆
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ミリオンダラー・ベイビー:「生きる」ことの尊厳と「死」
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