「CURE」「回路」など、今流行りのJホラーとは一味違うホラー作家「もう1人のクロサワ」こと黒沢清のブラックコメディ。どうしても黒沢清の作品となると「CURE」のヒリヒリした感覚を期待してしまうのだが、この作品はまったく別もの。まぁ、「アカルイミライ」にしろホラーというくくりでは収まりきらないし、「CURE」路線は忘れてしまった方がいいのかもしれない。
介護用の人工人体の開発に取り組む早崎(役所広司)は、研究に行き詰まりを感じていたある日、自分のドッペルゲンガーに出会う。そのドッペルゲンガーは内向的で繊細な早崎と違い、自分の欲望に対し自由でかつ外交的だった。プレッシャーや周囲との関係にがんじがらめになっていた早崎だが、会社をクビとなり自らの研究に打ち込めるようになると、ドッペルゲンガーの費用面や情報面での協力もあって次第に開発も進みだす。やがて早崎の下に君島(ユースケ・サンタマリア)や同じく弟のドッペルゲンガーで悩んでいた由佳(永作博美)が集まり、人工人体は完成し、メディコン産業への売却が決まるのだが…

「ドッペルゲンガー」ものというと、芥川龍之介に代表されるように「自殺」という帰結が待っているのが一般的だが、この物語では、理想としての人格(ドッペルゲンガー)が現れることで、当人が自身の限界を感じ取り、結果的に「死」を選んだという解釈をした上で、早崎は「自殺」ではなく(都合のよい)共存を選ぶことになる。そして映画の前半部にあたる早崎と早崎のドッペルゲンガーとのやり取りは、さすが役所広司といったところ。
しかしやがて早崎はドッペゲンガ―のことを疎ましくなる。この苛立ちは一体どこから来るのだろう。ドッペルゲンガーは当然自身の分身である。例えタイプが異なるとしても、全くの他者ではなく本来は自分自身の一部が反映されたものであり、本質的には似ているはずである。父子しかり、兄弟しかり。人がこの種の「疎ましさ」を覚えるのは2種類しかない。1つは相手に自分の嫌な面を見るか、あるいは自分がしたくてもできない"うらやましさ"を感じるか――そしてこの場合は後者といえるだろう。
早崎とドッペルゲンガーとのやり取りの中で、早崎はこの開発を「俺自身のため」にしたのであり「達成感のために創った」のだと言い、ドッペルゲンガーに対して「金と名誉と権力と女のため」など浅ましいとののしる場面がある。これに対してドッペルゲンガーは(名誉や権力ではなく)「金と女」をいただくと応える。それに対して早崎は「これは俺の開発だ」と怒り出す…
このシーンは何を明らかにしているのだろう。
現実を生きる早崎は「達成感」という建前を目的に据えつつも、同時に「金と名誉と権力と女」への欲求も捨てがたく持っている。にもかかわらずそれを認めることができない。あるいはそのこと自体を「浅ましい」と嫌っているといってもいい。あくまでも「金と名誉と権力と女」は抑圧された欲望なのだ。それに対してドッペルゲンガーは(本人が抑圧しているはずの欲望である)「金と女」と言い切ってしまっている。このことが苛立ちとなって現れるのだろう。
しかし注目されるのはその際に、「そのうち俺とおまえは1つになる」という言葉をドッペルゲンガー残していることだ。そしてそのとおり、終盤、村上(柄本明)君島とのやり取りの中で何もかも馬鹿馬鹿しくなってきた早崎は、いつの間にかドッペルゲンガーそのものとなっていく…果たして彼は早崎なのか、ドッペルゲンガーなのか、あるいは先のセリフどおり内面的な変化が訪れた早崎の、理想像もしくは抑圧されたもう1つの自分とうまく統合を果たして姿なのか、その答えは観客それぞれに預けられる。
と、まぁ、ある種、黒沢らしさのあるホラーとコメディの合わさった映画なのだが、いかんせん展開に無理を感じざろうえない。あのチャチな人工人体は目をつぶるとしても、「ドッペルゲンガー」に対する感情やそれと共存するまでの苦悩、その後の感情の変化にしろステップが見えず、正直、あらすじだけを追っかけるといった感じになってしまった。君島の追走劇にしろ、ちょっとなぁ…という感じだろうか。
【評価】
総合:★★☆☆☆
役者:★★★★☆
笑い:★★★☆☆
【黒川清作品】
CURE キュア

アカルイミライ
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ドッペルゲンガー
介護用の人工人体の開発に取り組む早崎(役所広司)は、研究に行き詰まりを感じていたある日、自分のドッペルゲンガーに出会う。そのドッペルゲンガーは内向的で繊細な早崎と違い、自分の欲望に対し自由でかつ外交的だった。プレッシャーや周囲との関係にがんじがらめになっていた早崎だが、会社をクビとなり自らの研究に打ち込めるようになると、ドッペルゲンガーの費用面や情報面での協力もあって次第に開発も進みだす。やがて早崎の下に君島(ユースケ・サンタマリア)や同じく弟のドッペルゲンガーで悩んでいた由佳(永作博美)が集まり、人工人体は完成し、メディコン産業への売却が決まるのだが…

「ドッペルゲンガー」ものというと、芥川龍之介に代表されるように「自殺」という帰結が待っているのが一般的だが、この物語では、理想としての人格(ドッペルゲンガー)が現れることで、当人が自身の限界を感じ取り、結果的に「死」を選んだという解釈をした上で、早崎は「自殺」ではなく(都合のよい)共存を選ぶことになる。そして映画の前半部にあたる早崎と早崎のドッペルゲンガーとのやり取りは、さすが役所広司といったところ。
しかしやがて早崎はドッペゲンガ―のことを疎ましくなる。この苛立ちは一体どこから来るのだろう。ドッペルゲンガーは当然自身の分身である。例えタイプが異なるとしても、全くの他者ではなく本来は自分自身の一部が反映されたものであり、本質的には似ているはずである。父子しかり、兄弟しかり。人がこの種の「疎ましさ」を覚えるのは2種類しかない。1つは相手に自分の嫌な面を見るか、あるいは自分がしたくてもできない"うらやましさ"を感じるか――そしてこの場合は後者といえるだろう。
早崎とドッペルゲンガーとのやり取りの中で、早崎はこの開発を「俺自身のため」にしたのであり「達成感のために創った」のだと言い、ドッペルゲンガーに対して「金と名誉と権力と女のため」など浅ましいとののしる場面がある。これに対してドッペルゲンガーは(名誉や権力ではなく)「金と女」をいただくと応える。それに対して早崎は「これは俺の開発だ」と怒り出す…
このシーンは何を明らかにしているのだろう。
現実を生きる早崎は「達成感」という建前を目的に据えつつも、同時に「金と名誉と権力と女」への欲求も捨てがたく持っている。にもかかわらずそれを認めることができない。あるいはそのこと自体を「浅ましい」と嫌っているといってもいい。あくまでも「金と名誉と権力と女」は抑圧された欲望なのだ。それに対してドッペルゲンガーは(本人が抑圧しているはずの欲望である)「金と女」と言い切ってしまっている。このことが苛立ちとなって現れるのだろう。
しかし注目されるのはその際に、「そのうち俺とおまえは1つになる」という言葉をドッペルゲンガー残していることだ。そしてそのとおり、終盤、村上(柄本明)君島とのやり取りの中で何もかも馬鹿馬鹿しくなってきた早崎は、いつの間にかドッペルゲンガーそのものとなっていく…果たして彼は早崎なのか、ドッペルゲンガーなのか、あるいは先のセリフどおり内面的な変化が訪れた早崎の、理想像もしくは抑圧されたもう1つの自分とうまく統合を果たして姿なのか、その答えは観客それぞれに預けられる。
と、まぁ、ある種、黒沢らしさのあるホラーとコメディの合わさった映画なのだが、いかんせん展開に無理を感じざろうえない。あのチャチな人工人体は目をつぶるとしても、「ドッペルゲンガー」に対する感情やそれと共存するまでの苦悩、その後の感情の変化にしろステップが見えず、正直、あらすじだけを追っかけるといった感じになってしまった。君島の追走劇にしろ、ちょっとなぁ…という感じだろうか。
【評価】
総合:★★☆☆☆
役者:★★★★☆
笑い:★★★☆☆
【黒川清作品】
CURE キュア

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回路は見た事あるのですが、「CURE」「アカルイミライ」というのは見たことありません。
でも「CURE」は怖いという噂を聞いたことがあります。
記事やコメントから察するに「アカルイミライ」は、もっとぶっ飛んだ作品のようですね。
「アカルイミライ」は何か不思議な感じです。もちろんホラーではなく、しいていえば「現代」という時代の人間関係を切り取った、という感じでしょうか。
藤竜也がいい味を出していました。クラゲがきれいです。
とゆうか唐突に失礼しました……。
「CURE」は、レンタルで見つからなかったのですが、機会があれば見てみようと思います。