ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

ITリテラシーは「世代論」ではなく「好奇心」

2011年08月15日 | ネットビジネス
ITリテラシーの違いは世代論か否か―。そんな話をおやじの世代の人とした。彼らはPCにほとんど触ったことがない。それが便利だということは「知識」としては十分に知っているが、直接的な「体験」としては理解していない。iモードやスマートフォンという言葉は知っているが、それが何をもたらしてくれるかは漠然としたものとしてしか理解できていない。

そんな世代の人とITリテラシーについて話をしていると、ITリテラシーというものがそれまでの「読み・書き・そろばん」とは根本的に違うものだということがよくわかる。

彼らの考え方はこうだ。

PCやインターネットの世界のことは、(使い方を)習っていない今の60代以上の世代にはよくわからない。今の50代以下であれば、会社や学校で使い方を習っているだろう。だからITリテラシーは高いのだ。学校で使い方を習ってきている20代以下の世代は使えて当然だろう、と。

こうした考え方はよくわかる。PCにしろ、インターネット上の各種サービスにしろ、最低限の使い方がわからなければ利用できないし、楽しくない。それはでも何だってそうだ。ギターを弾きたいと思っても、まずは最低限の指使いやコードの押さえ方は覚えなければならないし、英語で会話をしたいと思えば英語を聞いたり話たりするための練習が必要になる。いきなりドライバーを振ってみたところで、OBになるのが落ちだろう。

そういう意味では、「習う」ということは最低限の能力を養うという意味で必要なことだし、そういう機会がなかった上の世代の人から見れば、「使える人(世代)」/「使えない人(世代)」という「世代論」として分けるというのも納得できる。

しかしこの「ITリテラシー」というものはそれだけでは話は済まない。「読み・書き・そろばん」とは根本的に異なる性質があるのだ。

「読み・書き・そろばん」というものは、完成された技術だ。もちろん抽象的な概念を「理解」するためには、それなりにいろいろな文章を読んだり、概念を知ったりしなければならないだろうが、「読めない」ということではない。最低限の「技術」+をそれを応用していくための「能力」や「経験」。少なくとも前者の「技術」については確立されたものなのだ。

これに対して今のITを使いこなす能力というものは、こうした「確立された技術」というものがない。常に新しい技術や技法や概念が生まれ、常に新しい「体験」をユーザーに要求する。iPhoneやスマホの登場はUIの変化だけでなく、利用シーンや使い方においても、新たなる「使いこなす能力」をユーザーに求めることになったし、ソーシャルネットの興隆は情報発信の仕方やタイミングを大きく変えたし、その時の「お作法」も新しく生み出されることになった。

こうしたものは、誰かが教えてくれるものではないし、また全員に教えなければならないものでもない。「興味」や「関心」があるものが、自発的に学び、取り入れていくものなのだろう。「世代論」ではなく、「興味・関心の強さ」ことがITリテラシーの違いを生み出していくのだ。

70代のおばあちゃんが自分でHPを立ち上げつつ、IT企業の20代でも自分でHPを作ったことがない人間がいる。最新のスマホにアプリをインストールして新しいサービスを利用する人がいる一方で、会社以外ではPCなんて触ったことがない、という人もいる。PCインターネットの世界はわかるけれど、ガラケーが作り出したケータイ文化・ケータイサービスについては全くわからない人がいる。ツイッターを利用するにしても、情報をただ受け取るだけの人がいる一方、ランチの度に「今日のランチは○○○だなぅ」と発信している人がいる。

両者を分けるものは世代や与えられた環境というよりも(もちろんそれも全否定するわけではないが)、結局はそれぞれの「興味」「関心」の強度の違いなのだ。次々に生まれる新しい「技術」や「体験」にどのように開かれているか――そのことがITリテラシーの違いを生み出す源泉なのだろう。

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