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東京の夜景動画ブログです。

鈍色の日々

2008-06-25 13:18:26 | 撮影とテーマ設定2008~09年3月
Nihonbashi001


気持ちよい梅雨の晴れ間だった昨日とは打って変わって、今日は朝から雲が低く垂れ込め、昼前にようやくかすかに日が差したか差さないかといったところだった。毎年、梅雨時には撮影がほとんど出来ないのだが、今年も同様に昼間の撮影は開店休業状態だ。ただ、最近は夜にも撮影しているので、そちらの方が中心になりつつある。



夜の撮影は小型カメラでのストリートフォトなので、これまでとは全く異なる方法論の全く異なる作品となるのだが、実は平行して進めた時期もあったので、撮影そのものについてはある程度の勘が働かなくもない。もちろん、そうは言っても休止していた期間も相当にあり、今のところはまだ勘を取り戻しつつあるかどうかといった段階で、新しいテーマとして立ち上がったとはいえないところがもどかしい。



もどかしいといえば、最近はますます街頭での撮影に対する周囲の目線が厳しくなっており、別な意味で「勘を最大限に働かせねばならない」局面が増えたのではないかと、非常に強く思う。これには、秋葉原での一件で「オタクが事件現場の記念写真をとりまくっていた」かのように報じられたことも、少なからず影響しているのではないかと思えてならない。



しかし、これまでにも大きな事件や事故、災害などに際して「現場で記念写真を撮る人々が存在していた」のは確かだし、その数も撮影機材の普及に伴って「爆発的に増えた」のも間違いない。にもかかわらず、秋葉原の一件、モット言えばオタクのみが槍玉に上がるというのは、メディアの側にある「一定の悪意」を感じざるを得ないのだ。



さらに言えば、数年前から顕在化し始めた「市民メディア」の側においても、そういった撮影行為を不快なものとして退ける傾向があり、マスメディアであろうと市民メディアであろうと、メディアと称するものは「旧来の価値観、多数派の趣味志向」に擦り寄らざるを得ないのかと、ひどく絶望的な気分になる。特に市民メディアと自称する人々に対しては、彼らこそ「メディアの側にある悪意と対決」し、なおかつ「自由な撮影行為が保証される環境づくり」を心がけねばならないはずなのに、そういった言動がほとんど全くといってもよいほど見受けられないどころか、むしろマスメディアの側に立ってオタクを問題視するかのような姿勢が観られるのは、控えめに言っても社会に対する二枚舌だし、メディアとしての自殺といっても差し支えなかろうかと思う。



自分は自由主義を身上とするが、自らが不快に思う存在を「ただそれだけの理由で社会から排除する自由」やし、あるいは「排除されようとしているところを傍観する自由」は存在しないと思うのだ。



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