地上を旅する教会

私たちのすることは大海のたった一滴の水にすぎないかもしれません。
でもその一滴の水があつまって大海となるのです。

腹を立てる者【ドイツのスポーツはなぜいじめ・体罰がないのか 教会とスポーツ、ちょっと意外な関係】

2014-09-05 16:36:48 | 今日の御言葉



わたしは言っておく。
兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。
兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、
『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。

マタイによる福音書/ 05章 22節
新約聖書 新共同訳



お互いに、心の底から
愛し合っている人たちは、
この世でいちばん幸せ者です。
彼らは少ししか、いいえ、
まったく何も持っていないかもしれません。
 
でも幸せなのです。
すべてのことは、
どのように愛し合うかにかかっているのです。

マザーテレサ
(マザーテレサ『日々のことば』より)



★ドイツのスポーツはなぜいじめ・体罰がないのか
教会とスポーツ、ちょっと意外な関係

(第8回 日本は体育会系教育に期待しすぎ)

◆東洋経済オンライン 2014年08月06日

http://toyokeizai.net/articles/-/44522

高松 平藏 :ドイツ在住ジャーナリスト



スポーツには教育的役割があるが、ドイツでは「公正」「寛容」など、より普遍的な価値観をつかってスポーツを意義付けている。そのため、われわれにはピンとこないが、キリスト教がかかわってくるような一面もある。日本の「体育会系」と比較しながら、ドイツのスポーツを見てみよう。

体育会系に期待する日本人

「こんにちは!」日焼けした男子生徒が筆者の姿をみると、元気な声で挨拶してくれた。筆者はこの夏、日本のある高校を訪ねる機会があったのだが、校門をくぐり抜け、校内を歩いている時のすれ違いざまの出来事だ。さらにしばらく歩いていくと、スポーツバッグを持ったグループとすれ違った。それぞれが私に向かって「こんにちは」としっかり挨拶してくれる。「体育会系」の部活の生徒さんなのだろう。日本の蒸し暑い夏に、なんとも爽やかな挨拶である。この明朗快活にして礼儀正しい態度に文句のつけようはない。日本社会で共有されている人間の理想像の一部を体現している。

 日本社会では、特に高度経済成長期に顕著だったが、雇用する側にとって体育会系を重視する傾向があった。今日でも「ゆとり世代」にやきもきする企業の人事部は「やはり、体育会系をとるべきか?」と考えることも少なくないようだ。

 体育会系に染まり上がった若者に、何を期待しているのだろう。おそらく厳しい上下関係の人間関係に順応し、弱音を吐かずに、目の前のタスクを完了させようとする強い意志に期待しているのだろうか。明朗快活な挨拶はその象徴だといえよう。


社会的スキルが培われるドイツのスポーツ

ドイツでもスポーツに対する教育的期待はある。一般的にドイツにおけるスポーツは地域のスポーツクラブ(NPOと理解すると分かりやすい)のメンバーになって行うが、青少年に対しては社会的スキルの獲得といった側面での期待がある。

 社会的スキルとは、自尊感情をもつこと、責任感を伴うリーダーシップ、他者への共感、他者との協調、一定の批判能力いったことを指すが、要は社会的に妥当性のある行動がとれる能力のことである。

 人数の多いスポーツクラブでは年齢別のサッカーチームを作っていることがある。例えば10代後半のメンバーが中学生ぐらいの年齢のチームのトレーナーとして練習や試合で活躍。また中学生程度のメンバーが小学校の低学年程度の年齢のチームのサブ・トレーナーとして練習の補助を行う。そんなケースが散見される。

 筆者が住むエアランゲン市のあるスポーツクラブのサッカーの指導に長年関わっている男性は「これによって責任感が培われる」と述べる。ドイツの学校では先輩・後輩システムがないことから、スポーツクラブは社会的スキル獲得のよい機会になってくるというわけだ。

 日本の先輩・後輩システムでも学校行事や部活で下級生に対して責任を持つことが生まれやすく、それが社会的スキル獲得の訓練になる一面がある。しかし、第3回でも述べたように、ドイツのスポーツクラブでは子供から大人までメンバーがいる。日本の部活のように卒業もなければ引退もない。

 つまり人間関係が学校で完結してしまいがちな日本に比べ、ドイツのスポーツクラブのほうがより普遍的な老若男女の社交が成り立つ。やや余談めくが、主に西洋の学生に比べて、日本の学生のほうが子供っぽいといわれることがある。学校外の人間との社交が少ないことが「子供っぽさ」につながっているのかもしれない。


スポーツにもかかわる教会


ドイツ・スポーツの教育的役割の背後にあるのが、公正、寛容、平等といった社会的に普遍性のある価値観である。 実はこういった価値観はキリスト教が繰り返し確認しているものと重なる。

 昨今、毎日曜日に教会へ礼拝に出かける人はかなり少なくなったが、ドイツの社会を見ているとキリスト教の価値観が隅々にまで広がっており、学校の授業でも「宗教」の時間がある。日本で宗教というと、カルト宗教などの影響もあり、ちょっと構えてしまうようなところもあるが、ドイツの様子をみていると社会秩序に必要な「価値のOS」のようなところを担っているのだ。



バイエルン州のスポーツ連盟の分科会には「スポーツと教会」委員というものもあり、キャンプなどのイベントや山での礼拝などを行っている。職務としては教会の代表同士の意見交換、スポーツ団体や教会内で「公正、寛容、相互理解」といった価値を教えることといったことをあげている。

 エアランゲン市では市内のスポーツクラブが芝生の広場に一同に集まり、訪問者に競技の紹介や体験をしてもらう「クラブ見本市」のようなしつらえの「スポーツフェスティバル」が行われたことがある。開催されたのが日曜日だったのだが、開会式でまず行われたのが仮設舞台での礼拝。黒い僧衣で現れた牧師、ユリア・アーノルド師は「スポーツと教会」委員のメンバーの一人だ。楽団による賛美歌が演奏され、ボールを小道具にしながら説教が進められたが、強調されたのは、「公正」「寛容」「敬意」といった価値だった。


普遍的な価値をもとに


ひるがえって、日本の体育会系の若者はバスを降りるときにも「ありがとうございました」、コンビニで買い物しても「失礼します」と挨拶をする者も少なくない。明朗快活なこういった態度は確かに見ていて気持ちはいい。が、ドイツの日常生活では、スーパーで買い物するときにレジ係の人と「こんにちは」「さようなら」とごく普通に挨拶を交わす。挨拶だけに着目すると、体育会系でなければ他人ときちんと挨拶できない、というイメージがあるとすれば、それは奇妙なことでもある。

 部活における上下関係という秩序も健全に動くうちはよい。また「いちおう」上下関係があるだけで、スポーツを共通項に先輩も後輩も一緒にコロコロ笑いながら毎日を過ごすクラブはきっとよい思い出が残るであろう。

 しかし上下関係のもと、勝利のために指導者による無理なトレーニングがはびこり、いじめがおこるようでは、その「苦行」を生き延びる「勝ち組」のためだけのスポーツになってしまう。

 ここで再びドイツをみると、スポーツを通して公正、寛容、平等といった社会的な普遍的価値を身に付ける教育的期待がある。これらの価値はキリスト教という社会の「価値のOS」とも重なるわけだ。そのせいか前述のようにスポーツの祭典の開会式で礼拝が行われるのも珍しいことではない。

 日本の文科省のサイトの「体育の目的の具体的な内容~すべての子どもたちが身に付けるべきもの~」というページを見ると、フェアプレーや協力・責任に関する「態度」に言及はしている。しかし体育会系では上下関係や規律で挨拶や精神的な強さは養われるが、実際にこうした普遍的価値を強調されることは、少ないのではないか。ドイツのように信仰をもってかかわることは難しいだろうが、普遍的価値をもとにした、社会的スキルを養う場としてスポーツを捉えなおすことが大切だと思う。

(東洋経済オンライン 2014年08月06日)