地上を旅する教会

私たちのすることは大海のたった一滴の水にすぎないかもしれません。
でもその一滴の水があつまって大海となるのです。

【兄弟姉妹】差別解消の行進は終わっていない 「血の日曜日」から50年、オバマ大統領が演説 アラバマ

2015-03-14 14:47:09 | 今日の御言葉
▼キング牧師描いたアカデミー賞主題歌賞受賞作
「セルマ」6月に日本公開

http://news.ameba.jp/20150303-333/




大勢の人が、
イエスの周りに座っていた。


「御覧なさい。
母上と兄弟姉妹がたが外であなたを
捜しておられます」と知らされると、


イエスは、

「わたしの母、わたしの兄弟とは
だれか」と答え、


周りに座っている人々を見回して
言われた。


「見なさい。ここにわたしの母、
わたしの兄弟がいる。


神の御心を行う人こそ、
わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」


マルコによる福音書/ 03章 33-35節
新約聖書 新共同訳




【一つのことから】

一つのことより二つ、
三つより百、千のことと、
一つのことから他のことと
押し広めて実行し、

一日より二日、
三日より百日、千日と
努力をして功績を積み上げていけば、
どうして、
心を尽くすことが
できるようにならないことがあろうか。

必ずできるようになる。

志を立てたならば、
まず一つのことから、
思いついた
その日から始めるべきである。



(吉田松陰 『講孟余話』巻の四 中)


一事より二事、
三事より百事・千事と、
事々類を推して是れを行ひ、

一日より二日、三日より百日・千日と、
日々功を加へて是れを積まば、
豈に遂ひに心を尽すに至らざらんや。

宜しく先づ一事より
一日より始むべし。


(吉田松陰 『講孟余話』巻の四 中)





▲ 「差別解消の行進は終わっていない」
(産経新聞 2015.3.9)


★「血の日曜日」から50年、オバマ大統領が演説 アラバマ

◆CNN.co.jp : 2015年3月9日


アラバマ州セルマ(CNN) 米アラバマ州セルマで白人と平等の投票権を求めて行進する黒人のデモ隊が警官隊に弾圧された「血の日曜日」事件からちょうど50年がたった7日、流血の舞台となった橋のたもとで記念式典が開かれ、オバマ米大統領らが演説した。

オバマ大統領は演説で「われわれの行進はまだ終わっていないが、終点に近付いてはいる」と語った。

大統領は行進の参加者を「英雄」とたたえ、その行動は「非暴力の変革が可能であること、愛と希望が憎悪を克服できることを証明した」と強調した。

同事件では1965年3月7日、有権者登録の人種差別に抗議する黒人ら約600人が、セルマから州都モンゴメリーを目指して出発した。橋で待ち構えた警官隊が催涙ガスなどでデモ隊を攻撃する場面は映像や写真で報道され、全米に衝撃を与えた。


事件をきっかけに、議会では同年、人種差別の前歴がある州で選挙関連の州法を改正する際、施行前に連邦政府の審査を義務付ける法案が可決された。しかし最高裁は2013年、同法の主要部分を覆す判断を下している。

オバマ大統領は、米国の人種差別の歴史が「私たちにも長い影を落としている」と述べ、同法の復活を呼び掛けた。

7日の式典には、50年前の行進に参加したジョン・ルイス下院議員をはじめ、連邦議会から100人近い議員が出席した。ルイス議員は「この仕事を成し遂げるために全力を尽くさなければならない。やるべきことはまだ残っている」と力説した。

セルマは現在、黒人が人口の82%を占め、市民の40%以上が米政府の定めた貧困ラインを下回る生活を強いられている。住民の間には、記念式典が終わればメディアも去り、人種問題の改善は望めないとの無力感も広がっている。

(CNN.co.jp 2015年3月9日)



▲「血の日曜日」事件から50年の記念式典で演説するオバマ米大統領



★「血の日曜日」から50年 米公民権運動の現場を歩く

 
◆日本経済新聞 2015年2月27日 7:00
ワシントン支局 吉野直也



 米公民権運動の転機となった1965年の「セルマ大行進」(血の日曜日)から3月7日で50年を迎える。オバマ米大統領もその日にアラバマ州セルマを訪問する計画だ。自由と民主主義を建国の理念に掲げる米国で、なお残る人種差別の現実。2月中旬、黒人差別が激しかった南部のアラバマ、ミシシッピ両州を歩いた。


▲かつて黒人デモ隊と警官の衝突が起きたエドマンド・ペタス橋(セルマ)

 最初に訪れたのは、アラバマ州バーミングハム。綿花貿易から鉄鋼、自動車へと主要産業が変遷し、最近では最先端の医療でも知られる。英国の主要都市バーミンガムからもじったという。バーミングハムの名前を知らなくても、警官が黒人のデモ隊に消防用の高圧放水を向けたり警察犬をけしかけた場面を思い出す人は多いだろう。

 全米で公開中の黒人解放運動の指導者、マーチン・ルーサー・キング牧師の奮闘を描いた映画「セルマ」。その冒頭はバーミングハムの教会が爆破され、日曜学校の準備のためにたまたま居合わせた4人の少女がなくなるところから始まる。

■当時の黒人の有権者登録2%

 この悲劇の舞台となった16番街のバプティスト教会と道路を隔てたところに公民権協会がある。協会には当時の差別の実態を示す看板が展示されている。「White(白人)」「Colored(有色人種)」。トイレ、水飲み場、レストランから映画館など娯楽施設に至るまでこの看板に沿って白人と黒人が隔離されていたのは、わずか50年あまり前の出来事でしかない。


▲黒人差別が激しかった時代の看板が展示されているバーミングハムの公民権協会

 そのバーミングハムから車で1時間30分ほど離れた場所にセルマがある。人口は約2万人。アラバマ川に面するこの町は、綿花の積み出しで栄え、かつては黒人奴隷を供給していた。65年当時、黒人の人口は白人を上回る1万人弱だったが、有権者登録は2%にも満たなかった。

 3月7日。有権者登録を妨害されていた500人の黒人のデモ隊はセルマから州都モントゴメリーに向けて行進しようとした。セルマのダウンタウンを抜けると警官と黒人のデモ隊が攻防を繰り広げたエドマンド・ペタス橋がある。橋を渡った地点に待ち構えていた騎馬警官はデモ隊に催涙ガスを撃ち込み、ムチやこん棒で殴打した。

 多くの黒人が血だらけになって倒れ、病院に収容された。その一部始終が米メディアによって米国だけでなく、世界中に「Bloody Sunday(血の日曜日)」として報じられた。当時のジョンソン大統領はアラバマ州の警官隊を白人の州知事から取り上げ、連邦政府の指揮下に入れて行進の警護に当たると決めた。


▲公民権運動の歴史的意義を巡って、黒人のグループと懇談するオバマ大統領夫妻(1月、上中央)=ロイター

 仕切り直しとなった3月21日の行進には白人も含めて3000人が参加し、エドマンド・ペタス橋を無事通過した。セルマから州都モントゴメリーまでは約54マイル(約87キロメートル)ある。そのモントゴメリーは、セルマ大行進から10年ほど前に黒人女性ローザ・パークス氏がバスに乗った際に疲労のあまりに白人用の前部の座席に着席した事件で有名だ。

 バスの運転手は乗車してきた白人を座らせるために、パークス氏に席を譲るよう命じたが、パークス氏は拒否した。パークス氏は警官に逮捕され、その後、黒人のバス乗車拒否運動に発展した。連邦最高裁判所は翌年、バスの人種隔離は違憲との判決を出した。

■「黒人大統領はもう出ないかも」


 63年8月にキング牧師が首都ワシントンのリンカーン記念堂でした「I have a dream(私には夢がある)」の演説にはミシシッピ州に触れるくだりがある。「いつの日か、不公平と抑圧という灼熱(しゃくねつ)の炎にさらされているミシシッピ州でさえ、自由と正義のオアシスに生まれ変わるという夢が」


▲公民権博物館の建設計画で責任者を務めるジャクリーン・ダイスさん

 アラバマ州とともに黒人差別が激しかったミシシッピ州の州都ジャクソンでは公民権博物館の建設が進む。「ミシシッピ州出身の私の両親は、白人から脅され、州から出ざるを得なくなった」。2年前にジャクソンに移った計画責任者のジャクリーン・デイスさん(50)は公民権運動に身を投じた経緯をこう話した。

 ミズーリ州のセントルイスで育ったデイスさんは根強い黒人差別の現状を認めたうえで「黒人の大統領があらゆる問題を解決できるわけではない。われわれの運動が足りなかったことにも原因はある」と黒人初の大統領、オバマ氏を擁護した。オバマ氏の不人気の底流に黒人差別を感じつつ、最後に「私が生きている間にはもう黒人大統領は出ないかもしれない」と寂しそうに語った。


(2015/2/27 7:00)



【御父】東日本大震災から4年/ 復興の道半ばで急逝 米軍の教会奉仕リーダー

2015-03-13 10:44:08 | 今日の御言葉
▼涙見せず生きていく 2015.3.12



子供たちよ、
わたしがあなたがたに書いているのは、
あなたがたが御父を
知っているからである。

父たちよ、
わたしがあなたがたに書いているのは、
あなたがたが、
初めから存在なさる方を
知っているからである。

若者たちよ、
わたしがあなたがたに書いているのは、
あなたがたが強く、

神の言葉が
あなたがたの内にいつもあり、
あなたがたが
悪い者に打ち勝ったからである。


ヨハネの手紙一/ 02章 14節
新約聖書 新共同訳




天下後世、必ず私の志を継いで、
これをなし遂げてくれる人があろう。

これこそ、聖人の志と学問である。

自分の栄誉恥辱、困窮栄達、
悪口や褒め言葉や得失などは、
全て天命である。

私が問題とするところではない。


(吉田松陰 『講孟余話』巻の一)



先づ一心を正し、人倫の重きを思い、
皇国の尊きを思い、夷秋の禍を思い、
事に就き類に触れ、相共に切磋講究し、
死に至る迄まで他念なく、

片言隻語も是れを離るることなくんば、
縦令ひ(たとひ)幽囚に死すと雖も、
天下後世、必ず吾が
志を継ぎ成す者あらん。

是れ、聖人の志と学となり。

其の他の栄辱窮達、
毀誉得喪に至りては、
命のみ、天のみ、

吾(わ)が顧りみる所に非ざるなり。


(吉田松陰 『講孟余話』巻の一)



★【3・11特集】

震災から4年、岩手の教会から見た変化と課題 大塚史明 : 教会

◆クリスチャントゥデイ 2015年3月11日
>

はじめに

「あの日」から丸4年となる2015年3月11日。あの日、被災地では地の根幹が揺らされると同時に、それまで築き上げてきた人々の生活や、描いていた将来をも揺るがし、愛する家族や友、家や財産といったかけがえのない宝が根こそぎ奪われていった。三陸の人々は、震災から今日に至るまで痛みを抱えつつも、その地に住み続けている。岩手の教会は、震災直後から県外、国内外の教会や宣教団体、個人を通して多大な支援をいただき、今に至るまで活動を続けている。この機会に、支援を通して見てきた岩手のこれまでの変化と、これからの課題について共有させていただきたい。

4年間での変化

1. 人々の変化



▲在宅避難地区の人々への訪問と御用聞き、配達をするボランティア

家が被災した人の大半は避難所、仮設住宅での生活を経験している。仮設住宅は今も現在進行形で、復興住宅に移り住んだ人、自力再建した人は全体の10%にも満たない。また被災した家を修繕しながら住まう在宅避難者も多くいる。被災地での教会の働きは戸別訪問をし、必要に応えることから始められた。ボランティアが週替りで活動するが、あいさつは「教会から来ました」「クリスチャンです」と言うにとどめ、あとはひたすら被災者の話を伺うことに終始した。

そのうち、人々の方からお茶や食事をしていかないかと家の中へ迎えてくれるようになり、あるお宅はボランティアの宿泊場ともなっている。震災によって、三陸の人々は日常的にクリスチャンと関わる時間が増えている。またその関係も継続的なもので、今は集会、訪問、病院や買い物への付き添い、子どもの学習や受験勉強の手伝いなど、多岐にわたって密接な時間を過ごすようになっている。



▲被災した旅館の台所用品を洗う、各地から集まったボランティア

2. 福音への関心、応答の変化

活動を通して、三陸の人々は「なぜ、毎回来てくれるの?」「クリスチャンって何を信じているの?」「私も教会に行ってもいいの?」と福音への関心を持つように変化してきた。この変化の現れは、聖書や文書のみの伝道ではなく、顔と顔を合わせ、共に時間を過ごすことによって寄り添い、仕える姿勢が一つの大きな要因となっている。

3. 教会自身の変化

私自身は岩手の内陸部、盛岡市で開拓教会の牧師をしているが、震災前まで同じ岩手県であっても沿岸部を訪れることは観光以外では皆無であり、まして宣教地として見ることはなかった。それが、震災以来、三陸での宣教を具体的に考え、活動し、ビジョンを抱くようになった。震災は、宣教の姿勢や視点において、教会自身に大きな変化をもたらした。また、教団・教派、国内外の枠を超えて、教会が宣教のために互いに協力する、という実際の変化をもたらした。



▲学童クラブ支援の一コマ。被災後、特に子どもたちには、一緒に遊んでくれる、安心して飛びつける大人の存在が必要だった。

未解決の課題

1. 住環境、過疎地での将来図、孤独死

被災地で仮設住宅が完全になくなるのには、あと4年かかる見通しだ。復興住宅の建設が進んでいるが、その計画段階でも土地売買や道路計画など、住民の理解や一致を得るためには困難なハードルが立ちはだかっている。また、完成する復興住宅は鉄筋10階建てのマンションなど、それまで住み慣れた町の趣をなくすものともなっており、人々はそれについても寂しさを覚えている。

とかく、仮設住宅は近隣の物音や生活の様子が筒抜けで、精神的な負担も大きいと同時に、運動不足になるなど身体的な問題も数多く指摘されている。生活の基盤を失い、良い将来図を描けない人々の中には、持病のケアを怠り、アルコールやギャンブルに依存する人も少なくない。また、仮設住宅に住む高齢者の孤独死も後を絶たない。そういった人々と出会い、支え続ける息の長い働きが求められている。

2. 震災前からの課題がのしかかっている

また、被災地で人と関わることで顕著なのは、人々の抱えている問題は震災そのものがもたらしたものではなく、それ以前からの問題であるということだ。たとえば、夫婦や家族間など人間関係の問題、借金、持病、進学や職探し、将来設計に関する悩みなどである。それらに解決の光をもたらすのは、福音であり、全ての人々に神との出会いが必要である。

結び

主イエスは、ご自身のからだである教会をこの地上に立てられた。人々の問題に必要なのは福音であり、真の解決をもたらすのは地域教会である。岩手三陸は明治初期から、ニコライをはじめ、ロシア正教が着実な宣教を続け、その実を結んでいった土地でもある。また、これまで海外から来た多くの宣教師が土地を耕し、種まきをし、そして日本の教会も宣教に励んでいる地である。その三陸の宣教を、震災の経験を通して教えられた包括的な福音と教会同士の良い協力関係のもと、地道に続けていくことが大切だと考える。

(文・大塚史明=盛岡みなみ教会牧師、3・11いわて教会ネットワーク)




★復興の道半ばで急逝 米軍の教会奉仕リーダー

◆河北新報オンラインニュース 2015年3月8日



▲ジェームズさんの思い出を語り合う、木村さん(右端)とストレイカーさん(左から2番目)ら石巻クリスチャンセンターの関係者=2月24日、石巻市渡波

東日本大震災で被災した石巻市に、神奈川県の米軍座間基地からボランティアで支援に訪れていたジェームズ・コーネリアスセンさんが昨年12月、41歳の若さで急逝した。基地内の教会奉仕リーダーだった。被災地再生に力を注いだその存在は、キリスト教関係者にとどまらず、石巻の人々の心に刻まれている。

石巻を支援に訪れるキリスト教関係者の活動の拠点、渡波地区の「石巻クリスチャンセンター」で、センターのスタッフらと被災した住民が、ジェームズさんの思い出を語り合う。

「情が厚くてとても思いやりがある方だった。再生を願い行動する志の半ばで、さぞ無念だっただろう」。被災者の木村信子さん(55)が、早過ぎる死を惜しんだ。津波の跡に残った陶器のかけらなどでアクセサリーを作る活動を通じて知り合った。

木村さんはクリスチャンではない。同じ人として、自然体で心は通い合っていたという。

ジェームズさんは座間基地の知人や家族を十数人から20人ほど率いて、震災後約15回石巻を訪ねた。毎回1週間ぐらい滞在し、がれき撤去やカキの殻むきの手伝いをした。

若い米国人には、被災地の痛みをいつもしっかりと伝えようとした。昨年12月15日、基地内で散歩中に体調が悪くなって倒れ、帰らぬ人となった。原因ははっきりしないが、病死だった。

「彼の心の中には、常に石巻があった」と語るのは、震災後に米国人の夫と石巻に移り住んで支援に取り組むクリスチャンのストレイカー慶子さん(39)。

「クリスチャンセンターのスタッフにも細かく目配りしてくれた」と振り返る。
ストレイカーさんは旧約聖書の一節を思う。「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある」。石巻に情愛をささげたジェームズさんの死も「その時」だったのか-。思いをかみしめ、志を受け継ぎ再生を後押しする決意を新たにする。


(2015年03月08日日曜日)


★大震災4年:米NYで追悼式典 400人が参加 - 毎日新聞

◆毎日新聞 2015年03月09日 11時00分



▲東日本大震災の追悼式典でピアノを演奏する音楽家の秦万里子さん(中央)と合唱団=米ニューヨーク市内の教会で8日、草野和彦撮影

【ニューヨーク草野和彦】東日本大震災から4年となるのを前に、米ニューヨーク市内の教会で8日、追悼式典が催された。在留邦人らで組織する支援グループが毎年開いており、約400人が参加。ビデオレターなどで被災者の復興への取り組みや心の苦しみを知り、支援への思いを新たにした。

式典でスピーチした宮城県塩釜市の主婦、高橋匡美(きょうみ)さん(49)は、同県石巻市の実家が津波に襲われ、両親を亡くした喪失感から「何度も死のうと考えた」という。だが今では、「はいつくばってでも生きていかねばならないと思っている」と語り、大きな拍手を受けていた。

主催者代表のシンガー・ソングライター、AK(アケミ・カキハラ)さんは被災地訪問の経験を踏まえ、「遠く離れたニューヨークから『忘れていない』というメッセージを伝えたい。それが被災者の心の支えになっている」とあいさつした。

ピアノを弾きながら歌う人気音楽家、秦万里子さんは、合唱団と共に日本から参加。海外からの支援に感謝する歌「HEROES 2011,JAPAN」を披露した。


(最終更新 03月09日 11時05分)




見守っていてね。




【結婚】同性カップルでも「結婚に相当」  渋谷区が条例案発表

2015-03-06 13:10:04 | 今日の御言葉




人は父母を離れて
その妻と結ばれ、二人は一体となる。

だから、二人はもはや別々ではなく、
一体である。

従って、

神が結び合わせてくださったものを、
人は離してはならない。


マタイによる福音書/ 19章 06節
新約聖書 新共同訳



私たちのすることは
大海のたった一滴の水に
すぎないかもしれません。

でもその一滴の水があつまって
大海となるのです。


(マザーテレサ 『愛のことば』より)



★統一教会3800組が合同結婚式 
韓国・ソウル近郊

◆ZAKZAK 2015年3月4日



▲韓国で行われた統一教会の合同結婚式(AP)

 宗教団体、統一教会(世界基督教統一神霊協会)の合同結婚式が韓国・ソウル近郊で3日行われ、3800組のカップルが結ばれた。80カ国以上の参加者の中には日本からの約800人も。1992年には歌手の桜田淳子や元新体操五輪選手の山崎浩子らが参加、かつては霊感商法も社会問題化した。最近はウェブ上に登録する“婚活”方式だという。


http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20150304/frn1503041207003-n1.htm?view=pc
(ZAKZAK 2015年3月4日)



▲桑原敏武 渋谷区長 (東京都)
http://taimuri-news.seesaa.net/s/article/413941938.html

★同性カップルでも「結婚に相当」 
渋谷区が条例案発表

◆ZAKZAK 2015年02月12日


 東京都渋谷区は12日、同性カップルを「結婚に相当する関係」と認め、証明書を発行する条例案を盛り込んだ2015年度予算案を発表。条例案は3月上旬に開会予定の3月区議会に提出する。

 区によると、自治体が同性同士をパートナーとして証明する制度は全国初。性的少数者(LGBT)の権利を保障する取り組みは、他の自治体にも影響を与えそうだ。

 区議会で可決、成立すれば4月1日に施行する。証明書発行は、事務手続きなどを経て15年度内の開始を目指す。

 条例案では、男女平等や多様性の尊重をうたった上で「パートナーシップ証明」を定めた条項を明記。区は同性カップルがアパートの入居や病院での面会を、家族ではないとして断られるケースを問題視し、区民や事業者に、証明書を持つ同性カップルを夫婦と同等に扱うよう求める方針だ。

 憲法は婚姻を「両性の合意」のみに基づいて成立すると規定している。証明書に法律上の効力はなく、区は「全くの別制度と考えている」としている。

 渋谷区は昨年、有識者らによる検討委員会を立ち上げ、LGBTの区民からも聞き取りをして条例の内容を検討してきた。

http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20150212/dms1502121204005-n1.htm
(ZAKZAK 2015年02月12日)



▲27日、米ユタ州ソルトレークシティーで開かれた末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)の記者会見(ゲッティ=共同)

◆モルモン教が同性愛容認 
世論の変化、宗教にも

★共同通信 2015年01月29日 15:27


 【ワシントン共同】

末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)は29日までに、同性愛者の権利を擁護する法律を支持すると発表した。同性愛者に寛容になっている米世論の劇的な変化の波が、宗教にも及んできた。

 本部のユタ州ソルトレークシティーで27日、教会幹部が記者会見。新方針は「性別や性的指向などに基づく迫害をわれわれは認めない」とうたい「信仰の自由を侵害しない限り」と条件を付けた上で同性愛者への差別を是正する法整備を一定の範囲で支持する考えを表明した。

 ただ結婚は男女間のものであるとする教義の転換を意味しないとして同性婚は今後も容認しないことを強調した。


http://www.47news.jp/smp/CN/201501/CN2015012901002959.html
(共同通信 2015年01月29日)



▲『我らの不快な隣人』米本和広 (写真)

家族のための家族による
家族のための拉致監禁


http://yonemoto.blog63.fc2.com/?sp

【語り合い】空港・教会・マンホールと島じゅう椿だらけ! 五島列島の椿が生んだ“美髪伝説”

2015-02-28 03:53:27 | 今日の御言葉
『手紙 ~拝啓十五の君へ~』歌 アンジェラアキ




詩編と賛歌と霊的な歌によって
語り合い、主に向かって
心からほめ歌いなさい。

エフェソの信徒への手紙/ 05章 19節
新約聖書 新共同訳




ごうまんで、ぶっきらぼうで、

利己的になるのは、
いともたやすいことです。


でも私たちは、

もっとすばらしいことのために、
つくられているのです。


マザーテレサ

(マザーテレサ『愛のことば』より)








★空港・教会・マンホールと島じゅう椿だらけ!
五島列島の椿が生んだ“美髪伝説”検証レポート:観光編

★ガジェット通信 2014年11月21日



九州の最西端・長崎県の西100kmに位置する“五島列島”。中通島、若松島、奈留島、 久賀島、福江島の5つの大きな島をはじめ、18の有人島と111の無人島で構成された自然豊かな五島列島には、女性必見の美のルーツがあるのだとか。そのキーワードは「椿」。

長崎の県花でもある椿からとれる“椿オイル”は髪の毛やお肌に使えばしっとり、酸化しにくいオレイン酸が豊富でも健康にも良い万能オイル。椿オイルを日常的に使っている五島列島には“美髪伝説”が? 今回筆者は実際に五島列島に訪れ、椿オイルの魅力や椿を育む五島の自然、名所を巡ってきました。3回に分けてお届けする“五島列島・椿旅レポート”第一弾は、五島列島の観光名所をご紹介します。

※すべての画像は(http://getnews.jp/archives/698937)よりご覧ください。






五島つばき空港こと、福江空港に降り立つと至るところに椿の装飾が。



マンホールにも椿の絵が描かれており、五島列島は椿だらけ。

昔から椿の原生林や自生地が群生しており、椿は島の花にもなっています。五島ではこれまでに約50種類の椿の銘花が発掘されていますが、その中で、もっとも有名なのが1947(昭和22)年に発見された“玉之浦(たまのうら)”。“玉之浦”は濃紅地に白覆輪の中輪で、世界的な名花として知られています。

また、新上五島町には、北部・津和崎米山地区の個人宅にしか咲いていないピンク色の“ヤブツバキ”があります。それまで特に名前はありませんでしたが、2014(平成26)年3月に“上五島つばき大使”に就任された華道家の假屋崎省吾さんにより、“Shogo(ショーゴ)”という名前が命名されました。これは、五島列島でしか見れない美しいヤブツバキをもっと多くの人に知ってもらいたいという想いから名付けられたそう。椿の花が咲くのは3~5月で今回筆者は見ることができませんでしたが、次回五島を訪れる時には美しい椿の花を楽しみたいです。



五島列島には多くのカトリック教会が点在していて、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録を目指す取り組みがされています。



中でも“堂崎教会”(正式名称:堂崎天主堂)は1908年に建てられた歴史ある教会。現在は“堂崎天主堂キリシタン資料館”として、布教時代から迫害を経て復活に至る信仰の歴史が展示されています。



建物の中には美しいステンドグラスが。

ヨーロッパの教会ではバラの花が 飾られますが、五島では椿の花や葉や実が、柱や壁や天井にまで建物のあらゆるところにあしらわれています。一枚ずつデザインが少しずつ違っていて、これが100年以上前に建てられた教会だとは驚きです。



また、五島列島は最近映画のロケ地としても有名に。妻夫木聡さん、深津絵里さん主演映画『悪人』の撮影に使われ、印象的なシーンに登場する灯台には今もロケ地巡りで訪れる映画ファンが。2015年2月公開予定の新垣結衣さん主演映画『くちびるに歌を』の撮影にも使われており、ポスターが飾られていました。





この美しい海と山からなる豊かな自然は、日常の喧噪を忘れてリラックスできること間違いなし。筆者もかなり癒されてまいりました。港町だけあって、ニャンコもたくさんいましたよ。





そして、至る所で売られている椿オイルと椿オイルを使った商品たち。椿オイルを使ったキャンディなど、椿オイルが人々の生活に根付いていることが分かります。これまで髪の保湿に使うイメージしかなかったのですが、今回の旅で椿オイルのさまざまな使い方を知ることができました。“五島列島・椿旅レポート”第二弾は“美容編”として、椿オイルを使ったスパ&エステをご紹介します。

(http://getnews.jp/archives/699167)





★ヘッドスパ&エステに名物料理にも“椿オイル”が! 

五島列島の椿が生んだ“美髪伝説”検証レポート:美容編

◆2014/11/27(木)17:00 ガジェット通信



“椿オイル”が生み出す“美髪伝説”を検証するために、九州の最西端・長崎県の西100kmに位置する五島列島を訪れた筆者。前回は「観光編」と題し、空港、教会など、椿だらけの五島列島の街並みをご紹介しました。

今回は「美容編」として、椿オイルを使ったヘッドスパやエステなど、文字通り“肌で感じて”来ましたので、体験レポートをお届けします。


まず訪れたのはヘッドスパ専門店“モンテ・カンゲ”。八窪(はちくぼ)ルミさんは、東京で18年間美容師として活躍。その後、慶應大学の地域起業家養成研を受け、実家である五島市の美容院“しらゆり美容院”の中にこちらのサロンをオープン。「モンテ・カンゲ」とは五島の方言で、モンテ=揉む・ほぐす、カンゲ=頭という意味なんですって。

ほぼ365日毎日パソコンを使い、常に肩こり症の筆者はよくヘッドスパを利用するのですが、椿オイルを使った施術ははじめて。それもそのはず、ヘッドスパに椿オイルを使ったのは八窪さんが日本初! 東京から技術を学びに来る美容師さんもいらっしゃるそう。

温めた頭皮にたっぷり椿オイルをたらし、しっかりとマッサージ。指通りの良い椿オイルのおかげで髪がつっかかる事もなく、とても気持ち良くてついうとうと……。終わった後はシャンプー&ブローをしてもらって、髪がツヤツヤに生き返りました。

八窪さんによると、髪のスタイリングに椿オイルを使うと、その人それぞれの悩みを解消してくれるのだとか。コシのない髪にはコシが出て、爆発しやすい髪はしっとりとまとまる。さらに、シャンプーなどの科学成分で頭皮が荒れていた方が改善されたり、血行が良くなる事で薄毛・白髪にも効果が。なんて万能なオイルでしょう!

100%五島産の椿オイルを使った約70分のヘッドスパはシャンプー・ブロー込みで3000円! 五島だから実現できた超お得プライスです。この夏、映画のロケで訪れた某人気女優もこのヘッドスパがお気に入りで、滞在中何度も利用したそうですよ。

【モンテカンゲ】

長崎県五島市栄町1-43しらゆり美容院内
電話番号:080-1793-5588
営業時間:10:00-18:00/月曜休
http://www3.city.goto.nagasaki.jp/contents/living/detail.php?content_id=2984&category_id=774


続いては、カフェ&エステサロン“バンブー”を訪問。こちらでは手作りスイーツやカレーやパスタを食べたり、お店のオリジナル椿オイル『雫』を使ったエステを受けることができます。

まずは、エステを受ける人、一人一人の毎日のスキンケアや肌状態、悩みをカウンセリングシートに書き込みます。

エステルームは広々としたスペースで、リラックスして施術を受けられます。

使われるのは、4回精製されたオリジナルの椿オイル。これはセラピストの竹村美保子さんがこだわり「椿オイルそのままだと肌なじみが悪かったりもしますが、この純度の高いオイルだとどんな肌質の方にも合います」と自信を持っているオイル。エステ中は、フワフワの泡で洗顔をしてもらい、この椿オイルでマッサージ。これまた気持ちよ良すぎてうとうと……。

施術後は自分のお肌がしっとりプルプルになっていることにビックリ。最近ひどい肌荒れに悩まされている筆者ですが、天然のオイルなら肌に負担をかけずに安心してエステを受けられます。竹村さんにも「市販されている化粧品はどんなに肌に優しく作ったとしても、どうしても化学成分が入ってしまいます。椿オイルならその不安がありませんし、ニキビ肌の方も安心ですよ」とアドバイスいただきました。

店内には、竹村さんが開発したオリジナルブランドの椿オイル『雫(しずく)』が販売されています。これは「古くさいイメージを持たれがちな椿オイルをオシャレなイメージに変えて、多くの方に使って欲しい」という想いからデザインされています。無香料のナチュラルや、ラベンダー、ローズと香りが楽しめるものまで種類豊富。石けんやシャンプーも並んでいます。

また“バンブー”では食用油も販売しているのですが、近所の方はマイボトルを持って、こちらの巨大容器から量り買いしているのだとか。竹村さんにオススメの椿オイルレシピを聞くと「椿オイルと卵料理は相性抜群」とのこと。五島列島では、髪や肌など外からだけではなく、体の中から椿オイルを取り入れているのですね。

【バンブー】

長崎県五島市吉田町2498
電話番号:0959-75-0412
営業時間:10:00-19:00/火曜休
http://www.bamboo-tsubaki.com/


髪もお肌もリフレッシュした後、夕食に五島列島名物“五島うどん”をいただいたのですが、素麺とうどんの中間のような優しい舌触りとツルンとしたのどごしが抜群。このうどんにも椿オイルが使われていて、これが美味しさの秘訣。おみやげにたくさん買って帰りました。

ヘッドスパ、エステ、そして食事でも椿オイルの魅力を感じた筆者。こんなに色々使えるスーパーオイル・椿オイルってどうやって作られているの? 次回は椿オイルを生産する工場の見学レポートをご紹介します。

(http://news.nicovideo.jp/watch/nw1339714)





★無添加・椿オイルは昔ながらの製法でこうして作られる! 

五島列島の椿が生んだ“美髪伝説”検証レポート:工場編

◆ガジェット通信 2014.12.09 17:00 記者 : 藤本エリ


“椿オイル”が生み出す“美髪伝説”を検証するために、九州の最西端・長崎県の西100kmに位置する五島列島を訪れた筆者。「観光編」「美容編」と五島列島に根付いた椿文化を体験して来ました。食べて良し、美容に良しの椿オイル。三回目となる今回は「工場編」と題し、椿オイルがどうやって作られているのかを見学してきました。

美容マニアも夢中! 知る人ぞ知る椿オイルの聖地“今村精油所”



今回お邪魔したのは“今村製油所”さん。山々に囲まれた非常にのどかな場所にあるのですが、こちらで作られた椿オイルには多くのファンが。



日本最大級の化粧品口コミサイト『@コスメ』でも、クチコミ評価7点満点中、6.3点という驚異の高評価! アイテムカテゴリーも、スキンケア・ボディケア・ヘアケアと多岐に渡って登録されていて、そのオールマイティぶりが分かります。





雑誌などメディアにも度々取り上げられ、テレビの取材が入ることも。俳優の六角精児さんの写真も飾られていました。

無添加で素材を大事に。椿オイルができるまで



それではどうやって椿オイルができるのかを見ていきましょう。椿は冬に開花した後、緑色の小さな実をつけ、半年かけて実り、9月に収穫の時期を迎えます。戦前は、島内のいたるところに椿オイルを搾油する工場があり、実を持って行くと椿オイルと交換してくれたそうで、今でも9月頃になると、椿の実を採取する島民の姿が見られるとのこと。

精油の方法は工場によっての違いがありますが、五島市で80年以上続く“今村製油所”では、下記のように昔ながらの“玉締め式”という圧搾法で椿オイルをつくっています。



殻を取り、天日で5日ほど乾燥させた椿の実。中の黒い実を取り出し、手作業で選別。粉砕機にかけて小さな粉にします。



粉砕した椿実を蒸気で20分ほど蒸し上げます。蒸し加減が椿オイルの良し悪しを大きく左右するそう。



蒸した椿実が熱が冷めないうちに、玉締機という機械にしっかり詰め込みます。ゆっくり圧力をかける“玉締め式”で圧搾。余分なモノを抽出しない圧搾方法です。



化学薬品や添加物は使わず紙だけでろ過。搾りかすは天日干しして肥料になるとのこと。椿に捨てるところなしですね。



丁寧に丁寧に絞られた椿オイルはキラキラで濁りのない純度が高いもの。口に入れることができるから、美容に使っても安心ですね。



この今村製油所で生まれた椿オイル、実は資生堂のヘアケアブランド『TSUBAKI』にも使われています。女子なら誰でも一度は使ったことのある、あの『TSUBAKI』ですよ! 普段はシャンプーやトリートメントの成分を気にすることはあまりありませんが、こうしてきちんと選ばれた原料が使われていると知ると嬉しいですよね。

今回の三回に渡る「五島列島“美髪伝説”検証レポート」いかがだったでしょうか。五島列島の豊かな自然と、あたたかい人々によって守れてきた“椿オイル”文化。乾燥が気になるこれからの季節はもちろん、筆者はこの取材をきっかけに椿オイル生活を続けて行こうと思います。皆さんも『TSUBAKI』など、身の回りの椿オイルアイテムから取り入れてみてはいかがでしょうか?


【今村製油所】

長崎県五島市平蔵町3783番地
http://imamura-camellia.p2.bindsite.jp/index.html [リンク]


TSUBAKI | 資生堂
http://www.shiseido.co.jp/tsubaki/



(http://getnews.jp/archives/704122)




映画「くちびるに歌を」公式サイト

主演 新垣結衣 2.28 公開


【行い】小中高37校が参加「2015キリスト教学校合同フェア」3/21

2015-02-26 19:39:26 | 今日の御言葉
▼映画『動乱』(1980) 主演 高倉健 吉永小百合

第1部「海峡を渡る愛」
第2部「雪降り止まずは」





同様に、娼婦ラハブも、
あの使いの者たちを家に迎え入れ、
別の道から送り出してやるという
行いによって、
義とされたではありませんか。

ヤコブの手紙/ 02章 25節
新約聖書 新共同訳




時間の使い方は、
そのままいのちの使い方。

置かれたところこそが、
今のあなたの居場所なのです。

「こんなはずじゃなかった」と
思う時にも、その状況の中で
「咲く」努力をしてほしいのです。



(『置かれた場所で咲きなさい』渡辺和子)






ウソをついているのはこの口か❗️

【朝日慰安婦報道】

★「プロパガンダで国際社会に
『強制連行あった』の事実誤認を拡散」 外部の独立検証委が報告書


◆産経新聞 2015年2月19日 14:46



▲朝日新聞の「慰安婦報道」に対する
独立検証委員会の検証結果が発表された
=19日午後、東京都千代田区
(蔵賢斗撮影)
 


朝日新聞の慰安婦報道に関し、外部の立場から検証を進めてきた「朝日新聞『慰安婦報道』に対する独立検証委員会」が19日、東京都千代田区で記者会見し、報告書を公表した。報告書では、平成3年から4年1月にかけての朝日新聞の慰安婦報道を「プロパガンダ(宣伝)」とし、プロパガンダによって国際社会に「強制連行があった」などの事実誤認が拡散し、日本の名誉を傷つけ続けていると結論づけた。

 同紙の慰安婦報道をめぐっては、朝日新聞社から依頼を受けた第三者委員会が昨年12月に報告書を公表。朝日新聞の慰安婦報道が国際社会に与えた影響について、「慰安婦問題の誇張されたイメージ形成に力を持った」「影響は限定的だった」などとする委員による検証結果を提示したが、独立検証委は「朝日の責任を回避する議論に終始した」と指摘した。

 第三者委の報告書が、朝日新聞に「強制性」をめぐる議論のすりかえがあったことを指摘したことについては、「核心に触れる批判をした」と肯定的に評価。一方で、第三者委の報告を受けた朝日新聞社の対応については、「朝日はその批判を『重く受け止める』というのみで、受け入れていない」と批判した。


 そのうえで、朝日新聞社に対し、「『プロパガンダ』と『議論のすりかえ』がどの様なプロセスで作られていったのか、記者、デスク、担当部長、社長らの責任を、実名を挙げて明らかにすることを求める」と提言。政府には専門部署と民間の専門家による有識者会議の設置を求めた。

 独立検証委の委員長を務める京都大学の中西輝政名誉教授は会見で、「1992(平成4)年1月に『強制連行プロパガンダ』が集中的に行われた。ここに朝日新聞の慰安婦問題の影響があらわれている」と述べた。


(産経新聞 2015.2.19 14:46)



▲『置かれた場所で咲きなさい』
渡辺和子 (幻冬社)


※渡辺和子氏が9歳の時に
自宅の居間で、1mの距離で、
父 (渡辺錠太郎=当時 教育総監)が
青年将校に襲撃され、
43発の銃弾を浴びて、
亡くなるのを目のあたりにする。
(「二・二六事件」 1936年 2.26)



★小中高37校が参加「2015キリスト教学校合同フェア」3/21

◆リセマム 2015年2月11日(水) 10時15分


カトリック学校とプロテスタント学校合同の「2015キリスト教学校合同フェア」が3月21日(土・祝)に開催される。会場は青山学院高等部校舎(渋谷区渋谷)。事前予約不要で入場は無料。

同フェアは、今回で4回目を迎えるキリスト教小学校・中学校・高等学校37校による合同説明会。キリスト教学校の魅力を伝える特別講演のほか、参加校各校による5分間スピーチリレー、個別相談ブース、無料資料配布コーナーなど、キリスト教学校の学校選びに役立つプログラムが組まれている。

主なイベント内容は、ノートルダム清心学園理事長の渡辺和子氏による特別講演、フェア参加中学校・高等学校が女子校、男子校、共学校ごとに5分ずつリレー形式で行う参加校スピーチリレー、小学校個別相談ブース、中高入試よろず相談、無料資料配布など。

事前予約、参加費ともに不要のため、当日気軽に参加できるフェアとなっている。

◆2015キリスト教学校合同フェア
日時:2015年3月21日(土・祝)9:50~14:00
会場:青山学院高等部校舎(東京都渋谷区渋谷4丁目4-25)
参加費:無料

【参加校】

函館ラ・サール中学高等学校(北海道)
暁星中学・高等学校(東京都)
白百合学園中学高等学校(東京都)
東洋英和女学院中学部・高等部(東京都)
頌栄女子学院中学校・高等学校(東京都)
普連土学園中学校・高等学校(東京都
聖学院中学校高等学校(東京都)
女子聖学院中学校高等学校(東京都)
青山学院中学部・高等部(東京都)
恵泉女学園中学・高等学校(東京都)
目黒星美学園中学高等学校(東京都)
聖ドミニコ学園中学高等学校(東京都)
玉川聖学院中学部・高等部(東京都)
光塩女子学院中学科・高等科(東京都)
立教女学院中学校・高等学校(東京都)
立教池袋中学校・高等学校(東京都)
晃華学園中学校高等学校(東京都)
サレジオ中学校(東京都)
明治学院中学校・東村山高等学校(東京都)
聖パウロ学園高等学校(東京都)
サレジオ工業高等専門学校(東京都)
桜美林中学校・高等学校(東京都)
東星学園中学校・高等学校(東京都)
カリタス女子中学高等学校(神奈川県)
聖ヨゼフ学園中学校・高等学校(神奈川県)
横浜雙葉中学高等学校(神奈川県)
横浜女学院中学校・高等学校(神奈川県)
横浜共立学園中学校高等学校(神奈川県)
浦和明の星女子中学・高等学校(埼玉県)
不二聖心女子学院中学校・高等学校(静岡県)
暁星小学校(東京都)
白百合学園小学校(東京都)
青山学院初等部(東京都)
聖ドミニコ学園小学校(東京都)
田園調布雙葉小学校(東京都)
カリタス小学校(神奈川県)
清泉小学校(神奈川県)

《畑山望》


(小中高37校が参加
「2015キリスト教学校合同フェア」3/21 | リセマム)
http://resemom.jp/article/2015/02/11/22846.html





▲韓国軍に慰安婦制度 (2002.2.24 朝日新聞)

【婚礼の客】ミラノ…須賀敦子 文才育んだ「霧の街」

2015-02-25 22:15:04 | 今日の御言葉
▼「梅の香に 福島ほっこり」
(福島県伊達市 2015.2.24)




イエスは言われた。

「花婿が一緒にいる間、

婚礼の客は悲しむことが
できるだろうか。

しかし、花婿が奪い取られる時が来る。
そのとき、彼らは断食することになる。


マタイによる福音書/ 09章 15節
新約聖書 口語訳




他人の過ちや、
罪深いすべてのものに目を閉じ、
神の美徳をさがす
(目の沈黙)


ゴシップや告げ口、
無慈悲な言葉等の声に耳をふさぎ、
神の声や貧しい人の叫びに耳を傾ける
(耳の沈黙)


暗さや動揺、
苦しみを引き起こす
すべての言葉をつつしみ、
私たちを啓発し、鼓舞し、
平安や希望や
喜びをもたらす神の真理の言葉、
イエスの言葉を口にする
(舌の沈黙)


うそや混乱、破壊的な考え、
軽率な評価、他人への誤った疑い、
復讐心、さまざまな欲望などに
精神を閉ざし、祈りと黙想において
神の真理と知識に精神を開く
(精神の沈黙)


すべての自分本位の考え、
憎しみ、うらみ、ねたみ、
欲ばりを避け、私たちの心、魂、
精神、力において神を愛し、
神が愛するように人を愛する
(心の沈黙)


マザーテレサ 

(『愛のこころ最後の祈り』より)




★ミラノ…須賀敦子 文才育んだ「霧の街」 :

新おとな総研 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

◆読売新聞 2015年2月24日




▲ミラノ旧市街にそびえるドゥオーモ(大聖堂)。広場から続く目抜き通りに、サン・カルロ書店はある(伊北部ミラノで)=青木佐知子撮影



▲1961年、コルシア書店で本に囲まれている須賀敦子
(河出書房新社提供)


イタリアを題材にしたエッセーや翻訳で知られる作家、須賀敦子は、30歳代を伊北部ミラノで過ごした。

カトリック信者だった須賀は、日本文学のイタリア語訳を手がける傍ら、教会の刷新運動にも加わった。

ローマから列車で北に向かうと、乳白色の霧に包まれた平野が現れ、ミラノに近づいたことを教えてくれる。買い物客でにぎわうミラノの目抜き通りにたたずむ教会の軒先に、その小さな書店はあった。

コルシア・デイ・セルヴィ書店。1960年、須賀はこの書店を切り盛りしていたジュゼッペ・リッカと出会い、翌61年に結婚した。

「本の陳列棚は当時のままだ。月に2、3人は日本人が来るよ」

店員のジローラモ・カッラーロさん(67)が、隣接する教会の物置を改装して作られたという、細長い店内を見せてくれた。60年代当時、書店は教会の近代化を求める「カトリック左派」の拠点だった。カトリック系の女学校などで学んだ後、神学を学ぶためにローマに渡った須賀も、こうした書店の活動に興味を持ち、ミラノに移り住んだ。

須賀は著作「コルシア書店の仲間たち」で、教会の変革に燃える聖職者や編集者らが議論を交わしたコルシア・デイ・セルヴィ書店を、「ごったまぜの交流の場」と記した。サン・カルロ書店に看板が変わった今も、多くの須賀ファンが訪れる。

大学生の頃に書店に通い、その後、書店を手伝ったジャンアンドレア・ピッチョリさん(73)は、「アツコは洞察力に優れていた」と振り返る。「議論を取り仕切るタイプではないが、口を開けば魅力的な発言をした」

須賀は63年、伊出版社の依頼で、川端康成や谷崎潤一郎の作品の翻訳を始めた。友人で、ローマ・サピエンツァ大学のマリアテレーサ・オルシ教授は「私が日本文学に熱中して研究者になったのは、彼女の翻訳作品のおかげ。言葉の微妙な意味の違いに敏感だった」と語り、須賀の「ミラノなまり」のイタリア語をしのんだ。

リッカが41歳の若さで病死した後、須賀は東京に戻り、教会の慈善活動として廃品回収を始める。だが帰国前の須賀は、信仰に生きる道と、文学への憧れのはざまで揺れていた。「日本へ帰って教会の手助けなどするより創作の道を歩きたい思いに駆られる」

当時の日記に、こうつづった須賀だが、やがて文学研究の道に進み、大学の教壇に立った。90年、イタリア生活を追懐した初の著作「ミラノ 霧の風景」を出版。61歳の新人のエッセーは、柔らかで精緻な文体が賛嘆された。帰国から19年後のことだ。

コルシア書店を手伝ったピッチョリさんは、須賀の生き方を「彼女は常に、より困難な道を選んだようだね」とたたえた。時の熟成を経て、研ぎ澄まされた文章。だからこそ、読者の心にしみるのだろう。(文と写真 青木佐知子)


須賀敦子(1929~98)

兵庫県芦屋生まれ。カトリックの聖心女子学院で学ぶ。1953年、24歳でパリ留学。58年、ローマ留学。13年のイタリア滞在を経て、71年に帰国。西洋文学の講師や伊文学の翻訳を手がけ、89年、上智大学教授に。初の著作「ミラノ 霧の風景」が、講談社エッセイ賞と女流文学賞をダブル受賞。98年、心不全で死去。生前に出版された著作は5冊ながら、今も人気が高い。東京のイタリア文化会館は昨年、功績を顕彰し、「須賀敦子翻訳賞」を設立した。

2015年02月24日 08時30分 Copyright © The Yomiuri Shimbun



【定め】東京マラソン名物・ キリストランナーことララバイ、 今年は出場せず

2015-02-23 05:14:13 | 今日の御言葉
▼手書きにこだわり。こいのぼり
(埼玉県草加市 2015.2.19 )






こういうわけで、わたしたちもまた、
このようにおびただしい証人の群れに
囲まれている以上、すべての重荷や
絡みつく罪をかなぐり捨てて、

自分に定められている競走を忍耐強く
走り抜こうではありませんか。


ヘブライ人への手紙/ 12章 01節
新約聖書 新共同訳



すべての宗教は、永遠なるもの、
つまりもうひとつの命を信じています。


この地上の人生は
終わりではありません。

終わりだと信じている人たちは、
死を恐れます。

もしも、死は神の家に帰ることだと、
正しく説明されれば、

死を恐れることなどなくなるのです。



マザーテレサ 

(『日々のことば』より)






防犯の都合上、出走が認められなかったらしい…。


★東京マラソン名物・
キリストランナーことララバイ、
今年は出場せず

◆ガジェット通信2015年02月22日 07:00


東京マラソンをイエス・キリストを彷彿とさせるコスプレで疾走することで有名な、ロックバンド「ザ・チャンバーズ」のボーカリスト・ララバイが、2月22日(日)に開催される「東京マラソン 2015」に出場しないことがわかった。

ザ・チャンバーズはOTOTOYニュースの取材に対し「ララバイは今年の東京マラソンには出場せず、現時点では4月26日にロンドンで行われるロンドンマラソンに出走を予定。その凱旋ライブとして5月1日(金)に新宿レッドクロスでザ・チャンバーズ企画のイベントをおこなうことを予定している」と答え、ララバイが当初より今年は東京マラソンへの出場を予定していなかったことを明らかにした。

ララバイは例年、東京マラソンに出場して十字架を背負いながら寒空の下をキリストを彷彿とさせるコスプレで疾走することで知られており、沿道の見物客だけでなく出場ランナーからも写メで目撃報告をツイートされることでおなじみとなっている。筆者も2012年の東京マラソンに出場して完走したのだが(自慢)、その際に品川の折り返し地点で実際にララバイとすれ違った。沢山のコスプレランナーがいる中でも、思わず2度見してしまう別格のインパクトがあったことを覚えている。それだけに今年は不出場というのは非常に残念だが、本業のバンドマンとしての活躍に期待しよう。

ザ・チャンバーズは2月21日(土)渋谷aubeでおこなわれるライヴ・イベントに出演するので、東京マラソンファンの方は、バンドマンとしてのララバイの雄姿を確かめにライヴ・ハウスに足を運んでほしい。(岡本貴之)

・ザ・チャンバーズ オフィシャル・ウェブサイト
http://www.thechambers.jp/

◆ザ・チャンバーズ出演ライヴ情報

〈THE SOFT PARADE~JOSY 2nd single”LASER BEAM” release party~〉
2015年2月21日(土)渋谷aube
OPEN/START 16:00/16:30
ADV/DAY 2000円/2500円(+1D)
w/乱舞虎 / ザ・チャンバーズ / 廃人トニック006 / 鼻ホームランの森 / THE STEPHANIES / Riff / The Muddy Dogs


http://getnews.jp/archives/828148
(2015.02.22 07:00 OTOTOY カテゴリー : エンタメ タグ : OTOTOY)





▲平成27年2月22日 (日) 産経新聞号外

ネゲセV 東京マラソン 女性はディババ



★殺害直前に後藤健二さんの脳裏に
おそらくよぎった詩編

佐藤優 直伝「インテリジェンスの教室」


◆現代ビジネス 2015年2月19日



▲〔PHOTO〕gettyimages

「キリスト教徒の死生観」


【コメント】

1.―(1)

過激組織「イスラム国」による後藤健二氏の殺害をめぐって、さまざまな議論が展開されているが、後藤氏がプロテスタントのキリスト教徒であったことを考慮しないと、分析を誤る。

1.―(2)

例えば、2月4日、自民党の高村正彦副総裁は、<後藤健二さんが外務省から昨年9月以降、3回の渡航自粛要請を受けたにもかかわらず、中東の過激派「イスラム国」の支配地域に入り殺害されたことに「真の勇気でなく、蛮勇とも言うべきものであったと言わざるを得ない」と述べた。党本部で記者団に語った。/高村氏は、後藤さんがイスラム国の支配地域に入る前に「自己責任だ」と述べたことに触れ「個人で責任を取りえないようになることもありうる」と指摘した。>(前掲)。高村氏は、後藤氏の内在的論理を理解できないために、「蛮勇」という否定的評価をするのである。

2.―(1)

後藤氏は、日本基督教団に所属するプロテスタントのキリスト教徒だ。筆者も同じ教団に所属するプロテスタントなので、後藤氏の宗教人としての内在的論理を理解することができる。

(略)

イエス・キリストは、99匹の羊を野原に残してでも、迷った1匹の羊を探すべきだと言った。「イスラム国」に湯川遥菜さんが捕らえられたとき、誰も本気で彼を助け出そうとしなかった。後藤氏には、「誰もやらないのならば、君がやらなくてはならない」という神の声が聞こえたのだと思う。

2.―(2)

突然、心の中に聞こえてくる神の声をキリスト教徒は重視する。後藤氏の場合、湯川氏を捜すことが召命と思えたのである。だから、外務省の渡航自粛要請を無視したのだ。キリスト教徒にとって、神からの召命の方が国家の要請よりも上位に立つからだ。

3.―(1)

2014年5月30日付の日本のキリスト教系メールマガジン「クリスチャントゥデイ」に、後藤氏のインタビューが掲載されている(インタビュー「国際ジャーナリスト・後藤健二~それでも神は私を助けてくださる~」)。これを読むと後藤氏の信仰がよくわかる。

後藤氏は洗礼を受けたときの事情についてこう述べる。<「もし、取材先で命を落とすようなことがあったとき、誰にも看取られないで死ぬのは寂しいかなとも思いました。天国で父なる主イエス様が迎えてくださるのであれば、寂しくないかな…なんて、少々後ろ向きな考えで受洗を決意したのは事実です」と後藤さん。しかし、当時の牧師に「われわれの信じる神様は、われわれが死ぬときのためにいらっしゃるのではないのですよ」と咎められ、はっとした。>

後藤氏は、取材先での死を意識してキリスト教徒になった。ジャーナリストとの職業的良心とキリスト教徒としての信仰的良心をできるだけ重ね合わせるようにして生きてきたのだと思う。

3.―(4)

後藤氏は、黒装束のテロリストによって首にナイフを当てられたときも、うろたえず、まっすぐ前を向いていた。そのとき、心に刻み込んでいる詩編が脳裏をよぎったであろう。

<見よ、神はわたしを助けてくださる。
主はわたしの魂を支えてくださる。
わたしを陥れようとする者に災いを報い
あなたのまことに従って
彼らを絶やしてください。
主よ、わたしは自ら進んでいけにえをささげ
恵み深いあなたの御名に感謝します。
主は苦難から常に救い出してくださいます。
わたしの目が敵を支配しますように。>(「詩編」54編6~9節)


キリスト教徒にとって、死がすべての終わりではない。イエス・キリストを信じる者は、死から復活し、永遠の命を得ると信じている。・・・(以下略)


佐藤優直伝「インテリジェンスの教室」Vol.054
(2015年2月13日配信)より
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/42134#
(現代ビジネス [講談社] 2015年2月19日)





▲平成27年2月1日 産経号外



【救うもの】いま注目“明治の大阪の玄関地”そびえる 大正モダン 日本聖公会・川口基督教会

2015-02-18 06:34:06 | 今日の御言葉
▼100年間お疲れ様でした (2015.2.18)



あらゆる汚れやあふれるほどの悪を
素直に捨て去り、
心に植え付けられた御言葉を
受け入れなさい。

この御言葉は、
あなたがたの魂を救うことができます。


ヤコブの手紙/ 01章 21節
新約聖書 新共同訳




だれにでも、沈黙し、
黙想する時間が必要です。

私はいつも沈黙のなかで
祈りをはじめます。

神は静寂の友です-
私たちは神の声に耳を
かたむける必要があります。


祈りは魂を満たしてくれます。

そして、人間は、祈ることで
神に近づくことができるのです。

祈ることで、あなたは清らかで
純粋な心を与えられるのです。

マザーテレサ

(『マザーテレサ語る』より)





▲レンガ造の構造は阪神淡路大震災で
塔などが大きな被害を受けたが
復元された(撮影・西岡潔)


★【都市を生きる建築(27)】
いま注目“明治の大阪の玄関地”そびえる
大正モダン 日本聖公会・川口基督教会

◆産経新聞 2015年2月15日 産経WEST

第23回で取り上げた大阪教会の工事や、第25回の江戸堀コダマビルを請け負った岡本工務店の創設者・岡本新次郎は、1885(明治18)年に大阪の泉北で生まれ、東京で建築を学んだ後に建築家・辰野金吾の事務所と住友の営繕課で修業し、1910年に岡本工務店を設立した。そんな岡本の手がけた建築を、もうひとつ紹介しよう。西区川口に建つ日本聖公会川口基督教会だ。

川口教会のある川に囲まれた川口は、明治時代に大阪港が開港して設けられた居留地だったエリアで、各国の領事館や商館、邸宅などの洋館が立ち並び、モダンな街並みが広がっていた。また対岸の江之子島には大阪府庁や市役所が設けられ、一帯は海から運ばれてきた物資の流通拠点として賑(にぎ)わった。一時期、大阪の中心はここにあった。

川口教会はそんな居留地に設立された聖テモテ教会を源流にもつ教会で、現在の聖堂は1920(大正9)年にアメリカ人建築家ウィリアム・ウィルソンによって設計された。ゴシック様式をもとにしたイギリス積みレンガ造で、塔の頂部のデザインや、先の尖(とが)った尖頭アーチなどにその特徴がうかがえる。礼拝堂の天井は木造の小屋組を露出させたオープン・ルーフで、はさみのように交差する9対のシザーズ・トラスが屋根を支える。

かつては大阪の玄関口として栄え、モダン文化の発信地であった川口だが、中之島図書館や中央公会堂などが保存されてレトロエリアとして人気の中之島東部などと比べると、西部の人通りはまばらでエリアの再生整備も立ち遅れている。


しかしこの地域もまた川口教会をはじめ、かつて港湾で賑わったことを伝える住友倉庫や、アートセンターとして再生した旧工業奨励館、そして戦後の都市居住のあり方を示した川口ビルディングや、小ぶりだが清廉なモダニズム建築の旧大阪税関富島出張所など、優れた建築資源が集中するエリアである。

この2月には水と光の首都大阪を目指すプロジェクトの一環として、川辺の空地にフィッシャーマンズマーケットがオープンするなど、将来の賑わい拠点づくりに向けた動きも始まった。今後、川口教会はエリア全体の文化的、そして歴史的なランドマークとして、新たな役割を担うことになるだろう。

(高岡伸一/建築家・大阪市立大学特任講師)

(いま注目“明治の大阪の玄関地”そびえる大正モダン 日本聖公会・
川口基督教会 - 産経WEST 2015.2.15 13:00更新)
http://www.sankei.com/west/news/150215/wst1502150012-n2.html



▲礼拝堂の屋根は
木造のシザーズ・トラスによって
支えられている
(撮影・西岡潔) 2015.2.15 13:00





『救国のレジリエンス』藤井聡 (講談社 写真)

「列島強靭化」でGDP900兆円の日本が生まれる。



【藤井聡「都構想問題」声明文】
「権力による言論封殺には屈しません」(H27/2/7) - YouTube






▲ 2015.2.18 (記事)


検索ワード 今日のみことば 教会
京都大学 大学院 土木工学 内閣官房参与
維新の会 橋下徹 自民党 住民投票
議会制民主主義の否定
国土強靭化 都市計画 松井石根 大将
東京駅の柱 モニュメント 南京
虐殺は終戦後、米軍放送で知った
歴史戦 超限戦 中国共産党

【負担】「平壌を再び朝鮮のエルサレムに」 同性愛とキリスト教と北朝鮮

2015-02-16 07:11:45 | 今日の御言葉
▼「場内空っぽ。兵隊どころか住民も」2015.2.15


信者の婦人で身内にやもめがいれば、
その世話をすべきであり、
教会に負担をかけてはなりません。

そうすれば教会は
身寄りのないやもめの
世話をすることができます。

テモテへの手紙一/ 05章 16節
新約聖書 新共同訳



私たちは愛してほしいと願う前に
まず、多くの人を愛していきたいと
願わなければいけません。
神様は
無条件に愛することを
私たちに教えていらっしゃるのです。



★【北朝鮮の同性愛事情-6-】
「平壌を再び朝鮮のエルサレムに」
同性愛とキリスト教と北朝鮮


◆DailyNK Japan(デイリーNKジャパン)2015年2月3日




▲「同性愛は消滅すべき罪悪」などと書かれたプラカードを持った保守キリスト教団体のメンバーが大邱(テグ)クイア・パレードの参加者と衝突している。(画像:読者提供)

連載企画「北朝鮮の同性愛事情」は今回で最終回。最後は「もし北朝鮮が開放されて同性愛が流れ込んだら何が起きるのか?」というテーマについて、現代韓国の同性愛事情とキリスト教の関連から考察してみたい。

▼平壌は「朝鮮のエルサレム」

同性愛に反対し憎悪を煽る韓国のプロテスタント。そもそも韓国にはなぜクリスチャンがこれほど多いのだろうか。

「朝鮮のエルサレム」かつての平壌はそう呼ばれるほどクリスチャンの多い街だった。

19世紀末、福祉や教育分野に進出して布教を進めていたキリスト教だが、クリスチャンの数が爆発的に増えるきっかけとなったのは1907年に起きた平壌大復興だった。

これは平壌のとある教会で、宣教師と教会の指導者が公開の場で涙を流しながら懺悔を行っていたことをきっかけに、信者が急増したという出来事だ。1945年以前の朝鮮半島のクリスチャンの3分の2は現在の北朝鮮に集中していた。

金日成氏の父の金亨稷(キム・ヒョンジク)氏はミッションスクールの崇実(スンシル)学校(現在ソウルにある崇実大学校の前身)を卒業したクリスチャンだ。

母の康盤石(カン・バンソク)氏は平壌にあった長老派系のチルゴル教会の康敦煜(カン・ドヌク)長老の娘だ。「盤石」という名前は使徒ペテロにちなんでいる。


金日成氏の叔父で後に北朝鮮の副主席を務めた康良煜(カン・ヤンウク)氏も牧師だった。金日成氏自身もクリスチャンで中学2年生までは熱心に教会に通っていたと言われている。

朝鮮民主主義人民共和国の成立と朝鮮戦争をきっかけに北朝鮮にいた多くのクリスチャンが弾圧を逃れて韓国へと逃げてきた。1960年台には100万人程度だった韓国のクリスチャン(プロテスタント)人口は現在では1200万人に達している。

1200万人と言えば人口5000万の韓国においては非常に大きな影響力を持つ。韓国国内の最大宗派の長老派教会は非常に保守的で、政治的には「宗教右派」として影響力を行使する。

アメリカの長老派教会が同性婚を認めたことに対して「聖書の言葉をより固く守り、信仰の暮らしへと信者を導くべきアメリカ最大の長老教団がむしろ聖書の権威を無視してそれに反する決議を行ったことは到底許されることではない」と激しく非難し、同性婚認定の撤回を要求している。



▲朴元淳ソウル市長の発言に抗議して市庁舎で座り込み抗議を行う人々(画像提供:@torirun)
「同性愛」をめぐる激しい社会対立


同性愛をめぐっては、最近起きた「ソウル市民人権憲章」をめぐる混乱で対立が改めて表面化した。

12月10日の世界人権の日に発表予定だった「ソウル市民人権憲章」。性的マイノリティへの差別禁止を謳う条項が入っていたが190人からなる市民委員会では圧倒的多数でこれを承認した。

ところが、これに保守キリスト教団体が猛反発。反対を押し切ると見られていた人権派弁護士でリベラルなソウル市の朴元淳(パク・ウォンスン)市長は、市民委員会の議決を「合意」ではないという理由で無効化した上で、キリスト教団体に「同性愛を支持しない」と語ったのだ。

市長の態度の豹変に、同性愛者の団体のみならず300もの市民グループも猛反発。発言の撤回を求めてソウル市庁舎で300人が座り込み連日連夜の抗議活動を行った。10日後、朴市長は「皆さんが傷つかれたことに申し訳なく思っている」と謝罪に追い込まれた。

このように韓国では社会における性的マイノリティの存在をめぐり厳しい対立が繰り返されているが、「プロテスタント=宗教右派」がその火に油を注いでいるのだ。その右派には一部の脱北者団体も加勢している。

▼脱北者とキリスト教の親和性

脱北者の多くは韓国にやってきてクリスチャンとなりプロテスタントの教会に通うようになる。プロテスタントが脱北者支援に積極的という理由もあるだろうが、北朝鮮が掲げる「唯一思想体系」とキリスト教の「一神教」が似ていることから、惹きつけられるという理由が大きいようだ。

脱北詩人のト・ミョンハク氏は韓国のTV朝鮮に対して次のように語っている。

「脱北して聖書を初めて読むと『北朝鮮はキリスト教を真似して私たちを騙していた』ことにすぐに気づいてしまう。だから教会の雰囲気やキリスト教のあり方が脱北者の心を揺さぶるのだ」

韓国のプロテスタントは、今でも命がけで信者を北朝鮮に送り込んでいるが、そのモチベーションとなっているのは「朝鮮のエルサレム」再建だ。

北朝鮮が開放され、統一されたら堰を切ったように朝鮮半島北部に流れこんで「金氏王朝」からキリスト教国家に塗り替えてしまうパワーを持っている。

同時に、韓国から様々な情報が流入し、自分が同性愛者であることに気づく北朝鮮の民衆も大勢現れるだろう。その時、同性愛をめぐって新たな対立が生じるであろうことは想像に難くない。

2035年の平壌の旧金日成広場。同性婚を求める性的マイノリティと「ホモは許さない」と叫ぶキリスト教信者が衝突する。まさに今の韓国と全く変わらない状況が北朝鮮に出現するかもしれない。

(了)

【北朝鮮の同性愛事情-6-】「平壌を再び朝鮮のエルサレムに」同性愛とキリスト教と北朝鮮 | DailyNK Japan(デイリーNKジャパン)
http://dailynk.jp/archives/34110






★後藤さんはキリスト者だった

◆世界日報 2015年2月5日
オピニオンの「ビューポイント」




▲アンマン市の風景(2014年5月10日、アンマンで撮影)

ヨルダンのパイロットがイスラム過激テロ組織「イスラム国」によって焼殺されたというニュースは世界を再び震撼させている。オバマ米大統領、オランド仏大統領、メルケル独首相ら世界の指導者たちは一斉に「イスラム国」を批判し、「絶対に許さない」と表明している。メルケル首相は「人間がどうしてあのような酷いことができるか分からない」と呟いたという。イスラム国の蛮行を目撃する度に同じように感じる人は多いだろう。

ヨルダンの首都アンマンに昨年取材し、多くの新しい知人と出会った当方はヨルダンからのニュースが気になった。政府や国民は「イスラム国」に対して報復を宣言しているという。ヨルダンは人工国家と言われ、小国家だ。アンマン国際空港やホテルにはフセイン前国王、アブドラ現国王、そしてその息子アブドラ皇太子の3人の肖像画が掲げられている。パレスチナ人難民が多数を占め、地理的にも同国は中東の緩衝地的な役割を果たしている。親米国家であり、イスラエルを容認している数少ないアラブ国家だ。

「イスラム国」がジャーナリストの後藤健二さん(47)と引き換えにヨルダンの刑務所に収容されている女性自爆テロリストの釈放を要求したと聞いた時、正直言って少し変だな、と感じた。女性自爆テロリストは「アルカイダ」幹部の未亡人というが、アラブで拘束中の女性テロリストの釈放の為に人質交換を要求すること自体、普通ではない。目的はヨルダンを揺さぶり、政情を不安定にすることが狙いだったと見ている。

アンマンからの情報によると、ヨルダン当局はパイロットの殺害の報復として、拘束中の複数の過激派テロリストを処刑したという。ヨルダン政府、国民の心情は理解できるが、報復では問題は解決できない事は明らかだ。

いつものように、バチカン放送独語電子版を追っていると、「彼はキリスト者だった」というタイトルの記事に出会った。「イスラム国」に殺害された後藤さんのことが紹介されていたのだ。殺害された後藤さんが敬虔なキリスト者だったことを初めて知った。当方には、後藤さんの生前の発言を読んで理解できなかった部分があったが、その真意が少し理解できたように感じた。

「後藤さんがキリスト者だったから特別だ」という気持ちはさらさらない。後藤氏が神を信じ、イエスのような生き方をしたいと願っていた日本人ジャーナリストだったことを知って、当方は改めて後藤さんの発言を振り返ってみた。「戦争のない世界」を夢見てきたという後藤さんは単なる平和主義者の発言ではなく、神の世界を夢見ていたことが分かった。人質となっていた友人湯川遥菜さん(42)を解放するために危険な地域に取材に出かけたのは、後藤さんの心の中に“イエスに倣って”歩んで生きたい、という熱い思いがあったのだろう。

バチカン放送は後藤さんがカトリック信者か、プロテスタントかは書いてないが、そんなことはどうでもいいことだろう。後藤さんは1997年にキリスト者になったという。幼児洗礼で信者となった人ではなく、人生を歩みだした後、神に出会った人なのだろう。

悲しいことは、後藤さんが無神論者によって殺されたのではなく、“アラーを唱え、神の国を願う”イスラム過激派テロリストによって殺害されたという事実だ。後藤さんにとって、一層辛かったことではないか。神の名を乱用する者から神を一刻も早く解放することが後藤さんの願いに応えることにもなるのではないか。


編集局 2015/2/05 コラム
[ウィーン発コンフィデンシャル]



▲2014年9月11日 産経新聞号外
朝日「命令違反で撤退」
吉田調書 記事取消し 「慰安婦」でも謝罪



検索ワード: 産経新聞 号外 統一 捏造
平成26年 韓国 朝鮮 共和国 アーカイブ
教会 キリスト 東海 竹島 独島 独裁 犯罪



【生きながらえ、】氷点下10度の海で信者ら沐浴 露全土、130万人が参加へ ロシア正教の伝統行事

2015-02-11 01:06:15 | 今日の御言葉
▼自分のチョコ「一番高く」(日本橋高島屋=東京都中央区)



すなわちわたしは、

きょう、あなたにあなたの神、
主を愛し、その道に歩み、
その戒めと定めと、
おきてとを守ることを命じる。

それに従うならば、
あなたは生きながらえ、
その数は多くなるであろう。

またあなたの神、
主はあなたが行って取る地で
あなたを
祝福されるであろう。


『‭申命記』‬ ‭30‬章16節 旧約聖書 口語訳‬






★氷点下10度の海で信者ら沐浴 露全土、
130万人が参加へ ロシア正教の伝統行事 - 産経ニュース

◆産経新聞 2015年1月19日


ロシア正教会が、キリストが洗礼を受けた日とされる「主の洗礼祭」を祝う19日、ロシア各地の凍結した海や川、湖などで信者らが斎戒沐浴する伝統行事があった。同日は水が聖水に変わり、飲んだり浴びたりすることで無病息災につながると信じられている。

極東ウラジオストクでは、凍結したアムール湾の氷を十字にくりぬいた特設会場を設置。18日深夜に正教の聖職者が祈りをささげ水に十字架を浸した後、水着姿の男女が次々と氷の浮かぶ海水に入った。

気温は氷点下10度前後で、寒さに大声を上げたり、水中で十字を切ったりする姿も。非常事態省は、ロシア全土3千カ所で約130万人が沐浴すると予測。救急隊員らが待機する会場以外では冷水に入らないことや、自らの身体能力を過信しないよう呼び掛けた。(共同)




▲「主の洗礼祭」を祝う行事で祈りをささげる
ロシア正教会の聖職者と、海に入る信者
=18日、ウラジオストク(共同) 2015.1.19 09:55




★(特派員メモ)悩みが冷水で昇華? 

@ウラジオストク 中川仁樹


◆朝日新聞 2015年2月10日9時30分

 零下10度の夜空の下、水着姿の人々が次々と氷混じりの水に入っていく。全身をいったん水中に沈め、上半身を出して十字を切る。これを3度繰り返す。

 ロシア正教で1月19日は、キリストの洗礼にちなむ洗礼祭。ウラジオストクでも、凍った海に十字の特設プールが設けられ、聖職者が清めた「聖水」の中で、多くの人が祈りを捧げた。

 印象的だったのが、初参加の若者の多さ。オリガ・アルピビナさん(29)は「悩みがあって初めて挑戦した。言葉にならないほど素晴らしい体験だった」と感激した様子で話した。

 ロシア全国でも、今年の参加者は150万人以上と昨年から20万人増えた。ソ連崩壊後、ロシアでは欧米文化の導入が進んだ一方、ロシア正教のような伝統的な価値観を見直す動きも若者の中に広がっているという。

 「理屈で考えるのではなく、体験すれば素晴らしさが分かるよ」と、私も挑戦を勧められたが、厚手のコートを脱ぐ勇気はとてもなかった。いまは、風呂で冷たい水でも浴びて、体を鍛えるべきか思案している。(中川仁樹)


★再びアジアを征服しようとするカトリック - News - 社会・歴史

◆The Voice of Russia (ボイス オブ ロシア日本語版) 2015年1月20日


ローマ法王フランシスコは今回の訪問の半年前に韓国を訪れた。ローマ法王の韓国訪問は25年ぶりだった。バチカンはなぜ今、これほどアジアに関心を持って いるのだろうか?東洋学者で歴史家のウラジーミル・コロトフ氏は、欧州におけるカトリック教会の権威失墜が理由だとの考えを表し、次のように語っている。

「欧州におけるカトリック教会は、深い危機に陥っている。西洋社会の完全なる道徳的水準の低下、キリスト教を含む宗教的聖人の愚弄などが見受けられる。バチカンはこれらの状況の中で、世界的発展の牽引役であり、巨大な人的および物質的ポテンシャルを有しているアジアへ関心を向けずにはいられないのだ。しかしアジアにとってカトリックは敵であり、残酷で、無慈悲なものだ。カトリックはアジアで、植民地支配と一緒に進歩を遂げた。カトリックの主な目的は、地元住民の宗教的アイデンティティを変え、民族精神や抵抗する意思を抹殺することだった。カトリックに改宗させられた原住民たちは、争わず、ストライキも起こさず、解放運動を組織することもなかった。カトリックへの改宗の最初の犠牲者となったのがフィリピン人たちだった。16世紀、征服者たちはカトリック教徒になることを拒否した人たちを全て殺害し、カトリックを受け入れた人々で傀儡政権の未来のメンバーを形成した。未だにアジアの外交力はカトリック教徒たちに頼っている。例えば、ベトナムの親米傀儡政権の全指導者がカトリック教徒だったのも、偶然ではない。しかし、バチカンにとって再びアジアを征服するのは容易なことではないだろう。カトリックは、大乗仏教が信仰されているアジア諸国でしか根付いていない。小乗仏教が広まった国では、カトリック導入の試みは成功しなかった。」

アジアにおけるカトリックの主な伝道者となったのは、イエズス会だった。イエズス会員たちは、「カラー革命」や気に入らない政権の転覆を準備している人々が現在使用している技術を用いた。欧州におけるバチカンの基盤が崩れ去ろうとしている今、バチカンは、大きな人的および経済的資源があるアジアへ、自分たちの使節団を派遣している。


| vostok@ruvr.ru

(The Voice of Russia (ボイス オブ ロシア日本語版) 2015年1月20日)





▲『世界を操る支配者の正体』 (馬渕睦夫)


【帰還】日本の正教会信者のための記憶と追悼の教会が建てられる

2015-02-09 23:59:19 | 今日の御言葉
▼産経 2015.2.8 記事(北方領土の日 「2月7日」 )



特にお願いします。
どうか、わたしがあなたがたのところへ
早く帰れるように、祈ってください。

ヘブライ人への手紙/ 13章 19節
新約聖書 新共同訳




つつましい仕事から
離れてはいけません。

こういう仕事はだれもしようと
しないからです。


仕事が小さすぎるということは
ありません。


わたしたちはとても小さいので、
小さいやり方で物事を見ているのです。


たとえ、わたしたちがだれかのために、


ちょっとしたことをしたとしても、
全能の神は、すべてを
偉大なこととして見てくださいます。


偉大なことができる人たちは、
世の中にたくさんいます。


けれど、
つつましい仕事をする人たちは、
ほんとうに少ないのです。


マザーテレサ

(マザーテレサ『日々のことば』より)






★日本の正教会信者のための記憶と追悼の教会が建てられる
- News - 文化 -

◆The Voice of Russia (ボイス オブ ロシア) 2015年1月22日


今年、福岡県宗像市にロシア正教会の教会ができる予定。対馬海峡の沿岸部に位置する宗像市は、110年前の1905年5月、露日戦争を終結に導いた海戦の場となった。対馬沖海戦では、4830人のロシア人が命を落とした。ロシア海兵の遺体は、潮の流れに乗って宗像市近郊の浜辺に打ち上げられ、地元の漁師たちによって埋葬された。


日本人たちは、自分の国と戦った兵士であったにもかかわらず、仏教の原則に従ってロシア人兵士たちの遺骨を土に返した。宗像市の大島には、対馬沖海戦の慰霊碑が建立されている。そしてここに、アルタイの建築家たちが設計を担当した、木造の正教会の教会も建設される予定だ。

同プロジェクトを立ち上げたのは、フョードルさんという名の日本人。フョードルさんは、ロシア人女性と結婚し、キリスト教を受け入れ、ロシア名も授かった。教会の設計を担当することになったのは、アルタイのバルナウルにある建築スタジオの責任者ピョートル・アニシフォロフさん。アニシフォロフさんは、南極大陸の正教会の教会を設計した建築家として知られている。アニシフォロフさんは、宗像市の教会のための敷地が気に入ったという。日本から帰国したアニシフォロフさんは、次のように語っている。

「私は日本から帰ってきたばかりです。プロジェクトは既に合意を得て、敷地は正教会の教会のために特別に購入されました。これはロシアの木造建築となりますが、もちろん現地の気候状況と文化的伝統が考慮されます。教会のまわりは伝統的なロシア的概観となりますが、私たちは日本の習慣も考慮します。例えば日本人は教会に入る前に靴を脱ぎます。私たちはこの特性も考慮に入れました。また、現地の地震環境もそうです。教会は、アルタイ地方の杉で建てられることが決まりました。建築資材の準備は、近いうちにも始まります。教会はアルタイ地方で建設され、その後、解体されて、極東経由で日本へ運ばれます・それまでに日本では、地元の要求を考慮しながら基礎がつくられます。これは、記憶と追悼の教会となります。そしてこれは、対馬沖海戦で戦死したロシア海兵の記憶をとどめることへの貢献にもなるほか、今も彼らの墓を守り続けている日本人への感謝のしるしにもなります。私はこの依頼をすぐに受け入れました。なぜなら人間関係における情の深さや温かさは、私たちの世界で最も価値のある重要なものだからです。そしてこのようなヒューマニズムの非常に貴重な例は、大切に残し、後世に伝える必要があるからです。」

教会は、聖ニコライ・イポンスキー教会としてきよめられる。ニコライ・イポンスキーは、19世紀半ばに日本へ正教をもたらし、日本正教会を創建し、東京に復活大聖堂(ニコライ堂)を建設したロシアの宣教師だ。アニシフォロフさんは、今年の秋にも、宗像市に正教会の教会が出来上がるとの見方を示している。


| vostok@ruvr.ru





★日本海海戦で戦死したロシア水兵を
追悼し教会を日本で建立へ

◆ 2015年1月30日 ロシアNOW


日本海海戦で戦死したロシア水兵が葬られている日本の墓地の敷地内に、木造の正教教会が建立される。インテルファクス通信が、ロシースカヤ・ガゼータ・ウィークリー(シベリア版)の報道として伝えた。

アルタイ地方の設計事務所が担当

 教会建立は、アルタイ地方のピョートル・アニシフォロフ建設事務所の設計に基づいて行われる。敷地は既に、地元の信者たちにより買収、登記が済んでいる。信者の中には、ロシア出身者が少なくないという。

 建材には、アルタイ産のセイヨウスギを使う予定。シベリアのカラマツは、南極での教会建立に際しても使用されているが(このプロジェクトにも、同設計事務所が参加している)、日本の気候には合わないという。教会はまずバルナウル市で組み立てられ、分解された後、ウラジオストクに搬送される。

 教会の基礎部分は、日本人が建設する。地震の多発、強風、時化を考慮し、教会の高さは10m以下になる見込み。


(2015年1月30日 ロシアNOW)




▲読売新聞 1950年12月12日 (朝刊)

ソ連侵攻で31万人未帰還者。

(外務省発表)






【愛に歩みこと】進化論を信じぬ人たち

2015-02-06 20:32:14 | 今日の御言葉



愛とは、
御父の掟に従って
歩むことであり、

この掟とは、
あなたがたが
初めから聞いていたように、
愛に歩むことです。

ヨハネの手紙二/ 06節
(新約聖書 新共同訳)



あなたは
この世にのぞまれて生まれてきた
たいせつな人

あなたがなんであり
どこの国の人であろうと
金持ちであろうと
貧乏であろうと
それは問題ではありません。

あなたは
同じ神さまがおつくりになった
同じ神さまのこどもです。


マザーテレサ

(マザーテレサ『愛のことば』より)





▲『創造論の世界』久保有政 (徳間書店)

聖書から生まれた先端科学

★進化論を信じぬ人たち - 西日本新聞

◆2015年02月05日
(最終更新 2015年02月05日 17時15分)


米国人の31%が「人間と他の生物は最初から現在の姿で存在してきた」と考えているという結果を、米世論調査機関ピュー・リサーチセンターが発表した。また24%が「人間の進化が神によって導かれた」と信じている。

米国ではかつて、公立学校でダーウィンの進化論を教えるかどうか、あるいは神による創造論を基にした創造科学を教えるかどうかをめぐり、論争が続いた。テネシー州やアーカンソー州の反進化論法が違憲と判断された後も、両方を教える授業時間均等法をつくる州が出現。1980年代に「創造科学は科学でない」という判断が出て、やっと決着した。

だが近年は、生命がより高次の知的存在によって設計されたとする考え方が生まれ、これを提唱しているキリスト教保守派が教育に取り入れることを要求している。

同センターの一昨年の調査では民主党支持者の67%が進化論を信じていたが、共和党支持者は43%。科学研究の最先端でありながら、市民レベルでは信仰や政治信条が科学の判断基準の基となる不思議な国だ。 (井手)



▲『荒れ野の40年』ワイツゼッカー(写真)

★ワイツゼッカー氏 貫いた過去への眼差し:社説
・コラム(TOKYO Web)

◆東京新聞 2015年2月3日


ワイツゼッカー元独大統領が亡くなった。欧州連合(EU)の理念が揺らぐ今こそ、ドイツの負の歴史に常に向き合い、欧州の平和的統合を説き続けた象徴的指導者の言葉に耳を傾けたい。

祖父は州首相、父は外務次官、兄は著名な物理学者というドイツの名門。それでいて身に付いた気さくさ。政治家というより言葉による伝道師を思わせた。

「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目になる」。よく知られる戦後四十周年の議会演説はその白眉だろう。政治活動の半面、生涯を通してドイツ福音主義信徒大会の指導的役割を担い続けた。数々の演説を貫く過去への眼差(まなざ)し、人道、平和主義に基づく現代社会への鋭い問いかけは、第二次大戦、冷戦体制崩壊という二つの「戦後」の復興を担ったキリスト教的価値観に立脚していた。

回想録「四つの時代」の中で、「キリスト教」の名前を冠している政党に入ることの意味を、ルターの教えに言及しながら「欠陥があるわれわれへの戒め」と述べているのも、その表れだ。

理想主義的な言動は、政治上の実質的な権限を担う政権内から折に触れて批判の対象となった。特に十六年の長期政権を通じ、絶大な権力を誇示したコール元首相とは度々衝突、大統領の退任後、党籍剥奪問題にまで発展したこともある。発覚したコール氏の金権体質を徹底して批判したのも大統領だった。

退任後は、国連の機構改革の委員に名を連ねる一方、ドイツ連邦軍改革委員長として軍縮小の改革案をまとめるなど活躍。中日新聞社主催の戦後五十年企画で一九九五年訪日するなど度々来日した。

九九年、二十世紀を総括する企画で本紙に登壇願った。ワイツゼッカー氏は、世界が今後直面する課題は政治的な民主主義、経済的な競争力、社会的な人間的紐帯(ちゅうたい)の三つをいかに共存させるかという点にあると指摘、欧州統合の理念はそこに至る歴史的な実験、との思いを語っていた。

「欧州が二十一世紀の世界にもたらし得る貢献の最大のものは、平和裏に統合を進めるプロセスとしてのEUだ」。すでに拡大、深化の大きな分岐点を迎えていたEUを語る口調には強い思いが込められていた。

欧州統合の危機は、統合の理念を語る指導者の不在に起因するといわれる。ワイツゼッカー氏の死去により欧州が喪(うしな)うものはあまりにも大きい。


(ワイツゼッカー氏 貫いた過去への眼差し:社説・コラム(TOKYO Web))



▲『黄金の拘束衣を着た首相』三橋貴明
(飛鳥新社)

<マクロ経済政策入門>
黄金の拘束衣を着た首相

【御子】イスラム国の蛮行で暴かれる「韓国が知られたくない恥史」

2015-02-02 22:32:49 | 今日の御言葉


万物は、天にあるものも
地にあるものも、

見えるものも見えないものも、
位も主権も、支配も権威も、
みな御子にあって造られたからである。

これらいっさいのものは、
御子によって造られ、
御子のために造られたのである。


‭コロサイ人への手紙‬ ‭1‬章16節
新約聖書 口語訳




あなた方が泣き悲しむ時、
そこには神様の悲しみが
あなた方と共にあります。

あなた方が無限に幸福を感ずる時、
神様もまた、無制限に
幸福を感ずるのです。

ですから私たちが
歓喜の勝利を得るために
前進を重ねる時、
神様もその時
喜びを感じておられることを
私たちは知るのです。

その神様の愛とその力で、
私たちは前進するのです。

私たちの前方には、
希望と喜びが、あるのみです。




▲石堂順子氏 (写真) 笑顔 !?


【野口裕之の軍事情勢】イスラム国の蛮行で暴かれる
「韓国が知られたくない恥史」


★産経新聞 2015年2月2日 06:00



▲1950年6月の朝鮮戦争勃発直後、
金浦空軍基地に到着した
ダグラス・マッカーサー元帥を迎える
李承晩・韓国初代大統領(右)。

李氏はこのころ、
“危険分子”として大量の民間人や政治犯の処刑を命じ、
犠牲者は60万~120万人ともいわれる
 


イスラム過激武装集団《イスラム国》と韓国が、小欄の頭の中で混ざり合った。両者に共通するのは「民主主義とは異質な法治体系」の他「歴史への常軌を逸した執着」ではないか。片や歴史を遡り、現代の主権国家枠を否定。片や歴史を遡り、主権を捏造し人権否定を覆い隠す。と、考えを整理していた1月23日、イスラム国の蛮行がきっかけで、日韓併合(1910年)の正統性や、百ウン十万と報じられてもいる韓国政府が行った自国民大虐殺など、「韓国が知られたくない哀史/恥史」へと筆を走らせる仕儀と成った。

独立認めなかった米国

 1月23日。イスラム国が拘束したジャーナリスト、後藤健二氏(47)のご母堂(78)は会見で、父親が日韓併合時代、朝鮮・馬山(マサン)に駐屯した大日本帝國陸軍の部隊長だった旨示唆した。調べると、朝鮮軍管区の馬山駐屯直轄部隊指揮官(中佐)がご母堂と同姓だったが、追加取材はしなかった。小欄の興味は、会見が誘った朝鮮軍管区を通して思い出した「韓国の哀しい生い立ち」にある。


https://mobile.twitter.com/kohyu1952

 大日本帝國は1945年8月15日、大東亜戦争(1941~45年)敗戦を国民に知らせた。無政府状態を憂う朝鮮総督府は《朝鮮建国準備委員会》設置を比較的冷静・公平に対処できる朝鮮人指導者に要請した。ソ聯軍侵攻→朝鮮人政治・思想犯の釈放・流出→朝鮮共産化→日本人への掠奪・暴行…が想定され、朝鮮人釈放や治安維持への協力を取り付ける意図もあった。だが、自治組織に過ぎぬ委員会は45年9月6日《朝鮮人民共和国》を樹立し“独立”を宣言してしまう。

 一連の流れの中で、朝鮮総督の阿部信行・陸軍大将(元首相/1875~1953年)や朝鮮軍管区司令官の上月良夫・陸軍中将(1886~1971年)が総督府はじめ主要な建物から日章旗を降ろし、太極旗(現韓国国旗)を掲揚させる。

 しかし“独立宣言”直後、進駐した米軍は太極旗を降ろさせ、日章旗を再び掲揚させた。米軍の軍政が本格的に始まるや、日章旗が星条旗へと付け替えられた。なぜか-

 米国は日章旗掲揚で朝鮮=日本だと公認。軍政に正当性を持たせた。朝鮮が別国家ならば解放したことになり、解放後は統治を朝鮮に任せる過程を生む。従って終戦直後、米軍上陸前の統治を総督府に密命した。治安も朝鮮軍管区や日本の官憲に担わせた。上陸後も、日本人官吏は相当期間軍政を支援、治安も軌道に乗るまで日本側が協力した。日本側の統治能力や軍紀を大いに評価していた背景も在った。反面、米国は当初、朝鮮人を軍政より徹底的に遠ざけた。朝鮮人の軍政登用は牛歩で進められた。なぜか-



強弁だけの「抗日戦」

 統治能力欠落や、度を超した自己主張、激高しやすい民族性に加え、偏狭な民族主義者や共産主義者が入り乱れ、一致団結して建国に邁進するまとまりに欠けている…など。こと朝鮮人に関し米国の学習能力は高かった。実際45年秋、30もの朝鮮人軍閥が警察署や新聞社、企業・工場・商店を勝手に接収。米軍は武装解除を強制したが効果は限られた。政党や政治結社も200近くにのぼり、指導者は内部抗争を繰り返し暗殺・テロが横行した。そも朝鮮人民共和国ですら中華民国に建てた韓国臨時政府と対立。2つの“政府”それぞれの内部でも抗争に明け暮れた。米国は朝鮮人の政党も政治活動も全く認めなかったのに、この有り様。

 斯くなる混乱では、38度線の北側に陣取るソ聯軍に対する力の均衡維持は覚束ない。米国の最重要課題はソ聯の半島支配阻止で、南朝鮮独立は副次程度の認識だった。米国は、曲がりなりにも内閣・政府を通じ権力を行使した日本と同じ統治形態ではなく、韓国に直接軍政を敷いた正解を噛み締めた。

 しかも朝鮮人は戦前~戦中~戦後と、日本に向けまともなゲリラ抗戦も民族蜂起も起こしていない。むしろ帝國陸軍内の朝鮮人高級軍人の武勇は目覚ましく、触発された朝鮮人が志願兵募集に殺到した。42年と43年の場合、募集各4000/6000名に25万5000と30万人超が受験。競争倍率63/50倍が裏付ける朝鮮人の戦意に日本=朝鮮一体を確信する米国専門家もいた。

 韓国が「日帝を打ち負かして独立を勝ち取った」と強弁しようと、独立は日本敗戦3年後。米国は聯合国による長期の半島信託統治を描いたが、北朝鮮に統一国家を建設する動きを見せたソ聯に対抗、韓国の独立実施を大きく前倒しした。日本ではなく、日本に勝った米国に棚ぼた式で譲ってもらったのだ。



無辜の民を大虐殺

 哀れ韓国は「歴史の不完全燃焼」に身悶えるだけでコンプレックスを癒やせない。制御不能な嫉妬の炎は“歴史の新作”を次々ひねり出すエネルギー源と化す。半面、取り憑かれたような情念で日本を「口撃」している間は、不都合な史実は目立たない。韓国の為政者の反日カードは国家戦略であり続ける。

 《国民保導連盟事件》も反日の激しさで埋没させたい超弩級の傷。会見で具体名が出た「馬山」も事件の舞台だった。

 保導連盟とは、共産主義者が転向し、韓国に忠誠を誓う人々と家族を再教育・統制すべく立ち上げられた思想保護観察組織。ところが、朝鮮戦争(1950~53年休戦)勃発で連盟加入者名簿は虐殺リストに変わる。北朝鮮軍がソウルに迫るや初代大統領・李承晩(イ・スンマン)大統領(1875~1965年)は国民や韓国軍将兵を見捨てて逃亡。その際、連盟登録者を“危険分子”として処刑するよう軍・官憲に命じた。北朝鮮側間諜が紛れた可能性は有るが、大多数は無辜の民。食料の優先受給目的で登録した人もいた。政治犯ら政権に目障りな人々もついでに抹殺された。韓国紙によれば60万~120万人、政府も《子供を含む最低10万人以上》の国民を虐殺し、排水溝や海に遺棄した暴挙を認めた。馬山でも廃坑や刑務所内で殺戮が行われた。

 おびただしい数の韓国人が難を逃れ、日本に密入国し、大半が居座った。そうか。(南北)朝鮮とイスラム国の最大の共通項は凶暴で残忍。であるが故に大量の死者・棄民を輩出しても心痛まぬ思考回路。まだある。日本を歴史捏造でいたぶり、つきまとって離さぬ韓国。日本人を拉致・誘拐する北朝鮮とイスラム国。わが国を「解放」でじらす外道ぶりはソックリだ。

(政治部専門委員 野口裕之/SANKEI EXPRESS)



▲『韓国の悲劇』小室直樹 (写真)


http://www.sankei.com/premium/news/150202/prm1502020007-n1.html


【恐れない】後藤健二さん:注目集まる過去のツイート

2015-02-01 18:56:32 | 今日の御言葉
▼ヨルダン・アンマンの集会所に掲げられたカサスベ中尉の写真
(2015.2.1)





主は、「わたしは、決してあなたを離れ
ず、あなたを捨てない」と言われた。

だから、わたしたちは、
はばからずに言おう、

「主はわたしの助け主である。
わたしには恐れはない。
人は、わたしに何ができようか」。

‭ヘブル人への手紙‬ ‭13‬章‭5-6‬節
新約聖書 口語訳




ある日のこと、わたしは、
もう決して何も食べようとしない、
ひとりの小さな子どもを見かけました。


彼のお母さんは亡くなって
しまっていたのです。


わたしは、その子のお母さんに
よく似ている一人のシスターを
探しました。


わたしは、彼女に言いました。
「あの子と遊ぶ以外、
何もしてはいけません。」


すると、その子に
また食欲が戻ってきたのです。


マザーテレサ


(マザーテレサ『100の言葉』)





★後藤健二さん:注目集まる過去のツイート

◆毎日新聞2015年2月1日


http://sp.mainichi.jp/select/news/20150201k0000e040145000c.html


▲広がりを続ける後藤さんのツイート=後藤さんのツイッターより


 イスラム過激派組織「イスラム国」(IS)とみられるグループが、ジャーナリスト、後藤健二さん(47)を殺害したとする映像がインターネット上で公開された後、ツイッター上で後藤さんの過去のツイートが広がっている。

 「目を閉じて、じっと我慢。怒ったら、怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった」(https://twitter.com/kenjigotoip/status/23238345864)。中東取材も多かった後藤さんが2010年9月7日に自身のツイッターアカウント(@kenjigotoip)で発信したツイートだ。1日午後4時現在で8000回を超えるリツイートがあり、ツイッター上で拡散が続いている。

 後藤さんは同年12月2日のツイートでも、ジャーナリストとしての使命感を記している。「そう、取材現場に涙はいらない。ただ、ありのままを克明に記録し、人の愚かさや醜さ、理不尽さ、悲哀、命の危機を伝えることが使命だ。でも、つらいものはつらい。胸が締め付けられる。声に出して、自分に言い聞かせないとやってられない」(https://twitter.com/kenjigotoip/status/10010282252304385)。

このツイートも1000回以上リツイートされており、後藤さんの過去の発信に注目が集まっている。

【石戸諭/デジタル報道センター】







※2015.2.1 産経新聞号外
※2015.1.25 産経新聞号外

【囚人】バルセロナでたどるガウディの軌跡

2015-01-29 03:23:01 | 今日の御言葉
▼「通し矢」2015.1.19 (京都市東山区)


さて、主にある囚人であるわたしは、
あなたがたに勧める。
あなたがたが召された
その召しにふさわしく歩き、

平和のきずなで結ばれて、
聖霊による一致を守り続けるように
努めなさい。

‭エペソ人への手紙‬ ‭4‬章1, 3節
新約聖書 口語訳‬



私たちのすることは
大海のたった一滴の水に
すぎないかもしれません。

でもその一滴の水があつまって
大海となるのです。

マザーテレサ

(マザーテレサ『愛のことば』より)




★バルセロナでたどるガウディの軌跡 -


◆日経ビジネスオンライン 2015年1月28日


http://business.nikkeibp.co.jp/article/jagzy/20141208/274870/


2015年1月現在、スペインにある世界遺産は44。世界遺産保有国としてはイタリア、中国に次ぎ3番目だ。その中で唯一、個人の名を冠した遺産が、19世紀から20世紀にかけて活躍した名建築家「アントニ・ガウディの作品群」。バルセロナでは、彼の手掛けた7つの建築作品が世界遺産に登録されている。一個人の作品ながら「世界の至宝」と認められた建築群の顔ぶれを紹介しよう。

色タイルを駆使した館で鮮烈デビュー

いまやすっかりバルセロナのランドマークとなった、サグラダ・ファミリア教会。超高層ビルがあっという間に建ってしまう現代において、この教会は着工から130年余を経た今なお、建設途上にある。尖塔群がそびえる姿は、超巨大な切り株のよう。教会のイメージを覆すこの建物の設計者こそ、「神の建築家」と呼ばれたアントニ・ガウディだ。


▲バルセロナ市街を一望。ほぼ中央、巨大な切り株のごとくそびえるのがサグラダ・ファミリア教会

1852年に生まれ、26歳で建築家となったガウディは、73歳で死去するまでに25の建築作品を残した。世界遺産に登録された7つの建物のうち、6つがバルセロナ市内の中心部にあり、その中の5つが主要な大通りから近い場所にある。中心部の作品は徒歩で回ることも不可能ではないが、地下鉄などを利用して回るのがいいだろう。ここでは、制作年代順に建物を見ていこう。

まずは、31歳の時に手掛けたカサ・ビセンス。タイル製造業者ビセンス氏の別邸で、ガウディの処女作だ。現在も居住者がいるため外部からの見学になるが、施主の職業に応じてタイルを多用した外観は実際に目の当たりにすると、ギョッとするほど奇抜だ。


▲ブロックで組み立てたかのような外観。この家の評判のため、施主の会社の株価が上がったという

ガウディ建築の象徴の1つが、目のくらむような曲線の多用だが、駆け出しだった頃の作品であるこの建物は直線が主体。しかし、多彩な色のタイル使い、ベランダの手すりのうねり具合、随所に見られる鳥や植物といった自然のモチーフなど、後のガウディ作品に見られるエッセンスはしっかり散りばめられている。一見、ガウディらしくないこの建物が、彼の建築の原点なのだ。


▲ガウディは自然を“師”とした。鉄柵のモチーフはシュロの葉である

生涯を独身で過ごしたガウディだが、この建物では、片思いをしていた女性の家の食堂のデザインや装飾を再現したとか。内部が公開される機会があれば、ぜひのぞいてみたいものである。

バルセロナ中心部はカタルーニャ広場を中心にして、南が旧市街、北が新市街になっている。ガウディの世界遺産建築の多くは新市街にあるが、唯一、旧市街にあるのが、34歳の時に手掛けたグエル邸。19世紀後半のバルセロナを代表する実業家だった、エウセビオ・グエルの個人宅だ。グエルは、若きガウディの才能に目を留め、生涯にわたって面倒を見た“パトロン”である。建築家には依頼者が必要。ガウディにとって、大富豪のグエルの存在は大きかった。



▲縦の空間が有効に活用されたグエル邸。屋上に立ち並ぶ煙突も実にカラフルだ

グエル邸は、狭い土地を有効に活用した、地下1階、地上4階の建物。一見すると、外観はシンプルで小さい建物という印象だが、その思いは中に入れば簡単に覆される。そこに広がるのは、実に重厚にして優雅な空間なのだ。特にメーンフロアの中央サロンは高さ17.5mの吹き抜けで、小さな穴の開いた円蓋は、まるで小宇宙のイメージだ。ここでどんな豪勢な生活が繰り広げられていたのかと、自然に想像が広がっていく。



▲初期のガウディは、イスラム建築の影響を受けていた。中央サロンの空間構成は、アルハンブラ宮殿から着想を得たといわれる

グエルは、ガウディから届いた高額の請求書を嘆く執事に、「たったそれだけか。芸術には金がかかるんだよ」と笑ったという。そして、本来は別宅にするはずだったこの屋敷を本館として使用した。内部を見学すれば「確かにこれは芸術だ!」と納得。日本語の音声ガイドが、細部に込められたガウディの趣向も教えてくれる。

バルセロナ市街を一望する高台に広がるグエル公園も、グエルの依頼により、ガウディが48歳の時に着手したものである。共同施設を備えた60戸の分譲住宅地とする予定だったが、資金不足等により未完に終わり、グエルの死後、公園となった。



▲観光客、市民を問わず、グエル公園はいつも多くの人でごった返す

園内には、色鮮やかな破砕タイルをあしらったベンチ、市場になるはずだった列柱ホール、ヤシの木のような脚柱を備えた回廊や陸橋などが点在する。特に、入り口に建つ2棟の建物の屋根は、カタルーニャ生まれの画家ダリが「砂糖をまぶしたタルト菓子のよう」と評したかわいさだ。散策していると次から次へと多彩なオブジェが出現し、テーマパークのようで実に楽しい。さぞや、ガウディは存分に羽を伸ばして設計したのだろう。そう思わせるような場所である。



▲巨大なテラスを縁取るベンチは、実際に職人を座らせて型取りしたという。確かに座れば、体にしっかりなじむ

バルセロナの目抜き通りの1つグラシア通り沿いに建つカサ・バトリョは、ガウディが54歳の時に完成させた集合住宅。色ガラスやセラミックをふんだんに利用したファサード(建物正面)は、これまたお菓子のよう。「しかしまあ、よくもこんなものを……」と思わず感嘆のため息が出てしまう。出窓の形と、そこに設けられた骨のような列柱から、当時の人々はこの建物に「骨の家」「あくびの家」などのニックネームを付けたという。



▲カサ・バトリョの外観。「骨の家」も「あくびの家」も、言い得て妙である

青と白を基調にした内部空間のモチーフは「海底洞窟」だとか。それは、実際に足を踏み入れればうなずける。とにかく直線や角がほとんど見当たらず、どこもかしこもウェーブだらけ。洞窟というより“歪みの世界”に迷い込んだような錯覚に陥る。



▲中央広間はこのように“ぐにゃぐにゃした”空間。平衡感覚を失ってしまう

建設当時、現場を訪れた施主のバトリョ夫妻に対して、建設計画を話すガウディ。施主夫妻は興味深げに傾聴するも、現場を離れると、バトリョ氏が妻に言う。「あの建築家の考えには納得できない」。本来なら、立場的には建築家が下。だがその建築家に面と向かって施主が何も言えないほど、当時のガウディには権威があったのだ。果たして現在、カサ・バトリョはガウディの最高傑作の1つである。


カサ・バトリョから歩いて5分ほどの交差点に建つカサ・ミラは、ガウディがカサ・バトリョ完成の年に着手した高級マンションだ。これも、ホイップクリームを塗りつけた巨大なケーキのような外観だ。うねる外壁は波のよう。バルコニーには複雑な鉄細工が絡みつく。当時の人々は「さすがのガウディも今回はやりすぎだ」とささやき合った。



▲石切り場のような姿から「ラ・ペドレラ」のあだ名が付けられたカサ・ミラ。地元ではもっぱら、そのあだ名で呼ばれている

実は、30代後半の時に地中海の避暑地で、ガウディは人妻に恋をした。彼は彼女に、「いつか地中海の美しさを建築で表現する」と約束したという。恋は成就しなかった。が、彼はその約束を、カサ・ミラで果たそうとしたのだ。ガウディがなぜ独身を貫いたかは不明だが、手掛けた作品に女性にまつわるエピソードがよく出てくることから考えると、恋多き男だったのかもしれない。半面、彼は女性と一度も肉体関係を持たなかったともいわれている。真相は闇のかなただ。

カサ・ミラは室内空間でも、直線や角が極力排されている。カサ・バトリョ同様に、長い間とどまっていると目まいを起こしそうなほどだ。



▲まるで美術館であるかのようなカサ・ミラのエントランスホール

カサ・ミラは建設中、建設基準を大幅に超える違法建築だった。一時、市は取り壊しを命じたが、最終的には記念碑的建築物として法の適用外とした。結果カサ・ミラは、今ではサグラダ・ファミリア教会と肩を並べるガウディの代表作だ。ガウディの権威は施主だけではなく、法さえ圧倒したのである。



▲屋上の煙突や換気塔もこの調子。映画監督のジョージ・ルーカスはこれを見て、「スター・ウォーズ」シリーズのダース・ベイダーと帝国軍兵士を思いついたという

56歳の時、ガウディは再びグエルの依頼で、バルセロナ郊外にあった繊維工業団地の教会建設に着手する。だが、6年目に工事から手を引いたため、完成したのは地下部分のみ。それが、コロニア・グエル地下礼拝堂だ。



▲自然の中にたたずむコロニア・グエル地下礼拝堂。ガウディは周囲の木を切ることを避け、階段のデザインを変更した

未完とはいえ、建物が郊外の自然に溶け込んでたたずむ姿は一見の価値あり。内部のベンチや聖水器のデザインも秀逸だ。また、柱を放射線状に斜めに立て、天井の重さを分散させる内部構造は、後のサグラダ・ファミリア教会に受け継がれている。ガウディ建築の変遷を知るには見逃せない建物である上、のどかな雰囲気に浸ることもできるので、ぜひ足を伸ばしたい。



▲礼拝堂内部の下部身廊。奥に合唱隊席、さらに広報控室がある。ベンチももちろんガウディのデザインだ



そして、ガウディが生涯を捧げたのが、言わずと知れたサグラダ・ファミリア教会。実はこの教会、建設に着手したのはカサ・ビセンス同様、ガウディ31歳の時である。62歳になった頃には、ガウディは他の仕事を一切断り、教会内に寝泊まりするようになる。その姿、みすぼらしい浮浪者のようだったという。まさに、なりふり構わず教会建設に没頭したのだ。ガウディが「神の建築家」といわれるゆえんである。



▲ガウディが生涯を捧げたサグラダ・ファミリア教会

この教会は「生誕」「受難」「栄光」と名付けられた3つのファサードを持つが、完成しているのは東側の生誕のファサードのみ。表面を埋め尽くす彫刻はキリスト誕生を題材にしたもので、その精密さには驚かされる。その驚きは、内部に足を踏み入れても続く。身廊は、円柱の森さながら。ステンドグラスからの光が、木漏れ日のように注ぎ込む。天井は最も高いところで75m。あきれるほどの空間なのである。



▲巨木の群れを思わせるような内部の身廊

また、生誕・受難のファサードにそびえる塔は、いずれもエレベーターで高さ50~60mほどの地点まで登ることができ、そこからはガウディ活躍の舞台となった町を一望できる。ただし、生誕のファサード側の下りは、目のくらむようならせん階段を利用せねばならない。渦巻く階段散策はなかなかスリリングだ。



▲生誕のファサード側の塔内部。のんびり降りてくれば30分ほどもかかる

サグラダ・ファミリア教会にしても、これまで見てきた建築にしても、とにかくガウディ建築は複雑極まりない。さぞや、職人たちも苦労したことだろう。実際、彼の建築は図面で表すことが難しく、建設にあたっては模型が用いられたという。そのためガウディは「図面が描けない」と皮肉られることもあったとか。

そんなガウディは、サグラダ・ファミリア教会の建設を「神からの使命」と信じた。だが、73歳の時に不慮の事故に襲われる。仕事の合間にミサへ向かう途中、路面電車にはねられたのである。道路に身を横たえるみすぼらしい老人に対し、道行くタクシーは病院へ運ぶことを拒否。やっと運ばれた病院でも、浮浪者として放置されたといわれる。その老人が高名な建築家だと気付いた時にはすでに手遅れ。病院収容から3日後に、ガウディは世を去った。

以前は、サグラダ・ファミリア教会の完成には300年はかかるといわれていた。だが、先端IT技術の利用などで、工事がスピードアップ。現在の公式発表では、11年後の2026年に完成するといわれている。自分は完成した姿が見られないと思っていたが、11年後なら十分可能性がある。その姿、楽しみだ。



▲生誕のファサードとは反対側になる受難のファサードの眺め。完成の日が待ち遠しい



最後にせっかくバルセロナを訪れたのなら、もう1つの世界遺産「バルセロナのカタルーニャ音楽堂とサン・パウ病院」も見ておきたい。ガウディと同時期に活躍した建築家、ルイス・ドメネクが手掛けた病院と音楽堂だ。ガウディより2歳上のドメネクは、ガウディが建築学校の生徒だった当時、その学校で教壇に立っていたという人物である。

グエル邸と同じ旧市街に建つカタルーニャ音楽堂は、とにかく華美の一言。それは外観だけではない。内部も万華鏡のような美しさ。驚くべきことに、天井にまでステンドグラスが施されている。ドメネクは、音楽堂で最も重要な遮音性や音響効果を犠牲にしてまで、装飾美を追求したのだ。カタルーニャ音楽堂には、ガウディに対するドメネクのライバル心が見えるようである。



▲貧しかったガウディとは異なり、ドメネクは上流階級の出身。その広い人脈で、建設には高名な芸術家も多く参加した

採光の美しさが充満する内部は、日中に行われている見学ツアーへの参加が望ましいが、カタルーニャ音楽堂はまだ現役。コンサートが頻繁に行われている。夜のコンサートに足を運べば、日中とは異なる美しさが見いだせるはずだ。



▲宝石箱のような音楽堂内部。天井のみならす、壁も3面がステンドグラスで彩られている

一方のサン・パウ病院は、サグラダ・ファミリア教会からガウディ通りを進んだ突き当りに広がる。広大な敷地に48棟の建物が点在する病院は、黄色やピンクを主体にしたステンドグラス、モザイク、タイルなどが随所に使用され、これまたおとぎの世界のよう。芸術には人を癒やす力があると信じたドメネクが、患者に安らぎを与え、精神的苦痛を取り除くために採用した結果だ。そのため、大病院にありがちな重苦しさなどみじんも感じられない。



▲敷地内の建物はそれぞれ独立して建つが、地下の廊下で結ばれ、自由に行き来できるようになっていた

サン・パウ病院は老朽化のため、2009年に閉鎖。その後は修復作業が行われていたが、2014年に作業が完了した。現在は一般公開が行われているので、ぜひ敷地内を歩いて、“癒やし効果”をとくと感じたい。

バルセロナには他にも、同時代の斬新な建物が多い。その理由は、当時のバルセロナが、スペインの中で一早く産業革命を迎えていたからだ。飛躍的に発展する町は人口が急増し、新たな建築や増改築の必要に迫られたのである。新興ブルジョワは豊かな経済力を背景に、豪華な新建築を次々と建築家たちに依頼。建築家たちは腕をふるって応え、その筆頭がガウディやドメネクだったというわけだ。そして、この「建設の時代」が、バルセロナをスペイン第2の都市に押し上げたのである。


(バルセロナでたどるガウディの軌跡 - JAGZY)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/jagzy/20141208/274870/?P=5