わたしが飢えていたときに食べさせ、
渇いていたときにのませ、
旅をしていたときに宿を貸し、
裸のときに着せ、
病気のときに見舞い、
牢屋に いたときに
訪ねてくれたからである。
[マタイによる福音書/25章35節]
私たちは、自分の願いではなく、
創造主の願いによって生まれた存在です。
さらに、愛によって生まれたので、
喜ぶために生まれたし、
喜ばせるために生まれたという
創造本性を持っています。
(R・S・M)
だれでも神から生まれた者は、
罪のうちを歩みません。
なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているならです。
その人は神から生まれたので、
罪のうちを歩むことができないのです。
『ヨハネの手紙一』/3章9節
苦しみは非常に
美しいものでありえます。
例えば、非常に無垢な人々が苦しむ
そういう人が死んでいくから
神がないとか
神は冷たいとかいうことでなく
まったく罪のない人が
死んでいくことは
そういう人たちが世界の罪を背負って
償っている気がいたします。
マザーテレサ
『26の愛の言葉』より
【写真は東京、赤羽】
そのとき、
『見よ、ここにメシアがいる』
『いや、ここだ』と言う者がいても、
信じてはならない。
偽メシアや偽預言者が現れて、
大きなしるしや不思議な業を行い、
できれば、選ばれた人たちをも
惑わそうとするからである。
「その日、その時は、だれも知らない。
天使たちも子も知らない。
ただ、父だけがご存じである。
人の子が来るのは、
ノアの時と同じだからである。
洪水になる前は、
ノアが箱舟に入るその日まで、
人々は食べたり飲んだり、
めとったり嫁いだりしていた。
そして、洪水が襲って来て
一人残らずさらうまで、
何も気がつかなかった。
人の子が来る場合も、このようである。
そのとき、畑に二人の男がいれば、
一人は連れて行かれ、
もう一人は残される。
二人の女が臼をひいていれば、
一人は連れて行かれ、
もう一人は残される。
だから、目を覚ましていなさい。
いつの日、
自分の主が帰って来られるのか、
あなたがたには知らないからである。
[マタイによる福音書 / 24章 39節]
愛は分かち合わなければ
何の意味もありません。
愛は行動に移されるべきものです。
見返りを期待せずに
愛さなければなりません。
愛そのもののために何かをするべきで
何かを得るために
するのではありません。
見返りを期待するなら
それはもう愛ではないのです。
本当の愛とは無条件で何も期待せずに
愛するということだからです。
(マザーテレサ『愛のことば祈りのことば』より)
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