地上を旅する教会

私たちのすることは大海のたった一滴の水にすぎないかもしれません。
でもその一滴の水があつまって大海となるのです。

娼婦ラハブ【札幌、船橋、島根県他 「慰安婦意見書」採択地方議会全リスト】

2014-04-23 01:03:15 | 今日のみことば


信仰によって、娼婦ラハブは、
様子を探りに来た者たちを
穏やかに迎え入れたために、

不従順な者たちと一緒に殺されなくて
済みました。

「ヘブライ人への手紙」/ 11章 31節
新約聖書 新共同訳



神様は常にあなたのことを
愛しておられます。
ですから、あなたは
神様に愛された分だけ
多くの人に尽くしてあげなさい。

人の和は、与えることによって
大きく広がっていきます。






★札幌、船橋、島根県他
「慰安婦意見書」採択地方議会全リスト

◆NEWSポストセブン2014年4月14日
07:00

http://www.news-postseven.com/archives/20140414_250930.html

 全国の地方議会で続々と日本の市民団体の請願による「慰安婦問題で政府の誠実な対応を求める意見書」が採択されている。2008年3月の兵庫県宝塚市議会を皮切りに、意見書採択は現時点で少なくとも43件に達している。



 米グレンデール市議会が慰安婦像設置を決めた際、推進派のフランク・クィンテロ市議はこう演説した「私が興味深く見ているのはおよそ36もの(※当時)日本の地方議会が『意見書』を採択していたことである。一部を紹介すると宝塚、清瀬、札幌、福岡、小金井、三鷹……などだ。だから我々は正しいことをしていると考える」。

 このように、「日本人自身が謝罪と賠償をすべきと認めている証拠」として都合よく利用されてしまうのだ。「慰安婦意見書」を採択した地方議会は以下の通りだ。



2008年
3月/宝塚市議会(兵庫)
6月/清瀬市議会(東京)
11月/札幌市議会(北海道)

2009年
3月/福岡市議会
6月/箕面市議会(大阪)、三鷹市議会(東京)、小金井市議会(東京)、京田辺市議会(京都)
9月/生駒市議会(奈良)、泉南市議会(大阪)
10月/国分寺市議会(東京)
12月/長岡京市議会(京都)、船橋市議会(千葉)、国立市議会(東京)、田川市議会(福岡)

2010年
3月/ふじみ野市議会(埼玉)、我孫子市議会(千葉)、今帰仁村議会(沖縄)、吹田市議会(大阪)、与那原町議会(沖縄)、堺市議会(大阪)
6月/小樽市議会(北海道)、西東京市議会(東京)、南城市議会(沖縄)、豊見城市議会(沖縄)、八重瀬町議会(沖縄)、読谷村議会(沖縄)、多良間村議会(沖縄)、一関市議会(岩手)、高槻市議会(大阪)
9月/士別市議会(北海道)、北栄町議会(鳥取)、八幡市議会(京都)、函館市議会(北海道)
10月/木津川市議会(京都)、大阪市議会

2011年
9月/宮代町議会(埼玉)

2012年
6月/宇治市議会(京都)
9月/広陵町議会(奈良)

2013年
3月/京都府議会
6月/島根県議会、城陽市議会(京都)、宮津市議会(京都)


※SAPIO2014年5月号
(NEWSポストセブン2014年4月14日)




▲吉良佳子参議院議員 (資料写真)
(共産党 東京選挙区)

『週刊新潮』2014.3.26 発売号


★島根県議会が慰安婦意見書を
スピード採択し地元自民県議憤慨

◆マイナビニュース 2014年04月21日
11:00
(NEWSポストセブン2014年4月21日 )

http://s.news.mynavi.jp/news/2014/04/21/207/

 大メディアはほとんど報じないが、全国の地方議会で続々と「慰安婦問題で政府の誠実な対応を求める意見書」が採択されている。そんな中でとりわけ驚かされたのが昨年6月の島根県議会での意見書採択だった。

 竹島問題を抱える島根県議会は2005年に「竹島の日(2月22日)」を制定するなど、韓国の嘘に厳しい態度を表明してきた。しかも県議会は定数37のうち自民党が22人を占める保守王国である。にもかかわらず共産党に近い団体の意見書が採択された。



 経緯としては、まず共産党と密接な関係にある「新日本婦人の会」島根県本部(山崎泰子会長)が他団体と連名で意見書採択の請願を行なった。

 団体側と面識のあった民主党系の白石恵子県議が議会側の窓口となり、複数の議員との面会をセット。その後、白石氏らを紹介議員とする「日本軍『慰安婦』問題への誠実な対応を求める意見書」が総務委員会に付されたのが昨年6月19日。自民党県議を委員長とする総務委員会はその日のうちに「挙手多数」で可決し、議案は同26日の本会議へ上程された。



 最終的に自民党から共産党まで19人が提出者となった意見書は本会議で採決され、五百川純寿議長の「起立多数」の声であっさりと可決。委員会から本会議までわずか1週間の早業だった。自民党県議で唯一、座ったまま反対した小沢秀多県議はこう憤る。

「結局、自民党の県議は古い体質の人間ばかりで、地元のことはわかっていても意見書採択による国際的な影響までは考えられないのです。慰安婦問題についての見識も持ち合わせていません



 元自民党で現在は無所属の成相安信県議(意見書採択では退席)も「県議会自民党は竹下利権を継いだ青木幹雄(元参院議員)の影響下にあり、その番頭格が五百川議長。票集めには敏感でも意見書が持つ意味は考えたこともないのでしょう」と批判する。五百川氏は再三の取材要請にも応じず、白石氏からは「委員会での提案理由がすべて」と電話で説明があった。

 それにしても島根県自民党の意識の低さには驚きを禁じ得ない。自民党島根県連は「県議会での採択は報道で知った」(事務局)程度で、意見書に関する県全体の司令塔はいない。当時の県連幹事長だった福田正明県議は、「あの頃は参院選の渦中にあり、地元紙で委員会決議を知って提案文書を出先にファックスしてもらい、文言修正を指示した」というが、本会議での採択は五百川議長ペースで進んだ。


▲慰安婦活動家代表の方清子氏
(水曜集会代表)
(写真右側 2013年フランスでの様子)


「意見書は松江市議会にも出されましたが、自民党系多数で否決しました。国の問題として捉えれば当たり前。五百川系市議に県議たちは何を考えていたのかを質すと、『人権問題だから』と言っていました」(宅野賢治・松江市議)

※SAPIO2014年5月号
(マイナビニュース 2014年04月21日)



▲福島瑞穂氏 (社民党 資料写真)

▼銀行振込での資金提供先



▲「歴史の真実を求める世界連合会(GAHT)」ホームページはhttps://gahtjp.org/

【今日の御言葉 /今日の聖句】

医者ルカ【日野原重明氏「102年の人生のハイライト」 復活祭で賛美と証しコンサート 】

2014-04-22 22:31:07 | 今日のみことば



愛する医者ルカとデマスも、
あなたがたによろしくと言っています。

「コロサイの信徒への手紙」/ 4章 14節
新共同訳 新約聖書



老いとは衰弱ではなく、
成熟することです 。

年齢は勝ち負けではありません。

謙虚に、
そして存分に味わえばよいのです。

よい出会いがある。
それは、あなたの才能なのです


人はひよわいからこそ、
寄り添って生きることができます。

仲間で群れあっているかぎり、
人も社会も成長しません。

家族とは「ある」ものではなく、
手をかけて「育む」ものです。


(日野原重明『生き方上手』より)





▲聖路加(聖ルカ)国際病院名誉理事長の
日野原重明氏 (102歳 写真)

★日野原重明氏「102年の人生のハイライト」 復活祭で
ベー・チェチョルの賛美と証しコンサート

◆クリスチャントゥデイ2014年4月20日



▲声帯を一度失ったとは思えない歌声で
歌うベー・チェチョル
=20日、
ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会
(東京都新宿区)で



聖路加国際病院名誉理事長の日野原重明氏がプロデュースしたイースター(復活祭)コンサートが20日、東京都新宿区のウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会(峯野龍弘主管牧師)で行われた。「奇跡のテノール」と呼ばれる韓国人歌手のベー・チェチョルが歌う、賛美と証しの集会として行われ、ベー・チェチョルは約800人の聴衆を前に、「キリストには代えられません」「アメージング・グレイス」など7曲を披露。今秋には全国公開される、ベー・チェチョルの実際のストーリーを描いた映画『THE TENOR』のミュージック・ビデオも初公開された。

日野原氏とベー・チェチョルが最初に出会ったのは、昨年行われた日野原氏の102歳の誕生日を祝う会だった。日野原氏の名古屋の知人が、素晴らしい誕生日プレゼントを贈りたいからと、日野原氏を名古屋に呼び、誕生日会を開催。その際、ベー・チェチョルの「奇跡の歌声」に出会ったという。

ベー・チェチョルは、ヨーロッパのオペラ界で「アジアのオペラ史上最高のテノール」と呼ばれ活躍していたが、2005年秋、甲状腺がんに襲われ、声帯、横隔膜という歌手のいのちとも言えるような2つの臓器の神経を切断。歌声だけではなく、右肺の機能も失ってしまう。その後、多くの日本人ファンらの支援により、京都大学の一色信彦名誉教授による声帯機能回復手術を受け、2008年に奇跡的なカムバックを果たした。



今回のコンサート開催のいきさつや、ベー・チェチョルとの出会い語る日野原重明氏。今年10月4日には103歳を迎えるが、冗談も言い会場を沸かせた。
日野原氏は、「一つの声帯がすっかりだめになって、残っている声帯一つだけを上手に振動させることによって、この素晴らしいテノールの声が聞こえる。考えられないほど奇跡的なこと」とその感動を伝え、「(今回のコンサートは)102年になる私の人生でのハイライト」などと語った。

ベー・チェチョルはこの日、讃美歌「キリストには代えられません」「慈しみ深き」や、韓国で作曲された現代聖歌「主は我が羊飼い(詩編23篇)」、「ユー・レイズ・ミー・アップ(You Raise Me Up)」「君と旅立とう(Time to Say Good-bye)」「アメージング・グレイス(Amazing Grace)」を披露。今回のコンサートのプロデューサーであった日野原氏自身によるアンコールにも応え、朝鮮民謡の「アリラン」も歌った。

手術により声を完全に失ってしまった時、「声を失ったのと同時に、その後の人生を生きていくのに必要なすべての力を、私は一度失ってしまったのです」とベー・チェチョルは話す。「その時、神様を信じることができなければ、私の人生はすべてそこで終わっていたと思います。神様から大きい平安、安心をもらったのです。ここまでこうして生きてこられたのは、その時に私に与えられた心の平安があったからです」と語った。

また、「自分が本当に愛されている、大切にされている、そのことを感じることができなければ、私はここにいなかったかもしれません。私がいただいた本当に愛されているというメッセージを、歌を通して皆さんにお伝えしていかなければと思っています」と証した。



当初は聖路加国際病院のチャペル(250人収容)でコンサートが予定されていたが、より多くの人に聴いて欲しいと会場を、プロテスタントでは日本最大規模の教会となる淀橋教会に変更。この日は約800人がコンサートに参加した。

最後の歌「アメージング・グレイス」の前には、ベー・チェチョルの実際のストーリーに基づいた映画『THE TENOR』が紹介された。日韓共同の作品で、撮影はヨーロッパ、日本、韓国で行われた。会場には同映画の監督やプロデューサーの姿もあり、公の場では初めてミュージック・ビデオが公開された。映画では、韓国人俳優ユ・ジテが主演としてベー・チェチョルを演じる。日本からは伊勢谷友介、北乃きいらが出演するという。今秋に全国で一斉ロードショーされる予定だ。

(クリスチャントゥデイ2014年4月20日)



★常に10年先を考える 101歳が語る
「生涯現役の秘訣」

聖路加国際病院理事長・名誉院長 
日野原重明氏

◆日本経済新聞2013年2月22日 6:30


 昨年10月4日、101歳になった聖路加国際病院理事長・名誉院長の日野原重明さんは、いまでも新しいことにチャレンジし、子どもたちとも積極的に交流する。若さを失わない日野原さんに、「生涯現役であるための秘訣」や、「人と人のつながり」「老いとどう付き合い、どう死ぬか」について聞いた。



 ひのはら・しげあき 聖路加国際病院理事長・名誉院長。1911年山口県生まれ。京都大学医学部卒業、同大学院修了。41年聖路加国際病院に内科医として赴任。現在も理事長職のほかに、現役医師として回診し、患者参加型医療、予防医学、終末医療の普及推進などに貢献。医学・看護教育の刷新に尽力している。  73年(財)ライフ・プランニング・センター創設。2000年には老人の新しい生き方を提唱して「新老人の会」を立ち上げた。また、次世代に平和といのちの大切さを伝える「いのちの授業」を全国の小学校で展開中。長年の功績が認められ、05年に文化勲章受章。

――日野原先生にとって「現役」とはどういう意味ですか。

日野原 生き甲斐を持って生きること、これが一番大切です。生き甲斐がなくなれば、人生は終わり。今日はこれをやろうというプログラムがないとだめです。今日に期待を持って朝はさわやかに目覚めます。

■10年手帳に記入した予定は自分のミッション

――10年先まで予定を書き込める10年手帳を使っていらっしゃるそうですね。

日野原 2011年から20年までの10年手帳を使っています。それぞれの年の同じ日に予定を書き込んでいます。食事に行くようなときはアポイントメントを取るって言うでしょう。ぼくが手帳に書くのは「コミットメント」なんです。神に誓約をすることをコミットメントと言います。どうしてもこれがやりたいということを5年、10年先でもきちっと決めて、これは自分のミッションであると考えています。

――先生が「『成人病』という言葉では誤解を招く。『生活習慣病』と呼ぼう」と提案してから、実際にそう呼ばれるようになるまで20年かかったそうですね。10年、20年の単位で取り組まなければならない仕事は多いのですね。


日野原 日本人の死亡原因の一番が当時は脳卒中で、高血圧の人が脳卒中になることが多いので厚生労働省が健診をしようということになりました。成人健診という名前をつけて、そこで発見される病気を成人病と呼んだのです。でもそれは間違っていると思いました。海外では「成人病」などと言っても通じないので、その人の毎日繰り返す生活の仕方がつくる病気を「生活習慣病」と呼ぼうと提案したのです。


▲日本赤軍「よど号」ハイジャック事件(1970年)
※乗員乗客129人の人質の一人だった日野原氏


■「よど号」事件に遭遇、その後の人生は「与えられたもの」

――101歳からでも10年先のことを考えていらっしゃるわけですが、60歳あるいは65歳になって、第二の人生を歩もうとしている人に対してアドバイスはありますか。

日野原 60歳とか65歳というのは職業で一区切りつくだけで、人間として生きることが終わるわけではないんです。自分の得意なことを開発して、新しい人生を始めることが必要です。ぼくは、ハイジャックにあった「よど号」に乗っていました。59歳のときですが、命が助かったときに、「これからの人生は与えられたものだ」と感じました。「恩を受けた人に返すだけでなく、あらゆる人にこれからの私の人生を捧げよう」「これからがぼくの人生の本番だ」と思いました。

――実際に60歳を過ぎてから、いろいろなお仕事をされているんですね。

日野原 オーストリア出身のマルティン・ブーバーという哲学者が「人は、新しいことを始めることを忘れない限り、いつまでも若い」と言っています。普通の人は、やったことがないからできないと言います。ぼくは3年前から俳句をつくり始めました。なんでもできるんです。小学生に行っている「いのちの授業」で俳句をつくってみようと言うと、10歳の子が「いのちとは 僕の持ってる 時間だね」という句をつくってしまうのです。



■立ち上げた「新老人の会」、60~64歳は「ジュニア」

――先生が現役でいられる秘訣は小学生や若いスタッフと交流されているからかもしれませんね。


日野原 いまの小学生が10年先の日本をつくるのです。子どもの良いところを伸ばすように、先生だけでなく、一般の社会人が努力すべきじゃないかと思います。

――「新老人の会」を2000年に立ち上げられたそうですね。

日野原 89歳のときに、立ち上げたのですが、この構想は85歳から準備していたんですよ。老人というと背中が曲がって、よぼよぼになったイメージですが、そういうイメージを取り払って、新老人の会を立ち上げました。会員は1万2000人になり、最近、フェイスブックも使い始めましたから、3年先には3万人くらいに伸びると思っています。

 「おはようございます。日野原重明です」と言って、今日はこういう格言で生きてくださいといろんな格言を紹介しています。

 新老人の会では75歳以上がシニア、60歳以上がジュニアになります。

――フェイスブックを始められたということはさらに下の世代に参加を呼び掛けているわけですね。

日野原 20歳以上の人が加入しています。そのうち18歳以上にしようかと思っています。その人たちは「サポート会員」と呼んでいます。

■若い世代と日常的に触れ合うことが大切

――先生はどんなきっかけでもいいから、若い人と日常で触れ合うことが大切とおっしゃっていますね。


日野原 非常に大事です。101歳までの人生の間には、死ぬような危険があったり、ショックを受けたこともたくさんありました。サリン中毒のような大事件にも遭遇しました。そうしたことにどう対応するかということを伝えたいです。

――いろいろなことを体験した本人から直接聞くということが大切ですね。

日野原 子どもを亡くしたような親に対しては、やはり同じような悲しい体験をした友達からの言葉がなぐさめになります。

――どうすれば若い世代のために、活躍できる新老人が増えてくるのでしょうか。

日野原 森光子さんのような実力を見せないといけません。50年も「放浪記」で主演を務めたんですから。

 ジョン万次郎の記念館の募金のためのゴルフコンペでは、ぼくはゴルフはやったことがないのですが、息子に前の晩に教わって、始球式でちゃんと100ヤードくらい飛ばしましたから。ぼくはソフトボールのチームを持っていて、シートノックをするんですよ。

――万次郎の記念館について言及されましたので、ご紹介いただけますか。

日野原 無人島に漂着していたジョン万次郎は、アメリカのホイットフィールドという捕鯨船の船長に助けられ、フェアヘブンというところでホームステイをさせてもらい、教育も受けます。そのホイットフィールド船長の家が競売に出されるというので日本で1億円の寄付を募って、廃屋を修復して2009年に「ホイットフィールド・万次郎友好記念館」をつくりました。アメリカの文化を日本に上手に紹介したジョン万次郎を日本人にもっと知ってもらいたいと思いました。

■若者の心を揺さぶるようなリーダーがいない

――最近は、外国に留学に行きたいという日本人が少なくなっているそうですね。




日野原 万次郎は、アメリカで小学校から中学校へ進み、英語や数学、さらに天文学や捕鯨術までも習得して10年後に日本に帰国しました。彼がアメリカの文化を伝え、ペリーとの交渉に尽力して鎖国を解くことにつなげた貢献を思うと、もっと日本人が国際的にならないといけないと思います。

 日本は英語の教え方が上手ではないので、英語がうまくしゃべれないことがネックになっていますが、幼稚園のころから英語をうまく教えれば、すぐにしゃべれるようになると思います。

 国際結婚ももっと増えるといいですね。EUがなぜ団結できているかというと、国際結婚によりどこの国の人という区別があまりなくなっていることが大きく寄与しています。

 最近の日本の若い人たちには夢がないですね。昔は無銭旅行であっちこっち行ったものですが、だんだん、それもしなくなってきています。明治のはじめに米国から日本に来て、「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」と言ったクラーク博士のような、若い人の心を揺さぶるようなリーダーが今の日本にはいない。命令で若者を従わせるのではなくて、彼らに自主的にやろうという気を起こさせるようなリーダーが必要です。

――「新老人の会」の中には先生の後継者になれるような老人は出てきていますか。

日野原 少しずつ出てきています。85歳の高齢でフェイスブックを始めるような人もいますから。孫と会話ができるような老人になるのがいいのです。孫にiPadのような新しいツールを買ってあげて、コミュニケーションできるような老人が増えてくることが大切です。

■医療の世界でもコミュニケーションが重要

――いまの医療の世界をみると、必ずしもコミュニケーションがうまく取れる人ばかりではないような気がするのですが。


日野原 医師やナースは、患者と同じ目の高さで話をしたり、言葉の使い方を工夫したりしてコミュニケーションをよくしなければなりません。私が尊敬しているカナダ生まれのウィリアム・オスラー博士は「医学はサイエンスに基礎を置くアートである」と言っています。アートというのは「わざ」という意味です。このコミュニケーションのわざをしっかり磨いて患者と会話をしてもらいたいですね。

――聖路加国際病院ではどのようにそれを教えているのですか。

日野原 看護部では、コーチングという形で、先輩が後輩にふるまいのわざを教えています。若い医師には診療のわざとサイエンスを指導医が現場で教えています。一緒にやるということですね。口先で「こうしなさい」と言うのではなくて、現場で一緒に何かを生み出すような形で教えるんです。

――先生は日本初の独立型ホスピス「ピースハウス病院」を1993年に神奈川県につくられましたね。

日野原 67年にシシリー・ソンダース医師が英国のロンドン郊外に近代的なホスピスをつくってから20年以上後になりましたが、日本にも独立型のホスピスをつくりました。神奈川県の中井町のゴルフ場のオーナーが遺言で土地を寄贈してくださり、建設することができました。富士山が見える環境の良い場所です。

 スタッフには音楽療法士もいて、音楽による心の癒しを考えました。焼き物や、そのほかの手づくりの工作もしてもらい、残された遺族が故人をしのべるようにしました。

■送る人と亡くなる人が同じ時間を共有

――残された家族の悲しみを和らげることにも尽力されているわけですね。


日野原 それを「グリーフケア」と言います。最後に家族でいい時間が持てると、喪失の悲嘆を鎮めることができます。家族が同じ病室で寝泊まりできるようにすることが大切です。

 やむなく病気になったわけですが、ホスピスあるいは在宅ケアで、最後を一緒に過ごせたという思い出を持つことが残される家族には大切です。最近は病人が住み慣れた家で家族と一緒に最期が持てるような在宅ホスピスケアも地方で増えています。

――先生は無理に延命してお別れの言葉も言えないということは望ましくないとおっしゃられていますね。

日野原 おじいちゃんが亡くなるときに、お孫さんたちにクリスマスのときによく歌っていたクリスマスキャロルを歌ってもらったことがあります。おじいちゃんは目も見えなくなっていたのですが「わかったら手を握ってね」と言ったら、孫の手をぐっと握ってコミュニケーションがとれました。送る人と亡くなる人が同じ時間を共有することが必要です。

■家族と一緒に生活した場で最期を迎えるのが一番いい

――いわゆるホスピスでなくても、そういう場があるといいですね。


日野原 いま緩和ケア病棟に入院できる患者の数はがんで亡くなる人のうち数パーセントにすぎないのです。だんだん家で死ぬことの良さが分かってきたので、これから在宅ケアが増えるのではないでしょうか。これから最期を迎える人にとっては、家族と一緒に生活した場が環境としては一番いいと思います。

――自分の好きな音楽はエンディングノートなどに書いておいたほうがいいのですか。

日野原 目が見えなくなっても耳はずいぶん聞こえているんです。その人の好きな音楽を奏でるのはいいことだと思います。私はフォーレのレクイエムを聴きながら死にたいです。最後に天国に行くところで死ななければならないので、合図を出すからレコードをかけてくださいと冗談を言っています。

 このごろは音楽だけでなくアロマテラピーなども使います。私は、いま、アロマテラピーやお香の効果についても研究を始めています。

(ラジオNIKKEIプロデューサー 相川浩之)

ラジオNIKKEI「集まれ!ほっとエイジ」12月17日、24日、31日放送の番組を基に再構成

http://mw.nikkei.com/sp/
(日本経済新聞2013年2月22日 6:30)



【今日の御言葉/今日の聖句】



世の終わり【【花子とアン】小机の平吉に光を 横浜の峯岸さん 来月25日講演会:神奈川】

2014-04-21 08:38:17 | 今日のみことば



次いで、世の終わりが来ます。
そのとき、キリストはすべての支配、
すべての権威や勢力を滅ぼし、

父である神に国を引き渡されます。


「コリントの信徒への手紙一」/ 15章 24節
新約聖書 新共同訳





「こんな日に生きていられて、よかったと思わない?

まだ生まれていなくて、
今日という日を知らない人って、気の毒ね。

そりゃあ、ほかにもすばらしい日はあるでしょうけど、

今日という日は、ほんと、今日だけですもの。」


(『赤毛のアン』モンゴメリ)
http://www.yjts7.net/kotoba.html




▲平吉の功績について説明する
峯岸英雄さん=横浜市港北区で


★小机の平吉に光を 横浜の峯岸さん

来月25日講演会:神奈川

◆東京新聞2014年4月20年
(TOKYO Web)



NHK朝の連続テレビ小説「花子とアン」のモデルになっている翻訳家村岡花子の義父、村岡平吉(1852~1922年)が生まれた横浜市港北区小机町を応援しようと、近代文学研究家の峯岸英雄さん(56)=港北区篠原東=が研究成果を地元に伝えている。「平吉が広く知られる機会にしたい」と意気込み、5月には区内で講演会を開く。 (杉原麻央)

「平吉は印刷技術で聖書の普及に貢献し、『バイブルの村岡』と呼ばれていた」と、峯岸さんは説明する。

平吉は、横浜・山手の外国人居留地内にあったフランス新聞社や、中国・上海の印刷工場で働き、外国語活字を組み立てる技術を磨いた。洗礼を受け、一八九八年、横浜市中区山下町でキリスト教書籍専門の印刷製本会社「福音印刷」を創業。多くの言語の活字を扱い、アジアや米国向けの聖書も手掛けた。

信者の増加に伴って聖書の需要が高まり、福音印刷は東京と神戸に支社をおく。東京支社の経営を任されたのが、後に花子の夫となる平吉の三男、儆三(けいぞう)。小机町にはかつて花子夫妻が何度か訪れた別宅があり、平吉と夫妻の三人は横浜市西区の久保山墓地に眠る。

「ドラマに合わせて小机を盛り上げよう」。明治時代のキリスト教史の研究から平吉に関心のあった峯岸さんは、地域研究者の知人と昨年十一月、「『花子とアン』と小机を応援する会」を発足させた。平吉や花子のエピソードを通信文に書き、地元の商店街や図書館などに配っている。

花子は随筆に、平吉が「マイディアー(愛する人)」と優しく接してくれたことを書き残している。関東大震災で福音印刷が倒産後、花子は儆三と出版社を設立しており、「印刷に熱意を注いだ平吉から、花子が受け継いだものもあるのでは」と峯岸さん。平吉が今後、ドラマに登場するのを期待している。

講演会「『花子とアン』のふるさと~小机が生んだ印刷王・村岡平吉」は五月二十五日午後二時から港北図書館(港北区菊名)で。十五日から申し込みを受け付け、定員は五十人。問い合わせは、同館=電045(421)1211=へ。

(東京新聞2014年4月20年)




▲吉高由里子(写真中央)

★不倫、略奪婚…『花子とアン』の今後が気になる!?

◆ダ・ヴィンチニュース2014年4月17日

http://ddnavi.com/news/191429/

 4月からスタートした、吉高由里子が主人公・花子を演じるNHK連続テレビ小説『花子とアン』。高視聴率を誇った『ごちそうさん』の後のせいか数字のほうも順調な滑り出しで、今週からは本格的に吉高が出演し、話題を呼んでいる。

 しかし、話題になっているのは吉高の演技だけではない。ネット上でひそかに注目を集めているのは、“今後、花子の恋愛模様がどのように描かれるのか”ということ。というのも、実際の花子は不倫の末に略奪婚を経験しているのだ。『花子とアン』の原案となっている『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』(村岡恵理/新潮社)から、その内容を紹介しよう。

 まず、『花子とアン』というタイトルにもあるように、主人公の花子は『赤毛のアン』を日本で最初に翻訳した人物。山梨の貧しい家庭に生まれた花子が父親の後押しで東京の女学校に編入し、英語で書かれた本に夢中になる…というのが第3週までのドラマのストーリーだ。この第3週では帝大生・北澤(加藤慶祐)との出会いと初恋が描かれ、ここまでは朝ドラらしい展開といえる。

 だが、問題は花子が女学校を卒業し、英語教師を経て、キリスト教の出版社で編集者として働き始めるあたりに起こる。『アンのゆりかご』によると、当時、花子は26歳。“22歳を過ぎた独身の女性は、世間では「行き遅れ」呼ばわりされる”時代だが、花子は夢に向かって新しい職場で翻訳の仕事に勤しんでいた。

そんなときに出会ったのが、印刷会社の経営者・村岡儆三だった。花子が翻訳を手がけた本の出版をきっかけに知り合い、恋に落ちた2人だが、儆三は病気を患った妻と別居中だったとはいえ、子ももつ立派な妻帯者。しかし、2人の恋の炎は燃えさかるばかりだったのか、出会いから2カ月あまりで「儆三の胸に抱かれて、初めて口づけを交わした」とある。──恋の進展に早い・遅いの基準などないものではあるが、現代から見ても“急接近”だったことはよくわかる。

 「病める妻と別れて花子といっしょになりたい」と切望する儆三に対し、「道ならぬ恋に落ちてしまった」ことを悩む花子。2人がやりとりした手紙は半年で実に70通におよぶのだが、その中身もまたすごい。たとえば、花子が儆三に送った手紙の一節はこうだ。

 「(きれいな百合の花をもらったが)あなたがお花を持ってお帰りになったら、周りの方々が妙にお思いになりはしないかと考えて、御遠慮して仕舞ひます。」

 まるでテレサ・テンの歌詞かと見紛うほどに“ザ・不倫”の心情がよくあらわれているが、儆三の手紙も負けてはいない。

 「底冷のする夜、火鉢でも欲しいと思ふ日、秋の夜は何となく寂しい。こんな時あなたと二人であったらと恋しく……Kissします。」

 中2か! とツッコミそうになるが、人を中2にしてしまうのが恋の恐ろしさ。こうして2人は愛を貫き、「初めて出会ってから満6ケ月と16日」でゴールインするのだ。いわゆる“略奪婚”である。

 『花子とアン』の脚本を担当している中園ミホは、この激烈なラブレターを読んで「朝ドラを書くなら、ぜひ花子をモデルにしよう」と決めたというが、果たして既婚女性の視聴者も多い朝のお茶の間は、この恋愛模様をどのように受け止めるのだろうか…?

 ちなみに、花子の親友となる仲間由紀恵演じる蓮子のモデルは、大正時代に“白蓮事件”で世間の話題を集めた柳原白蓮。「昼ドラの金字塔」と誉れ高い伝説のドラマ『真珠夫人』の原作者・菊池寛が物語のモデルにしたとも言われる人物で、その波瀾万丈ぶりは花子の比にもならないほど。史上初の“ドロドロ朝ドラ”となるのか否か、こちらの展開も大いに楽しみにしたい。

(ダ・ヴィンチニュース2014年4月17日)




村岡花子 (資料写真)


★本日スタート。
朝ドラ「花子とアン」の主人公・村岡花子は
元祖「池上彰」だった?

◆日刊アメーバニュース 3月31日07時00分
http://news.ameba.jp/20140331-52/


2014年春のNHK朝ドラは、『花子とアン』だ。
モンゴメリの『赤毛のアン』を日本に紹介した翻訳家・村岡花子(1893-1968)を、吉高由里子が演じる。


▲池上彰氏(資料写真)

出演は他に黒木華、伊原剛志、高梨臨、室井滋、ともさかりえ、石橋蓮司、松本明子、竹山隆範(カンニング)、浅田美代子など。ナレーションは美輪明宏だ。

ヒロインの結婚後の名前こそ「村岡花子」だけど、結婚前の名前は「安東はな」。現実の村岡花子の旧名は「安中はな」だから、伝記ドラマというよりは、現実の人物をモデルにした同名の主人公が出てくる、純然たるフィクションだ。まあドラマはすべてフィクションだけど。

リアル村岡花子の夫・村岡けい三(「けい」は人べんに敬う。社会運動家である賀川豊彦・フサ夫妻の、妻のほうの従兄)の名前も、ドラマでは村岡英治となっている。演じるのは鈴木亮平。
パラレルワールドというか、歴史の二次創作みたいな設定のドラマなのだなー。

さて、このドラマの原案となったのが、村岡恵理『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』(新潮文庫)。親本はモンゴメリ『赤毛のアン』原著刊行のちょうど100年後、2008年にマガジンハウスから出たものだ。原案は「評伝」なので、もちろん、実在の人物は現実の名前のまま。

著者は村岡花子の孫にあたる。〈祖母が亡くなったとき、私は11ヶ月の赤ん坊だった〉という。著者の姉は翻訳家の村岡美枝。ふたりで大田区にある「赤毛のアン記念館・村岡花子文庫」を主宰している。

花子の東洋英和女学校(ドラマでは修和女学校)でのうんと年上の同窓生で、バツイチで編入してきた大正天皇の従妹・柳原あき子(「あき」は火へんに華、以下同。のちの歌人・柳原白蓮[1885-1967])は、ドラマでは仲間由紀恵演じる「葉山蓮子」に変更されている。

柳原白蓮は、のちに、二度目の結婚生活を棄てて駆け落ちした「白蓮事件」で知られた。駆け落ちの相手は、これも社会運動家である弁護士・宮崎龍介。辛亥革命を支援した浪曲師・宮崎滔天の息子である。

これは長谷川時雨の評伝「柳原あき子」(杉本苑子編『新編 近代美人伝 下』岩波文庫所収、青空文庫はこちら)や森まゆみの『明治快女伝 わたしはわたしよ』(文春文庫)などに詳しく、また林真理子が柴田錬三郎賞受賞作『白蓮れんれん』(中公文庫、集英社文庫)で小説化しているほどのスキャンダルだった。


http://cyberweapon.xsrv.jp

『アンのゆりかご』を読むと、白蓮が駆け落ちのさいちゅうに村岡花子に手紙を出したりしている。ふたりの交遊は深かったようだ。この事件はドラマでも大きく取りあげられることだろう。

原案を読むかぎり、『ごちそうさん』に続いて『花子とアン』でも、関東大震災と、太平洋戦争での空襲が描かれるに違いない。

ところで、先立つNHK朝ドラ『ごちそうさん』では、ヒロインの夫の妹・ 西門希子(高畑充希)が昭和初期の大阪ラヂオ放送(モデルはNHK大阪の前身JOBK)のアナウンサーになるという展開があった。

じつは村岡花子も昭和初期に、NHKラジオでレギュラー枠を持っていた。

『アンのゆりかご』によると、キリスト教出版物を刊行する出版社・教文館で少女文学・児童文学の編集者・翻訳家として活躍していた村岡花子は、1932(昭和7)年6月1日から、9年半後の日米開戦までのあいだ、NHKの前身JOAKで、初の子ども番組『子供の時間』(18:00-18:30、帯番組らしい)のラスト5分間「子供の新聞」のコーナーを担当していたのだという。

〈全国のお小さい方々、ごきげんよう! これから皆さまがたの新聞のお時間です〉
で始まる「子供の新聞」コーナーはたとえば、初回放送ではつぎのような内容だったという。


〈帝国議会は大日本帝国憲法という、国の掟によって、今から42年前の明治23年から毎年開かれています。
今日から開かれる帝国議会はその62回目に当るのです。
議院は貴族院と衆議院のふたつに分かれ、国の大切な事柄を決めるのです。
今日はその開院式が貴族院で行われます〔…〕。

帝国議会はいつもならば年の暮れから翌年の3月までの3ヶ月間でありますが、今度の議会は臨時の必要で開かれましたので、今月の14日までの2週間で終わることになっています〉
(250頁。引用者の責任で改行を加えた)


これって、のちのNHKの人気TV番組『週刊こどもニュース』でNHK時代の池上彰さんがやってたことじゃないか。
村岡花子はこの番組で、〈ラジオのおばさん〉として人気ものになったという。番組を締めくくる「子供の新聞」の、そのさらに〆の挨拶フレーズは

〈それではごきげんよう! さようなら〉
というもので、〈この独特の口調が流行し、物真似が現れた〉(252頁)。


いま30歳以上の世代なら、テレビ朝日『日曜洋画劇場』で解説の映画評論家・淀川長治が〆る〈それでは次週をご期待ください。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ〉を小松政夫がモノマネしていたのを思い出すだろう。



▲淀川長治(資料写真)

戦前のNHKラジオは、TVもウェブもない時代のメディアとしてたいへんな影響力があった。そこに、専門のアナウンサーでも芸能人でもないのに起用された村岡花子は、児童文化への貢献が注目されていたのだろう。

だけどこのとき、彼女は『赤毛のアン』とはまだ出会っていない。
1939年にモンゴメリのAnne of Green Gablesの原書を、教文館の同僚であるカナダ人宣教師ミス・ロレッタ・レナード・ショーに手渡された村岡花子は、戦時下にこれを翻訳し、戦後、三笠書房から刊行するにさいし、訳題をいくつか考えていたという。

『夢みる少女』
『窓辺の少女』
『窓辺に倚〔よ〕る少女』

……なんかぜんぜん違う。



編集部と合議のうえ『窓辺に倚る少女』になりそうになったが、そこで担当編集者・小池喜孝が『赤毛のアン』をいう案を出し、社長で売れっ子翻訳家の竹内道之助(ミッチェル『風と共に去りぬ』新潮文庫版はこの人と大久保康雄の共訳)もこれに賛同したという。

村岡花子は〈『赤毛のアン』なんて絶対嫌です〉と突っぱねたが、当時20歳の姪で養女の村岡みどり(著者の母)に


〈ダンゼン『赤毛のアン』になさいよ、お母様! 〔…〕
『窓辺に倚る少女』なんておかしくって!〉



と一気に覆され、

〈この物語を読むのは若い人たちなのだ。
若い人のほうが正しいのかもしれない〉

と翻意したという(326-327頁)。


とはいえ、三笠書房から出た最初の版のカヴァーには、


〈どうひいき目に見てもアンとは似つかない、金髪の、
しかもとても深刻な顔をしている少女が描かれて〉


いたという(328-329頁)。



http://www.toyoeiwa.ac.jp/topics/20130910141545_f.html


これは村岡花子自身が、モンゴメリ作品と出会う前からかかわっていた少女雑誌《少女の友》のバックナンバーに載ったラルフ・ピーコックの「エセル」という絵を流用したものらしい。

〈花子は少女たちのために希望をかけて取り組み、時代を共に歩んだこの雑誌から、そっと「エセル」を連れ出し、『赤毛のアン』の表紙に飾った。おそらく『少女の友』の愛読者世代がこの物語を手にすることだろう。苦難の時代を共にくぐり抜けたかつての少女たちへ愛をこめて〉。

 それでは、1897年に制作された、赤毛でもなくアンでもない、たぶんカナダ人でもない、ブロンドのエセルの絵を、ロンドンのテイト・ブリテン公式サイトで見てみましょう。こちらです。


http://www5c.biglobe.ne.jp/~rosebud/anne-cover.htm

…………オリジナルキャラですか? 

『赤毛のアン』ってゴシックホラー?

そっと連れ出し、というよりはむりやり拉致してきたようにも思えます。

村岡花子にとっては赤毛はホントにどうでもよかったんだ……。


編集部も翻訳者の訳題案を覆して『赤毛のアン』に変えさせた割には、この表紙はOKなんですね。当時の子どもは混乱したんじゃないかな、赤毛ってこういうのをいうのかって。

日本語訳『赤毛のアン』刊行は『花子とアン』後半か終盤の山場だろうから、どう処理してくるのか楽しみです。ここを原案(史実)に忠実にやったら、脚本家もプロデューサーも尊敬します!
……ないよね……。

(千野帽子)


(日刊アメーバニュース 3月31日)


※本文中の写真と改行は、当方が加えたものです。
ご了承ください。



▲『アンのゆりかご―村岡花子の生涯』新潮文庫/村岡恵理


【今日の御言葉/今日の聖句】

死んでも生きる【 ユダヤ民族とその「不愉快な事実」】

2014-04-20 13:48:13 | 今日のみことば



イエスは彼女に言われた、
「わたしはよみがえりであり、
命である。

わたしを信じる者は、
たとい死んでも生きる。

また、生きていて、
わたしを信じる者は、
いつまでも死なない。

あなたはこれを信じるか」

「ヨハネによる福音書」 11章25, 26節
JA1955 新約聖書 口語訳



人間は何のために
生きるのでしょうか。


人のために生きる
というのなら
どれほど素晴らしい
答えでしょう。


愛の結実として生まれ
愛し合いながら生き
永遠なる愛の神の懐に
帰るようになっているのが

創造本然の人間の生の姿です。




▲ロシア正教会のキリル総主教(右)と
ウクライナ正教会キエフ総主教庁の
フィラレート総主教(AFP=時事)



◆正教会トップ「ロシア破壊に終止符を」
=「敵は失敗する」とキエフ総主教

★時事ドット
コム 2014年4月19日


【モスクワAFP=時事】

ロシア正教会のキリル総主教は19日、モスクワの大聖堂で開かれた正教復活祭の前夜祭開幕に当たり、ウクライナ情勢について「神聖なロシアを破壊するもくろみに終止符が打たれるよう祈ろう」と呼び掛け、反ロシアの動きを非難した。
総主教は「ウクライナは政治的に別の国だが、宗教的、歴史的にはそうではない」と指摘。「神の前でわれわれは一つの民族で、同じ正教を信じている」と述べるとともに、「ウクライナに住むロシア系住民のため、われわれは祈らなければならない」と訴えた。

一方、ウクライナ正教会キエフ総主教庁のフィラレート総主教は19日の説教で、ロシアを念頭に「わが国に国土一体性を保証した国が攻撃を仕掛けてきた」と主張。「神が悪に味方することはあり得ず、ウクライナ人の敵は失敗する運命だ」と強調した。

ウクライナの正教会は、ロシア正教会とキエフ総主教庁に分かれている。

(2014/04/20-06:02)





★ユダヤ民族とその「不愉快な事実」

◆世界日報 2014年4月19日
コラム 【ウィーン発コンフィデンシャル】


1917年のロシア革命は人類史上初の社会主義革命だった。その革命の主導者、ウラジーミル・レーニン自身はロシア人だったが、彼の側近にはユダヤ系出身者が多数を占めていた。

レーニンも厳密にいえば、母親がドイツユダヤ系だからユダヤ系ロシア人だ、ともいわれている。カール・マルクスもユダヤ系出身者だったことは良く知られている。すなわち、マルクス・レーニン主義と呼ばれる社会主義思想はユダヤ系出身者によって構築されたわけだ。スターリンがその後、多くのユダヤ人指導者を粛清したのはユダヤ人の影響を抹殺する狙いがあったという。

興味深い点は、ユダヤ民族はロシア革命にユダヤ人が関与したという事実を否定してきたことだ。ノーベル文学賞受賞者のソルジェニーツィンは「200年生きて」という歴史書の中でボリシュヴィキ革命におけるユダヤ人の役割について書いている(200年とは1795年から1995年の間)。

ソルジェニーツィン氏は「ユダヤ人は1917年革命の関与について否定し、『彼らは本当のユダヤ人ではなく、背教者(otshchepentsy)だった』と弁明する。ユダヤ人の主張を認めるなら、同じ論理でボリシュヴィキ革命を主導したロシア人は本当のロシア人ではなかったと主張できるはずだ」と書いている。

冷戦後のロシアでもユダヤ系ロシア人の影響は少なくない。ソ連解体後、新興財団のオリガルヒ関係者にはユダヤ系が少なくない。代表的な人物はプーチン大統領の政敵だったミハイル・ホドルコフスキー氏だ。同氏は石油会社ユコス社元社長で昨年末、プーチン大統領から恩赦で釈放されたばかりだ。英国サッカーのプレミアリーグの「チェルシー」のオーナー、ロシアの大富豪ロマン・アブラモヴィッチ氏もユダヤ系だ(ホドルコフスキー氏の場合、父親がユダヤ人だが、母親はロシア人だ。母親がユダヤ系でない場合、正式にはユダヤ人とはいわず、ユダヤ人の父親を持っているロシア人ということになる)。


ロシア革命とユダヤ民族の関係についてで当方の見解を少し述べる。


ユダヤ人のイエスは2000年前、ユダヤ社会で指導的立場にあった聖職者や指導者から迫害され、十字架に処刑された。「復活のイエス」からキリスト教が誕生し、その教えは多くの殉教の歴史を経ながら古代ローマ帝国で公認宗教となった。しかし1054年にキリスト教は東西両教会に分裂(大シスマ)。現在のロシアには東方教会が伝達され、ロシア正教会が広がっていった。

そして1917年、ロシアで唯物思想の無神論国家を目指す社会主義革命が発生した。その背後に、2000年前イエスを殺害したユダヤ民族の末裔たちの影響があった。


イエスを殺害したユダヤ民族は“メシア殺害民族”という追及から逃れるためロシアで革命を支援し、無神論社会を構築していった。そしてロシア革命への関与を追及されると、「彼らは決して本当のユダヤ人ではなく、ユダヤの背教者だった」(ソルジェニーツィン)と突っぱねてきたわけだ。

(ウィーン在住)

( 2014年4月19日 コラム 【ウィーン発コンフィデンシャル】)


【今日の御言葉/今日の聖句】

兄弟【《進学のいま》北星学園余市高校】

2014-04-02 02:13:48 | 今日のみことば
http://s.ameblo.jp/jtkh72tkr2co11tk317co/entry-11155695111.html




兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、
その人にはつまずきがありません。

「ヨハネの手紙一」/ 02章 10節
新約聖書 新共同訳





▼北海道の北星余市高校の教師をしていた
義家弘介氏 (現 衆議院議員)




おまえらは俺の夢だ。

義家弘介

(『ヤンキー母校に生きる』義家弘介 )





▲テスト問題を広げていた鈴木さん(左)と小峰さん
=余市町の北星学園余市高校



★《進学のいま》北星学園余市高校

◆朝日新聞社 2014年03月31日 11時31分

■人と関わる力高める
■不登校・中退者らを受け入れ

 年齢も、経験も、出身地もさまざま。余市町の北星学園余市高校には、個性豊かな生徒が集う。

 1965年創立のキリスト教系の全日制普通科の私立高校で、88年から全国の中退者や不登校経験者を積極的に受け入れてきた。

 全校生徒は164人。6割が不登校経験者、3割が非行経験者、残る1割は校風にひかれて入学してきた生徒だという。18~20歳が半数程度を占める。
 3月中旬、終業式はすでに終わり、補習と追試の最中だった。

 「とおるちゃん!」

 1年生の教室から、廊下を歩いていた田中亨教頭に声がかった。同校の生徒は、教師をあだ名で呼ぶ。安河内敏校長は「やっさん」だ。

   *  *  *

 声をかけたのは、鈴木諒介さん(18)ら1年生3人。数学のテスト問題を広げて雑談していた。
 この学校のいいところは? 記者が尋ねてみた。

 ラップをやっているという小峰英幸さん(17)は「前の学校は上から目線で、刑務所みたいだった。ここは先生と俺たちの壁がないのがいい」。

 去年の11月から通う田中宏知さん(17)は「すぐに退学にして切り捨てようとする学校もあるけど、ここはそうじゃない」と言う。

 多彩な子どもたちは、初めからすぐに打ち解けるわけではない。距離を近づけるきっかけの一つが、月に1回ほどのペースである行事だという。

 6月には30、50、70キロのどれかを歩く強歩遠足、7月と12月にはスポーツ大会。9月には学園祭もある。行事を通じて、自然と触れあう機会が増えていくという。

 校則は基本的にない。だが、何でもありというわけではない。例えば服装は自由だが、暴走族の着る特攻服は周囲を萎縮させる恐れがあるため許されない。「どこに地雷(してはいけないこと)があるか分からない」。生徒はそう言いながら、何がふさわしいのかを自分で考えるという。

 生徒たちは午前9時までに登校し、午後3時すぎまで学校で過ごす。「子どもたちの問題の根本は、人間関係を築く力が未熟であること。集団で過ごす中で、人と関わる力を伸ばして社会に出してあげたい」と田中教頭は言う。卒業後は7割が進学している。

   *  *  *

 もう一つ、学校生活で重要な役割を果たすのが下宿生活だ。付近に十数軒の下宿があり、9割の生徒がそこで生活をしている。「親が料理するところを見たことがない」という生徒もいて、家庭らしさを味わう場でもある。

 竹達征夫さん(72)と昭子さん(71)は98年から自宅で下宿を経営している。男子専用で定員は9人だ。

 冬場に通学用の自転車が雪に埋もれているのを見るのが忍びなくて、庭のサクランボの木を切り倒して自転車小屋を作った。「学校を辞めたい」という子には、「卒業までやり遂げるのか投げ出すのか。自分で考えなさい」とあえて突き放したこともある。

 「失敗したら、やり直したらいい。いくらでもやり直しはきくんだから」と2人は言う。

 函館市の寺島真寿美さん(54)は元保護者だ。次男(25)は中学生の時に不登校になり、高校は同校に進んだ。今は就職して横浜にいる。当時は周囲に悩みをなかなか相談できなかった寺島さんにとって、同校のPTAは貴重な居場所でもあったと振り返る。

 高校時代、次男が友達を家に連れてきたことがあった。車内での次男たちの会話が印象に残っている。「あいつ変わってるよな」。悪口でも言うのかと思ったら、「日本史を語らせたら学校一だよな」。お互いの良いところを見ようとしてるのだと思い、会話を聞くのが楽しくなった。

 高校生活を送る中で次男は元気を取り戻し、弁論大会などにも参加した。
 寺島さんはこう話す。「自分を認め、自信を付けて、自立させる。北星学園余市高校は、そんな場所を目指しているんじゃないかと思うんです」

 (磯崎こず恵)
http://www.asahi.com/articles/CMTW1403310100009.html
(朝日新聞社 2014年03月31日 11時31分)


▲『ヤンキー最終戦争』義家弘介 (写真)
(産経新聞出版)

本当の敵は日教組だった

【今日の御言葉】


帰る所

2014-03-26 05:20:05 | 今日のみことば
塵は元の大地に帰り、
霊は与え主である神に帰る。

「コヘレトの言葉」 / 12章 7節
新約聖書 新共同訳



人よりも高い位置に上がったとしても、
一瞬の栄華にすぎず、
人よりもたくさんの財物を集めたとしても、
死の門の前では一切合財捨てて行かなければなりません。

お金や名誉や学識、
そのすべてが時と共に流れていってしまい、
歳月が過ぎればすべてなくなってしまいます。

いくら立派で偉大な人だとしても、
命が尽きた瞬間に終わってしまう哀れな命にすぎません。
自分とは何か、自分がなぜ生きなければならないかを、
いくら考えても分からないのが人間です。

したがって、
自分が生まれた動機と目的が自分によるものではないように、
自分が生きるべき目的も、
やはり自分のためではないことを悟らなければなりません。

ですから、人生いかに生きるべきか、
ということに対する答えは簡単です。


愛によって生まれたのですから、
愛の道を求めて生きなければなりません。
父母の果てしない深い愛を受けて生まれた命なので、
生涯その愛を返して生きなければならないのです。


手を合わせる

2012-09-30 14:37:42 | 今日のみことば

見よ、わたしはあなたを
わたしの手のひらに刻みつける。


[イザヤ書 / 49章 16節] (新共同約)



手を合わせれば

憎む心もとけてゆき

離れた心も結ばれる

まるいおむすび

まるいもち

両手を合わせて作ったものは

人の心をまるくする

両手を合わせて拝んでゆこう



坂村真民『手を合わせる』
(さかむら しんみん 1909年 - 2006年)
 

・・・・・・・・・
  


 

キリル総主教、訪日を終えて

9月14日から18日まで日本を訪れた、ロシア正教会の最高指導者、キリル総主教は、ロシアと日本が二国間関係の新たなページをめくる時が訪れたと述べた。
 
 
キリル総主教、訪日を終えて              
=セルゲイ・ピャタコフ/ロシア通信撮影

       

「今こそ、両国関係の新たなページを書き記す時だと思っています。対立を続けることもできますが、我々が共に生き、一つの運命で結ばれていることに気づく時がやってきたと思うのです。自然災害や、その他の悲しいあるいは喜ばしい状況が等しく訪れる、ひとつの地域に我々は生きているのです」。キリル総主教は、9月18日に東京でこう述べた。

 

天皇陛下との会見:「正教会はロシア人と日本人の心のかけ橋」 

総主教は、天皇陛下と会見した後、記者団に報告を行った。「天皇陛下とは、さまざまな意見の交換を行うことができました。今日まで残り、発展を続けている正教会を日本に建てた、亜使徒聖ニコライの功績の意義についてお話しいたしました。正教会はロシア人と日本人を結ぶ、心のかけ橋であることは間違いありません。聖ニコライが日本で成し遂げたことは奇跡のようです。比較的短い期間で教会を建設しました。この教会は、正教の教義や宗規に則ったものであると同時に、日本人の真の文化的生活に溶け込み、その精神においても、文化的形態においても、その本質においても、外国のものではありません。これは日本人の正教会なのです」。

 

野田首相との会談 

野田首相との会談では、総主教は日本人の温かい歓迎に感動したことを伝えた。「私は聖ニコライ列聖40周年記念で来日しました。日本の正教会は国内では少数派の教会ですが、最も困難な時にあたっても、両国民の関係発展に寄与しています」。

野田首相は、ロシア正教会は「日露関係の要だ」と会談で述べた。

会談のなかでは、国際関係における精神的なものの意義に話がおよび、「心のつながりが基本です。これがなければ国民の間の関係は強固なものとなりません」と総主教は述べた。

総主教は、日本とロシアが共に、最良の両国関係を築くべく進む必要があると考えている。このような努力の一例となるのが、総主教が8月に調印したばかりの、ロシアとポーランドの共同声明だ。

この共同声明のなかで、キリル総主教とポーランド司教協議会ヨーゼフ・ウィチャリク会長(プルゼミスル大司教)は、両国の信仰者に向けて、「双方が関わってきた過ち、不正、全ての悪について赦しを求める」よう呼びかけた。
 総主教は、野田首相による両国関係強化の努力への支持を表明した。

 

「和食の衝撃」

また総主教は、日本とロシア、さらには世界各国との関係の強化における、日本食を中心とする日本文化の意義を高く評価した。

「私が日本食に衝撃を受けたのは、はるか昔の1969年でしたが、それは感動という衝撃でした。日本食は日本文化の重要な部分で、世界では日本の優れた外交役となります」。

総主教は18日に日本訪問を終え、ウラジオストク行きの飛行機で帰国した。4日間の滞在で、日本の複数の都市をまわりながら、地元の正教会でミサを行ったり、日本人の聖職者に教会の賞を与えたりした。今回の総主教の訪問は、ロシアから日本に渡って正教会を建設した宣教師、亜使徒聖ニコライ・カサートキンが死去してから100年となるのに合わせて実現され、最終日となる18日に、天皇陛下と会見した。

 

http://roshianow.jp/articles/2012/09/20/39071.html


飢え

2012-03-19 08:12:22 | 今日のみことば
あなたがたは、
わたしが飢えていたときに食べさせ、

渇いていたときにのませ、

旅をしていたときに宿を貸し、
裸のときに着せ、

病気のときに見舞い、
牢屋に いたときに
訪ねてくれたからである。


[マタイによる福音書/25章35節]



私たちは、自分の願いではなく、
創造主の願いによって生まれた存在です。
さらに、愛によって生まれたので、
喜ぶために生まれたし、
喜ばせるために生まれたという
創造本性を持っています。


(R・S・M)

あたたかさ

2012-03-11 02:57:08 | 今日のみことば
このことが冬に起こらないように、
祈りなさい。


[マルコによる福音書 / 13章 18節]


………………

「寒いね」
と話しかければ
「寒いね」と答える人のいる
あたたかさ


(俵万智、いわさきちひろ『風になる』)

……………

【画像は東京都新宿(新宿御苑)】

一緒

2012-03-08 20:07:15 | 今日のみことば
わたしを愛する人は、
わたしの言葉を守る。

わたしの父はその人を愛され、
父とわたしとは
その人のところに行き、
一緒に住む。


[ヨハネによる福音書 / 14章 23節]


……………

面白きこともなき世を面白く 
住みなすものは心なりけり


高杉晋作(1839‐1867)


夏の雪

2012-02-29 15:31:59 | 今日のみことば
夏の雪、
刈り入れ時の雨の
ように/

愚か者に
名誉はふさわしくない。



[箴言 / 26章 1節]





神よ
変えられないものを
受け容れる心の静けさと

変えられないものを
変える勇気と

その両者を見分ける
英知をお与えください。


[ラインホルド・ニ-バ-]


頼り

2012-02-20 08:02:34 | 今日のみことば
何よりも
心に浮かんだ考えを大切にせよ。

これ以上に
頼りになるものはないのだから。


[シラ書〔集会の書〕 / 37章 13節]




【自分の人生も他人の人生も大切にしてほしい】


大平光代
(『だから、あなたも生き抜いて』)


*今日のみことば*

風~思いのまま

2012-02-19 09:06:57 | 今日のみことば
風は思いのままに吹く。

あなたはその音を聞いても、
それがどこから来て、
どこへ行くかを知らない。

霊から生まれた者も
皆そのとおりである。


ヨハネによる福音書 / 3章 8節





多すぎる火は何も生みはせん。

火は一日で森を灰にするが、
水と風は100年かけて森を育てる。



『風の谷のナウシカ』(1984)


*今日のみことば*

持っている人

2012-02-18 20:59:18 | 今日のみことば
持っている人は
更に与えられて
豊かになるが、

持っていない人は
持っているものまでも
取り上げられる。



[マタイによる福音書 / 13章 12節]



欲しいものを何でも与えるのに
十分な大きさの政府とは、

持っているものを
全て取り上げてしまうのに
十分な大きさの政府でもある
ということです。



[ジェラルド・R・フォード]
(1913-2006)


アメリカ合衆国の
第40代副大統領
および第38代大統領
(1974-1977)


*今日のみことば*

からし種

2012-02-17 08:48:03 | 今日のみことば

【からし種】

(粒の比較…写真の左は米粒、右はからし種)


(画像には著作権が存在する可能性があります。ご了承下さい。)

………………

神の国は何に似ているか。

何にたとえようか。
それは一粒のからし種に似ている。
ある人がそれを取って庭にまくと、
やがて育って木となり、
空の鳥がその枝に巣を造る。



[ルカによる福音書/13章18節]


私たちのすることは
大海のたった一滴の水に
すぎないかもしれません。

でもその一滴の水があつまって
大海となるのです。


マザーテレサ
『マザーテレサ愛のことば』より



*今日のみことば*