またまた『ツバキ文具店』からの発想。
ポッポちゃんのお祖母さまである先代さんには、イタリアに(日本人の)ペンフレンドがいたらしい。
そのペンフレンドさんに送った手紙が、ポッポちゃんの手元に届くというくだりがあるのだが、
その手紙を読んで思い起こしたことがある。
私にもペンフレンドがいた。
小学校の5年生の時に、『週刊マーガレット』の文通コーナーで知り合った。
YUKAちゃんという小田原に住む女の子だった。
彼女は、とてもたくさんの文通希望の手紙の中から私を選んでくれたのだと言う。
少なくとも週に1回くらいの割合で手紙のやりとりをしていた。
初めて会ったのは、あれ?何年生の時だっけ?
中学の時だと思うけれど、母が仕事で東京へ出かけた時に、一緒に連れて行ってくれたのだ。
母は仕事があったので、どこかでYUKAと、YUKAのお母さまとお会いして、
一日YUKAのお母さまにあちこち連れて行っていただいた。
中学の修学旅行では、YUKAたちは京都方面、私たちは東京方面だったので、
私は、名古屋駅の新幹線のホームまで、YUKAは、小田原駅の新幹線のホームまで、
それぞれ顔を見に行った。
修学旅行の列車は、停車しても扉が開かないのである。
ただ顔を見て、手を振るだけ。
ただそれだけのためにお互い出かけて行った。
(あれー?ということはどちらも日曜日にかかっていたということだよなあ?)
高校生になると、頻度は減ったけれど文通は続けていた。
大学の2次試験。
私とYUKAは、同じ大学を受けた。(これはたまたま)
東京に憧れる私が、無謀に受けた例の大学である。
試験前日、私はYUKAの家に泊まらせていただいた。
そして一緒に試験に出かけ、YUKAの方が試験科目が一つ多かったので、
私は、一人街をふらついて待っていた。
その時に、レコードショップで竹内まりやの『不思議なピーチパイ』を買ったのを覚えている。
その大学にはYUKAだけが受かった。
大学生になると、手紙のやり取りはほとんど無くなったけれど、
何度か遊びに行った。
その後、年賀状をやり取りするだけになってしまったけれど、
私の中で、YUKAは大切な大切な友達だった。
メールができるようになった頃、メール病だった私は、YUKAにメールするようになった。
でも何だかうまくいかない。
話題がかみ合わない。
その頃、私にはとても辛い出来事があった。
私は、そのことでYUKAに愚痴を言いまくってしまった。
多分、他の人には言わないようなことも言ったと思う。
(Mちゃんにもいろいろ聞いてもらっていたけれど)
そして、私としてはほんのささいなことと思われることがきっかけで、ものすごく非難された。
私はびっくりして謝った。
でも、その返事は更に非難を上塗りされるようなものだった。
私は哀しくて哀しくて泣いた。
本当に、失恋した時のように泣いた。
(いや、私が本当に失恋した時は泣かなかったのだけれど)
その年、私はいつものようにYUKAに年賀状を出した。
返事がメールできた。
そうか。YUKAは今年私に年賀状を出すつもりがなかったのだと思った。
その翌年からは年賀状を出しても音沙汰が無くなった。
そんなに私が嫌いならと、出さなかった年もあったけれど、
やっぱり私にとってYUKAは大切なお友達だから、思いついては年賀状や暑中見舞いやら送ってみた。
返事は一切こない。
どうしてだろう?
どうしてそこまで頑なになれるのだろう?
そう思った。
これがYUKAじゃなかったら、「そういう人なんだ」と思えると思う。
でも、私の知っているYUKAは、決して「そういう人」とは思えない。
今もこれを書きながら泣きそうになった。
ポッポちゃんのお祖母さまである先代さんには、イタリアに(日本人の)ペンフレンドがいたらしい。
そのペンフレンドさんに送った手紙が、ポッポちゃんの手元に届くというくだりがあるのだが、
その手紙を読んで思い起こしたことがある。
私にもペンフレンドがいた。
小学校の5年生の時に、『週刊マーガレット』の文通コーナーで知り合った。
YUKAちゃんという小田原に住む女の子だった。
彼女は、とてもたくさんの文通希望の手紙の中から私を選んでくれたのだと言う。
少なくとも週に1回くらいの割合で手紙のやりとりをしていた。
初めて会ったのは、あれ?何年生の時だっけ?
中学の時だと思うけれど、母が仕事で東京へ出かけた時に、一緒に連れて行ってくれたのだ。
母は仕事があったので、どこかでYUKAと、YUKAのお母さまとお会いして、
一日YUKAのお母さまにあちこち連れて行っていただいた。
中学の修学旅行では、YUKAたちは京都方面、私たちは東京方面だったので、
私は、名古屋駅の新幹線のホームまで、YUKAは、小田原駅の新幹線のホームまで、
それぞれ顔を見に行った。
修学旅行の列車は、停車しても扉が開かないのである。
ただ顔を見て、手を振るだけ。
ただそれだけのためにお互い出かけて行った。
(あれー?ということはどちらも日曜日にかかっていたということだよなあ?)
高校生になると、頻度は減ったけれど文通は続けていた。
大学の2次試験。
私とYUKAは、同じ大学を受けた。(これはたまたま)
東京に憧れる私が、無謀に受けた例の大学である。
試験前日、私はYUKAの家に泊まらせていただいた。
そして一緒に試験に出かけ、YUKAの方が試験科目が一つ多かったので、
私は、一人街をふらついて待っていた。
その時に、レコードショップで竹内まりやの『不思議なピーチパイ』を買ったのを覚えている。
その大学にはYUKAだけが受かった。
大学生になると、手紙のやり取りはほとんど無くなったけれど、
何度か遊びに行った。
その後、年賀状をやり取りするだけになってしまったけれど、
私の中で、YUKAは大切な大切な友達だった。
メールができるようになった頃、メール病だった私は、YUKAにメールするようになった。
でも何だかうまくいかない。
話題がかみ合わない。
その頃、私にはとても辛い出来事があった。
私は、そのことでYUKAに愚痴を言いまくってしまった。
多分、他の人には言わないようなことも言ったと思う。
(Mちゃんにもいろいろ聞いてもらっていたけれど)
そして、私としてはほんのささいなことと思われることがきっかけで、ものすごく非難された。
私はびっくりして謝った。
でも、その返事は更に非難を上塗りされるようなものだった。
私は哀しくて哀しくて泣いた。
本当に、失恋した時のように泣いた。
(いや、私が本当に失恋した時は泣かなかったのだけれど)
その年、私はいつものようにYUKAに年賀状を出した。
返事がメールできた。
そうか。YUKAは今年私に年賀状を出すつもりがなかったのだと思った。
その翌年からは年賀状を出しても音沙汰が無くなった。
そんなに私が嫌いならと、出さなかった年もあったけれど、
やっぱり私にとってYUKAは大切なお友達だから、思いついては年賀状や暑中見舞いやら送ってみた。
返事は一切こない。
どうしてだろう?
どうしてそこまで頑なになれるのだろう?
そう思った。
これがYUKAじゃなかったら、「そういう人なんだ」と思えると思う。
でも、私の知っているYUKAは、決して「そういう人」とは思えない。
今もこれを書きながら泣きそうになった。
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