laisser faire,laisser passer

人生は壮大なヒマつぶし。
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キノシ「小」サーカス

2012-11-09 | kabuki a Tokio

明治座夜の部、見てまいりましたわ。

天竺徳兵衛新噺

いきなり、冒頭から時事放談で腰が抜けた。先代もやっていたそうだけれど、当代は、話は巧いのだろうがなんか愛嬌がなくて、客の「つかみはOK「とはならなかったような。

妖術を父親から授かる場面は数年前音羽屋で見た『児雷也なんとか』とほぼ同じ設定で、亡霊役(今回は猿弥)を、病中だった松助がやっていたのを思い出してしまった。座ったままで口跡も弱く、心配していたら・・・あれが最後の舞台だったと記憶。ちょっとうるっとしたけれど、その後はうるっとする間もなく、あれよの展開。とにかく児雷也だけじゃなく、毛剃、鳴神、五右衛門・・・いろんな世界がない交ぜという名のごった煮で登場するし。

とにかく、蝦蟇は動くは、くすぐり台詞は多いは、入れごとだらけだは、本水、つづら抜け、宙乗り、早替わり・・・「新」噺というだけあって、猿之助(先代ね)歌舞伎を絵に描いたようなてんこ盛り。
猿之助歌舞伎が当時、守旧派?評論家やマスコミから木下大サーカスをもじってキノシ(本名の喜熨斗から)大サーカスと呼ばれていた、というのもなんとなくうなずける過剰(あたしにとっては)サービス。

その分本筋はむちゃくちゃで、たぶん客の八割以上はどういうストーリーなのかわかってなかったと思うが、せつなを楽しめばいいんだろうね、こういう芝居は。

ただ・・・演出の派手さの割に、主役である当代猿之助にイマイチ覇気が感じられなかった。
主役の圧倒的な存在感が大前提の演出だと思うんだけど、なんだかしょぼんとしてる感じで、淡々とああいう芝居を演じられても、見てるほうが引いちゃうんだけどなあ。
昔の亀ちゃんの鼻膨らましてる感じは嫌いだったんだけど、古典で鼻膨らまして、こういう芝居を淡々と、ってあんた逆でしょ、と思っちまった。
若手の時は鼻膨らまさないと存在感が示せなかったけれど、猿之助になったら少しは格上げようとか思っちゃってるんだろうか。
いや、そういうことではなくて単に疲れてるんじゃないかなと思うんだけどね。声も荒れてたし。
蝦蟇の中の人になってたのがいちばんよかったかなあ。やたらとんぼのきっかけをつけるのが巧い中の人だなあ、ひょっとして、と思ったらやっぱりひょっとしたw

中盤の小平次篇がいちばん安心してみていられたかな。やはり亀ちゃんwには女形、しかも悪婆がいちばんよく似合う。そして亀ちゃんの女形はやはり太地喜和子に似てる。勘三郎に感想を聞いてみたいw
小平次も、殺されても殺されても死なないあたりのグロテスクなおかしさが、この役者の本質ととてもよくあっていて、立役だったらこういう白塗り小者(小仏子平とかよさそう)が似合う。

他の役者では、米吉が女形として著しい成長を見せているのと、円熟の寿猿がよかったなあ。あ、どっちも小兵次篇だ、やっぱり。
小平次篇以外だと、奥方役の萬次郎もよかった。久々に綺麗な役で、やっぱり顔つくると(たるんでるけど)綺麗だわこの人。

先代の芝居を見てないので事実関係は不明なのだけれど亀鶴の奴と右近の役がかぶっているような気がしてしまった。あれ、ひとりでよかったんじゃないの?

 

…というわけで、てんこ盛りの割にはあたしだけじゃなく客席全体にそれほど盛り上がらず、なんだかいろんな意味で「小さかったなあ」という印象だったのでした。
亀ちゃん(違うつーに)、本当はもっと普通の歌舞伎やりたいんじゃないのかなあ。そのときはもう鼻膨らまさないでね。