大黒さんの金魚鉢

黒金町の住人の独り言は“One”

One voice , one mission , one family

ガンジー伝(7)

2014年11月14日 | 労働者福祉
おととしの今日、突然の野田総理発言に驚きました。
安倍さんとの党首会談で、「自民党が定数削減に賛成するならば、あさって解散してもいい。
最悪の場合は、来年通常国会でやりとげると約束して欲しい」
そして11月16日に解散します。
野田さんは正直者ですねえ…上にバカがつくくらい。
それに比べて安倍さんはさすが、政治家はそれくらい嘘つきでなければなりませんねえ。
道徳教育が必要なわけです。

政治がどうしようもコントロールできなくなったら私たちに何ができるでしょうか?
ガンジーのようにゼネストをやるのもいいですね。

労働組合の最大の武器はストライキです。
しかし日本においては9500件がピーク(1974年)で、年々減少し昨年度は57件しかストライキは打たれませんでした。
ストライキをやらないからどうのこうのではありませんが、「雇用優先でストは起こしにくい」などという意見を聞くと首をかしげてしまいます。
ストライキの減少と首切りが正比例しているのなら納得しますが、首切りは万延しています。

これじゃあガンジーの真似をしてゼネスト打つのは難しいですね。

『ガンジーの言葉』

私の考える非暴力というのは、大事な人をほうりだして自分だけ危険から逃げ出すようなことを容認するものではありません。
暴力を使うか、それとも卑怯に逃げるかという選択であるなら、私はこの場合においてのみ暴力を使う方を選びます。


さて「ガンジー伝」の続きです。

1921年10月、インド国民会議は公務員に職場を捨てようと訴えました。
大勢の人々が従い、学校・大学は閉鎖され、税を払うことを拒否する人々はどんどん増えていきました。
12月までに不服従と治安妨害の罪で2万人が投獄され、インドの国中が興奮しきっていました。
あまりに興奮が高まり、あちこちで暴動や騒乱が起き、とうとう22人の警官が民衆に殺されるという事件が発生してしまいます。
すっかり落胆したガンジーは、インド全体の抵抗運動をすべて中止させます。
非暴力で運動を進めようというガンジーの意思で闘争の第一段階は終わりますが、インド政庁にとってインド国民会議はもはや無視できない存在になっていました。
1922年3月、ガンジーは反政府抗争の罪で逮捕され6年の刑を受けますが、喜んでそれに従いました。
独房で本を読み、糸を紡ぎ、やすらかな時間を過ごしていたガンジーですが、盲腸をこじらせて1924年手術のために仮出獄します。
監獄から出てみると、インド国民会議はガンジー不在で混乱し、その力はすっかり衰えていました。
しかし刑期が終わらない限り、ガンジーは不服従運動を再開するつもりはありませんでした。

1929年、60歳になったガンジーは再びインド独立運動に取り組みます。
新しい運動はそれまでのようにストライキによって政府を立往生させるやり方とは違い、人々に法律をやぶることをけしかける運動でした。
大勢の逮捕者が出ますが、次第に同情は集まり、政府は追い詰められていくと考えたのです。
新しい運動は、税に対する静かな反抗から始まりました。
それは農民の全面的な勝利で終わりました。
ガンジーはインド各地を回りながら集会で演説を繰り返し、外国製の衣類を焼き捨てる組織作りをしていきました。
インドに協同組合運動の考えを紹介したのもガンジーです。
ガンジーは受託制度という仕組みを考えるようになりました。
生活を簡素にし、欲求を抑えないかぎり、人々は他の人のことなど考えずに、強欲に物をたくわえ、できるかぎり多くのものを奪おうとするようになるだろうと、彼は確信していました。
私たちは所有者でなく、保護者であり世話人にすぎないのだ、という受託制度の考えは、社会に経済的平等をもたらすただひとつの手段だと考えたのです。
ガンジーは最大多数の最大幸福ではなく、全員の最大幸福を信じていたのです。
ガンジーは次第に、自治が許されないなら独立しようという考え方に変わっていき、歴史的な「塩の行進」に入っていきます。

ガンジー伝(6)

2014年11月13日 | 労働者福祉
政界には一気に解散風が吹き荒れています。
国民不在の政治状況をまたまた見せつけられて、これからこの国は何処へ行くんでしょうか?

『ガンジーの言葉』
腐敗は首都の周辺にだけ見られていました。
一般の民はそれから離れて、自分の田畑を耕作していました。
一般の民の前に真の自治がありました。

さて「ガンジー伝」の続きです。

ガンジーの構想では、欲望を自己制御することのできる人たちが、顔をつき合せることのできる範囲で行う自治こそが、理想の政治でした。
現代の議会制民主主義は、目指すべき方向性が定まらず、マスメディアの見解に振り回され、真理を見失っています。
少し弁が立ったり、パーティーを開いたりする人たちの意見に多くの人が一気になびき、熱狂が始まります。
ガンジーは中央集権的な国家ではなく、顔の見える範囲のコミュニティーをひとつの政治共同体と規定し、そこにおける合議こそが真のデモクラシーであると捉えていました。

ガンジーは1904年、南アフリカで「フェニックス農園」を開いて、協同組合的な共同体の実現を試みています。
この農園を開くことになったきっかけは、ジョン・ラスキンの「この最後の者にも」という本を読んだことでした。
この本の中でラスキンは、ある人が所有するものは他の人は所有することができないので、すべての人が十分に所有することができるようになるまで、富める者はぜいたくをつつしむべきだと述べています。

この最後の者にも・ごまとゆり (中公クラシックス)
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中央公論新社
ガンジーは、ラスキンの描く、すべての人が平等に、ともに汗して働く理想の社会を実現したいと考え「フェニックス農園」をつくりました。
その精神は、のちの「トルストイ農園」や「アーシュラム(修養道場)」にも引き継がれていきます。
「アシューラム」には、大きな調理場、150エーカーの広い農場、学校、作業場、織り機など、たくさんの人が共同生活を送るために必要なものがすべてそろっていました。

インドにこうした協同組合運動の考えを紹介したのはガンジーですが、協同組合こそがインドが経済的自由を得る道だと、彼は固く信じていました。
そして今でもインドの農村のコミュニティでは、小規模融資(マイクロファイナンス)や銀行業務、農業に食品製造、そして販売や加工処理産業などで協同組合運動が盛んで、大きな利益を生んでいます。
都市部においても住宅の協同組合はよく知られていて人気があります。

死の淵を見た男

2014年11月12日 | 読書
死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
クリエーター情報なし
PHP研究所

2011年3月11日午後2時46分、異様な音と共に、突然、大地が揺れ始めた。
これがすべての始まりだった。

2014年5月20日、朝日新聞は「原発所員、命令違反し撤退」というスクープ記事を出した。

衝撃的なこの記事が実は朝日新聞の誤りであることが判明し、2014年9月11日に“お詫び”記者会見、翌12日朝刊で“お詫び”記事を掲載した。
“お詫び”で済まされる問題ではないが、真実はどうであったのかを私たちは知りたい。

福島第一原発事故の収束作業を現場で指揮した吉田昌郎氏は、その凄まじいストレスの中で闘ってきた。
いつの間にか吉田氏の体は癌細胞に蝕まれ、2011年12月退任、2013年7月9日この世を去った。
その吉田所長に民間人で唯一インタビューしたのが作家の門田隆将である。
彼の描いたノンフィクション作品「死の淵を見た男」を遅ればせながら読ませてもらった。
これはまさしく極限の中で闘い抜いた人間たちのドラマである。

10メートルの大津波に襲われた福島第一原発。
全電源喪失という非常事態に暗闇の中で絶望的な闘いが始まった。
著者の門田はあとがきでこう述べている。
『…私は、このノンフィクションを執筆しながら、「人間には、命を賭けなければならない時がある」ということを痛切に感じた』

またこの本の執筆の意味をこうも話している。
『…この本は、原発の是非を問うものではない。
あえて原発に「賛成」か「反対」か、といった是非論には踏み込まない。
なぜなら、原発に「賛成」か「反対」か、というイデオロギーからの視点では、彼らが死を賭して闘った「人として」の意味が、逆に見えにくくなるからである。
私はあの時、ただ何が起き、現場が何を思い、どう闘ったか、その事実だけを描きたいと思う。
原発に反対の人にも、逆に賛成の人にも、あの巨大震災と大津波の中で、「何があったのか」を是非、知っていただきたいと思う。
本書は、吉田昌郎という男のもと、最後まであきらめることなく、使命感と郷土愛に貫かれて壮絶な闘いを展開した人たちの物語である』

門田と吉田所長のインタビューは、食道癌の手術(2月)が終わって、脳内出血で倒れる(7月26日)寸前の2012年7月に行われた。
門田の心に最も残ったのは、吉田所長が想定していた「最悪の事態」について語ったことだという。
「格納容器が爆発すると、放射能が飛散し、放射能レベルが近づけないものになってしまうんです。
ほかの原子炉の冷却も、当然、継続できなくなります。
つまり、人間がもうアプローチできなくなる。
福島第二原発にも近づけなくなりますから、全部でどれだけの炉心が溶けるかという最大を考えれば、第一と第二で計十基の原子炉がやられますから、単純に考えても、“チェルノブイリ×10”という数字がでます。
私は、その事態を考えながら、あの中で対応していました。
だからこそ、現場の部下の凄さを思うんですよ。
それを防ぐために、最後まで部下たちが突入を繰り返してくれたこと、そして、命を顧みずに駆けつけてくれた自衛隊をはじめ、沢山の人たちの勇気を称えたいんです。
本当に福島の人に大変な被害をもたらしてしまったあの事故で、それでもさらに最悪の事態を回避するために奮闘してくれた人たちに、私は単なる感謝という言葉では表せないものを感じています」

この本は2012年12月に第1版が出されたが、朝日新聞の誤報記事は2014年5月20日であった。
吉田氏のこの言葉は残念ながら朝日の記者には通じなかった。

故・吉田昌郎氏のご冥福を祈る。


ガンジー伝(5)

2014年11月11日 | 労働者福祉
こんな不仲の両人を見せられて国民はどう思うでしょうか?

会談後、安倍首相は「関係改善の第一歩」と言い、習主席は「徐々に関係改善の努力をしたい」と述べたそうです。
しかしこの写真を見せられてそう思う人は少ないでしょうね。

首相外遊中に国内では国会解散ありやなしやで騒いでいます。
解散の決定権を持つ張本人は蚊帳の外でなにを考えているのでしょうか?
安倍さんになったつもりで妄想してみました。
(解散権をチラつかせれば来年10月の消費増税は通せるはずだ…。
国民の多くは反対しているが、今を逃したら増税はできなくなって国際公約が守れずに国債が暴落するかもしれないし、増税延期法案を提案するということはアベノミクスの失敗を認めることにもつながるからな…。
10月前なら金融緩和でまだ株高は続いているし増税前の駆け込み需要が起きている、10月以降は増税の影響で大不況に陥るかも知れないから、解散総選挙は来夏だな。
争点はやはり安全保障だ。
この調子だと中国との関係改善は夢のまた夢、改善されればそれはそれとしても、尖閣やら小笠原諸島やら問題は山積みだ。
自分の国は自分で守る!海洋国家としても最低限の軍事力は持たねばならない。
そのことと絡めて憲法改正を争点にして真正面から突破しよう。
仏頂面の写真で恥をかいたがまあいいいさ…)

『ガンジーの言葉』
私は暴力に反対です。
いまは暴力をふるうほうがよいと思えるときでも、よいことは一時的でしかなく、その結果起こる悪いことのほうが長く続くからです。
…無抵抗の本当の意味が、しばしば誤解され、曲げられています。
無抵抗とは、非暴力の人間が、暴力をふるう者の前に屈服することではないのです。
暴力に暴力で返す代わりに、死に代えても、間違った要求に対して服従することを拒むのです。


さて「ガンジー伝」の続きです。

1919年4月13日は、インド暗黒の日となりました。
シーク教徒の聖都アムリトサルで禁止されている集会が開かれました。
英軍司令官は、この集会を鎮圧しようとしていきなり兵士たちに、武器を持たない群衆への発砲を命じました。
379名の人間が殺され、1200名以上の人々が負傷しました。
血なまぐさい事件のショックはインド全体に広がっていきました。
この事件が転機となり、ガンジーは英国に真っ向から対立するようになります。
ガンジーはかつて考えも、願いもしなかった政治行動に入っていきます。

ガンジーはそれまで中産階級のたまり場でしかなかった「インド国民会議」に加わります。
会議に新しい息吹を吹き込んだガンジーは、すぐにリーダーとして認められました。
ガンジーは、インド国民会議を大きな民主的な組織とし、国中の小さな村にまで支部をつくります。
1920年、インド国民会議は議論の末にインド人が自分たちで政治をする「自治制」を政策として掲げます。
折りたたみ式の紡ぎ車が、ガンジーたちへの信頼の印となり、解放のシンボルになりました。
ガンジーが言ったりやったりしたことはシンプルでしたが、意味するところは非常に複雑で深遠で奥があって、哲学的でした。
ガンジーは紡ぎ車と家庭内の機織りが地方の財政を立て直し、貧しさを救うものだと信じていました。
自らどんなことがあっても1日1時間は糸を紡ぎ、人々にも自分の服のための糸を自分の手で紡ぐように呼びかけました。
インド人にもっと教育を広めようとする運動や、ヒンズー語を国語にしようとする運動も、インドの国民を蘇らせる力を持っていました。
英国への非協力がインドを独立に導くのだというメッセージを、ガンジーはインドの隅々まで広めていきます。
集会では外国の衣類を着るのはやめよう、英国の布をボイコットしようと呼びかけました。
この頃からガンジーは、あの有名な腰布と手織りの袋という生涯変わることのない服装になっていきました。

ガンジー伝(4)

2014年11月10日 | 労働者福祉
「もったいない」を「ありがとう」に変えることが当たり前の社会になることを目指して、今年5月にスタートした『フードバンクふじのくに』。
余剰食料を生活困窮者に提供するこの運動に、多くのみなさんから毎日のように善意が寄せられています。
また食品関係の企業やユーコープなどからの食料品提供も目立ってきました。

9月24日にはNPO法人格も取得し、名実ともに公共的団体の仲間入りを果たしました。
先日、県庁へ出向きまして、行政とのさらなる連携もお願いしてきましたが、関係各所のみなさまにはさらなるご理解・ご協力をいただきたいと思います。
『フードバンクふじのくに』のHPもありますので、時々は覗いてください。

『ガンジーの言葉』
私は人間に奉仕することによって、神に会おうとつとめています。
神がいるのは、天でも地中でもなく、人々の心の中であると知っているからです。

さて「ガンジー伝」の続きです。

1915年、45歳のガンジーは故郷インドへ帰ります。
南アフリカでの彼の業績は知れ渡っており、たくさんの人々がガンジーを出迎えてくれました。
ガンジーのインドでの活動は、貧しい人びとを救うことから始まります。
ガンジーは、不可触民(カースト制度のさらに最下層の人々)、貧しい農民、貧しい工場労働者の味方でしたが、仲間の多くは不可触民の受け入れに反対でした。
彼はまず不可触民を救う運動に取り組みます。
また、ガンジーは各地を回り、英国人地主や紡績工場に対する小作農民や労働者たちのストライキの支えになったりもしました。

社会に大きな影響力を持つようになっていたガンジーのもとに、インドを統治する英国の総督が助けを求めに来ます。
第1次世界大戦を戦う英国の手助けをするため、インド人の義勇兵を募って欲しいとの頼みです。
平和主義者たちは反対しますが、ガンジーはその頼みを受け入れます。
彼は、インド人が大英帝国の市民としての権利を主張したいのならば、協力を求めてきた英国に尽くさなければならないと考えたのです。

インドの義勇軍は英国兵らとともに戦いに出て行きました。
大きな犠牲を払いながらも勝利はしましたが、この戦争を契機に英国の力は大きく衰えていきます。
インド人たちは英国とともに戦った以上、自分たちが人間としての尊厳と平等の権利を勝ち取ったものと考え、新しい意気込みでいっぱいでした。
しかし英国がインドに対して示した理解と、インドの自治という口約束は守られませんでした。

ガンジーはここで初めて、英国人によるインド政庁と対立する決心をし、「ハルタール」という一種のゼネストを人々に提案しました。
集団で仕事や学校を休み、祈りをささげたり行進をしたりして、権力者に抵抗の意志を示そうというものです。
これが英国の統治を終わらせることになった28年間の闘いのスタートでした。
ガンジーに組織された「ハルタール」は多くの人々によって支持されましたが、地方によってはその抗議行動が暴動に発展してしまいました。
ガンジーは首謀者を非難し、すべての運動を中止させます。
不服従運動を成功させるためには、まず人々への教育が必要なことに気づいたのです。