世界を支配しているのは、考え方以外にありません。
経済学の考え方が間違っていたから金融自由化が正当化され、金融自由化を進めたから信用が爆発的に拡大し、それが崩壊して信用逼迫が起こったのです。
経済とはシンプルにいえば信用にもとづく「モノの売買」です。
大昔は物々交換でしたが、経済規模が大きくなるにつれ変化をしていきました。
誰もが欲しがる希少な貴金属を用いた「金貨」や「銀貨」などが使われるようになります。
しかし十分な量の貴金属を確保できなくなると、貨幣を発行し兌換ルールを定めて「マネー」の量を調整しました。
そして現代はといえば、政府と中央銀行の政策によって「マネー」の量が決定されるようになりました。
「マネー・ゲーム」は無秩序な金融政策から発生していきます。
リーマン破綻の直後、9月18日木曜日の午前11時、FRBはアメリカのマネー・マーケット・ファンドから巨額の資金が流出していることに気づきました。
1時間か2時間で5千5百億ドルもの資金が流出していたのです。
財務省が窓口を開けて1千50億ドルの資金を供給したが、潮流を食い止めることはできないとすぐ気づきました。
電子的な取り付け騒ぎが起こっていたのです。
そこで政府は資金供給を打ち切り、マネー・マーケット・ファンドの解約を停止し、1口座あたり25万ドルまでを保証してパニックを食い止めようとしました。
この措置をとらなければ午後2時には総額5兆5千億ドルが引き上げられていたと政府は推計していました。
そうなれば、アメリカ経済は崩壊し、24時間以内に世界経済が崩壊していたでしょう。
いまの経済制度と政治制度は終わりになっていたはずです。
わが国の異常ともいえる金融緩和によって株高現象が起きています。
あきらかに海外投資家による株高ですが、健全な長期的投資とは思えません。
どこまで続くのか興味深いところでもありますが、こうしたマネーゲームの世界にほんとうに年金資産を預けてもよいものでしょうか?
『ガンジーの言葉』
私は家の四方を壁で囲み、窓をふさごうとは思いません。
あらゆる国の文化の風が、できるだけ自由に家の中に吹き込んでほしいと願っています。
しかし、風に足元をさらわれたくはありません。
さて「ガンジー伝」の続きです。
「塩の行進」によって塩税はなくなり、塩も自由に作っていいということになりました。
そしてインド国民会議派は、ロンドンの第二帝国会議に代表者を送ることになります。
代表に選ばれたガンジーは、1931年、英国に渡りました。
ガンジーは多くの英国人の心をとらえ自分の主義主張の正しさを納得させましたが、帝国会議そのものはあまり実りあるものではありませんでした。
落胆したガンジーは、その後ふたたび英国の地を踏むことはありませんでした。
帰国したガンジーはまた監獄に繋がれることになりますが、監獄の中で壮烈な断食を始めます。
それは不可触民の問題に立ち向かうためです。
釈放後のガンジーはインド国民会議での直接的な行動は取らず、むしろ福祉運動に集中していきます。
また彼にとって長いあいだの懸案事項であったヒンズー教とイスラム教の連帯のために働きました。
この対立を残したままで独立すれば分裂することを恐れていたからです。
1939年に第2次世界大戦が起こります。
インドは戦争に巻き込まれることはないと思っていましたが、英国の総督はなんの相談もなくインドが参戦することを決定します。
これに反発した国民会議派を抑えるために、英国は戦争が終了したらインドを独立させることを約束します。
しかしガンジーは即時独立を主張し、英国に「インドから出てゆけ」との要求を突きつけます。
インド全土で暴動が起き、ガンジーは妻とともに投獄されます。
妻と最後の何ヶ月かをともに同じ監獄で過ごしますが、妻は病気で亡くなります。
からだの弱ったガンジーまでが亡くなったりしたら、さらに激しい暴動が恐れることを恐れてガンジーは釈放されます。
1945年、第2次世界大戦は連合国側の勝利で終わります。
英国は約束どおりインドの独立を宣言します。
選挙で国民会議派は第一党を維持しますが、イスラム教徒率いるムスリム連盟はイスラム教徒だけの国家「パキスタン」をつくろうと計画していました。
ムスリム連盟は英国に対してインドの分割を要求しました。
これが引き金となってカルカッタで凄まじい暴動が起きます。
77歳になったガンジーは、ヒンズー教徒とイスラム教徒が平和に暮らせるようにと、最後の仕事に精根傾けました。
ガンジーの努力もむなしくインドの混乱は続きます。
英国はヒンズーとイスラムの和解をあきらめて、内戦を起こさせないようにと、分割することを決めました。