大黒さんの金魚鉢

黒金町の住人の独り言は“One”

One voice , one mission , one family

ガンジー伝(5)

2014年11月11日 | 労働者福祉
こんな不仲の両人を見せられて国民はどう思うでしょうか?

会談後、安倍首相は「関係改善の第一歩」と言い、習主席は「徐々に関係改善の努力をしたい」と述べたそうです。
しかしこの写真を見せられてそう思う人は少ないでしょうね。

首相外遊中に国内では国会解散ありやなしやで騒いでいます。
解散の決定権を持つ張本人は蚊帳の外でなにを考えているのでしょうか?
安倍さんになったつもりで妄想してみました。
(解散権をチラつかせれば来年10月の消費増税は通せるはずだ…。
国民の多くは反対しているが、今を逃したら増税はできなくなって国際公約が守れずに国債が暴落するかもしれないし、増税延期法案を提案するということはアベノミクスの失敗を認めることにもつながるからな…。
10月前なら金融緩和でまだ株高は続いているし増税前の駆け込み需要が起きている、10月以降は増税の影響で大不況に陥るかも知れないから、解散総選挙は来夏だな。
争点はやはり安全保障だ。
この調子だと中国との関係改善は夢のまた夢、改善されればそれはそれとしても、尖閣やら小笠原諸島やら問題は山積みだ。
自分の国は自分で守る!海洋国家としても最低限の軍事力は持たねばならない。
そのことと絡めて憲法改正を争点にして真正面から突破しよう。
仏頂面の写真で恥をかいたがまあいいいさ…)

『ガンジーの言葉』
私は暴力に反対です。
いまは暴力をふるうほうがよいと思えるときでも、よいことは一時的でしかなく、その結果起こる悪いことのほうが長く続くからです。
…無抵抗の本当の意味が、しばしば誤解され、曲げられています。
無抵抗とは、非暴力の人間が、暴力をふるう者の前に屈服することではないのです。
暴力に暴力で返す代わりに、死に代えても、間違った要求に対して服従することを拒むのです。


さて「ガンジー伝」の続きです。

1919年4月13日は、インド暗黒の日となりました。
シーク教徒の聖都アムリトサルで禁止されている集会が開かれました。
英軍司令官は、この集会を鎮圧しようとしていきなり兵士たちに、武器を持たない群衆への発砲を命じました。
379名の人間が殺され、1200名以上の人々が負傷しました。
血なまぐさい事件のショックはインド全体に広がっていきました。
この事件が転機となり、ガンジーは英国に真っ向から対立するようになります。
ガンジーはかつて考えも、願いもしなかった政治行動に入っていきます。

ガンジーはそれまで中産階級のたまり場でしかなかった「インド国民会議」に加わります。
会議に新しい息吹を吹き込んだガンジーは、すぐにリーダーとして認められました。
ガンジーは、インド国民会議を大きな民主的な組織とし、国中の小さな村にまで支部をつくります。
1920年、インド国民会議は議論の末にインド人が自分たちで政治をする「自治制」を政策として掲げます。
折りたたみ式の紡ぎ車が、ガンジーたちへの信頼の印となり、解放のシンボルになりました。
ガンジーが言ったりやったりしたことはシンプルでしたが、意味するところは非常に複雑で深遠で奥があって、哲学的でした。
ガンジーは紡ぎ車と家庭内の機織りが地方の財政を立て直し、貧しさを救うものだと信じていました。
自らどんなことがあっても1日1時間は糸を紡ぎ、人々にも自分の服のための糸を自分の手で紡ぐように呼びかけました。
インド人にもっと教育を広めようとする運動や、ヒンズー語を国語にしようとする運動も、インドの国民を蘇らせる力を持っていました。
英国への非協力がインドを独立に導くのだというメッセージを、ガンジーはインドの隅々まで広めていきます。
集会では外国の衣類を着るのはやめよう、英国の布をボイコットしようと呼びかけました。
この頃からガンジーは、あの有名な腰布と手織りの袋という生涯変わることのない服装になっていきました。

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