般若心経

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般若心経

2021-11-11 | Weblog
 「もう二十若かったら」

 近くの山の中腹にある観音堂へ、毎朝お参りされている今年92歳のお年寄りがおられます。5時過ぎにお堂に入り灯明お線香をお供えし、お経を唱えています。
「もう二十若かったら」・・・お年寄りがつぶやかれました。それは参道脇の街灯に覆いかぶさるように茂ってしまった木々のことです。街灯の周りの木が大きくなり、街灯の高さを越え、法面から伸びた木はトンネルのように参道を覆ってしまっていました。日の出が遅くなり街灯は点灯していてもその役目を果たさなくなっています。
・・・「切るのだけれど」と続きました。お年寄りの口惜しさが滲み感じられました。
私もそのうち同じような年になるのだろう、そして「もう二十若かったら」と考えるようになるのだろうか。お年寄りと話していてふと思いました。
 私は今七十代、お年寄りの言われる「二十若い年」です。将来、あの時やっておけばよかったと禍根を残さないためにも今、木を切ろう。今であれば木に登ることもできます。
午後の散歩のとき、少しずつ伐採しました。ものは考えようでタイムスリップして二十年先から帰って来たと思うと、木を切っている間はもちろん、一日の他の時間も楽しくなり、一日が大変貴重な一日に感じられました。長く伸びた木は電線を抱き込んでいましたので、思いの外、手間がかかり、ひと月ほどを要して完了しました。
街灯の光は参道を照らし、昼間は気持ちいい青空を見ることができます。あと十年くらいは伐採の心配はしなくていいでしょう。
 それはそれとして、木を切っていて驚いたことがありました。足場を確保するため、下草を刈っていると草むらの中からバレーボールくらいの白いプラスチックのボトルが転がり出てきました。見覚えがあります。
それは40年以上前のことです。小さかった息子とこの参道脇の桜の木に取り付けた巣箱です。当時流行っていた大きなプラスチックボトルに穴を開け、スプレーで茶色に塗っていた巣箱です。



 10年ほどの後桜の木が枯れて倒れ、どなたかが別の桜の木に移してくれていました。その後その木も倒れて巣箱はわからなくなっていました。
 今回、飛び出してきたのは間違いなくその巣箱です。
劣化して割れてはいますが、私を待っていたかのように突然草の中から飛び出してきました。巣箱を前にしばらくの間、取付けたときのことをなつかしく思い出しました。
 未来から若返ってきたと思っていたところ、過去からの思いもかけないプレゼントでした。なにかのご縁でしょうか。