小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

『この世界の片隅に』のエロス的問題

2018年01月25日 | 芸術(映画・写真等含)

 

映画『この世界の片隅に』について、面白くしかも記憶をえぐられるような論評を『極東ブログ』で読んだ。『極東ブログ』は、私がブログを書き始めたとき既に、群を抜く人気ブログであり、その知的ハイブローな記事を読むにつけ、ブログを書く上での模範、ひとつのスタンダードになった。

『極東ブログ』の著者は「違和感というのでもない微妙に、もにょーんという感じが残った」としながら、『この世界の片隅に』という映画を理解するうえでの補助線を提示した。

それはまさしく「エロス的命題」であり、この映画の本質を語るうえで、確かな、揺るぎないストーリーの「肝」として論評の中心にすえていた。おなじく私自身がかつて、この映画を見たときに記憶し、微かに戦慄した「戦時下の性愛」のことである。

極東ブログ 映画『この世界の片隅に』⇒http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2018/01/post-d4d0.html

まず、著者は「この映画を、戦争映画あるいは反戦映画あるいは反核映画という構図で見てもしかたないだろう」と、定義づけるというか初期化(デフォルト)し、「戦争でもなく、戦争なるものの言い換えでもなく、限界状況あるいは非日常、あるいは祝祭的な状況」における物語としてアプローチしている。

私からすれば、映画の観方に作法はなく、いかなる仕方で解釈するのも自由だと思うので、今回は『極東ブログ』の記事について批評をくわえたい(※注)

著者は、まず映画『この世界の片隅に』を「戦争映画ではない、戦争は暗喩であり、一つの祝祭空間におけるエロス的イニシエーションの構図として見ることができる」と論評した。分かる気がした。私も映画を見ながら、その構図が頭のなかをよぎったからだ。

しかし後に原作を読んで、そのエロス的な問題はわたしなりに解決したといえる。

さらには、『この世界の片隅に』が戦争と対峙した、これまでにない女性を視点にした戦争の裏面を正確に捉えたものであること。そして、その芸術的再現に成功した、極めて秀逸なアニメ映画だと再認識したくらいだ。


『極東ブログ』の著者は、映画『この世界の片隅に』における何をエロスとしているのか、「この映画は高度にエロス的である」としたシークエンスは何を指しているのか、もう一度確認してみることにする。


呉に生まれ育った「すず」は、ひとりの女として必ずしも幸せな道を歩んではいない。戦争時という異常な状況にあって、すべての日本人の女性と同じく「生きること」に積極的に見えながらも、未来への不安、家族や親しい人の喪失など、すべてを受容し時流のなかで生きるしかなかった。

そんな「すず」にも、同郷にほのかな恋心を寄せていた水原という男がいた。「エロス」を感じた初めての男と言ってもいい。

とはいえ、適齢期となった「すず」は、家族のすすめにより「見合い」もしないまま、他律的な結婚をすることになる。

原作では最初に、夫の周作にとって「すず」との運命的な出逢いが象徴的に描かれている。しかしながら、それは、周作の一方的な思いを、「すず」に対して抱いたに過ぎない、という伏線がはられる。(ここは女性マンガの、特有のリテラシーを要求されるところだ)

いや、「すず」自身も、結婚直前ではあるが周作を垣間見て、「男のエロス?」を感じたのか自分の結婚を幸せなものとして受け入れた。そうとしか感じられない新婚生活が描かれ、この二人の睦まじい関係は、とうぜん男と女のエロス的シークエンスとしても表現されていた。

話の中盤、戦況が明らかに思わしくなくなる頃、初恋のひとともいうべき水原が「すず」たちの家を訪ねてきた。出征する兵士として、即ち「死」を決意した男が、「最期の心」を寄せる女に会いに来たのだ。「すず」の家族構成は、周作の両親、周作の姉つまり小姑の径子とその娘晴美がいる。「周作の家族」に水原は歓待され、心ゆくまで出征前の束の間を愉しむ。

周作は、隣の小屋のようなところに水原を泊まらせる(エロスの発動、実はここだ)。「すず」にアンカ(動的炬燵)をもたせ、二人で積もる話をしてこいと言い、水原がいる小屋に行かせた。周作は家の鍵を閉める。戻ってはこれない「すず」は、水原と共に一晩を濃密に過ごすという暗喩である。

▲映画にはこのシークエンスはなかった。といって、この二人が結ばれる暗喩もなかった。観客の想像力に委ねる演出か・・。(双葉社の編集には、かつて了解をとったことがあり、この頁を転載することは問題ないと自主判断した)

『極東ブログ』では、この部分はこう書かれていた。長いので端的な部分を引用する。

エロス的であるけれど周作のほのかな嫉妬や水原の健全な男気と純粋無垢なすずに還元されて微笑ましい逸話になってしまう。しかしそれだけであれば、ここで周作が鍵をかける仕掛けは不要であり、本質的に性交の交換の構図が仕組まれていることは避けられない。

以下の解釈もユニークなので引用する。

この秘儀シーンの暗喩は多層的であることは間違いない。私がまず思ったのは、こういう民間人の女を軍人に貸与するというのは、当時珍しい風習でもなかったか、あるいは、含みとしてだが、水原は軍人であり、周作が軍務にあって兵役を免れている負い目からの権力行使も考えられるだろう。これをもっと美談的に、死に行く水原と、水原を思うすずの本心を察して、性交の機会を与えてやろうという、おえぇぇな解釈も成り立つだろう」とする。

「暗喩が多層的」であるという指摘は、つまりはこうだ。広島の遊郭にいる「白木りん」という女性に、「すず」は女として共感するものがあった。運命に逆らえない「女の定め」、その哀切さを「すず」の心情と重ねあわせて描かれていた。そのことと大いに関係している。

著者は、遊郭にいる「素の白木りん」に対してもエロスを見出していて、「りん」に親愛の情をもつ「すず」にたいしても、祝祭空間としての遊郭のエロスを重層させてコミットメントさせたのかもしれない。

『極東ブログ』の著者は、アマゾンの求めに応じて今回のブログを書いたという。映画はもちろん原作も読んでいる。「すずが普通で安心した」「この世界で普通で…まともで居てくれ」と、水原の言葉の引用の選択部分でもわかる。しかし、以下の言説は、到底理解できない。ちょっと長く、独特の言表で理解しづらいところもある。

簡単にいえば、すずや周作やそして水原の「発情」は戦争という祝祭空間によって惹起されたものであり、そこではエロスの神が三者を快楽的な犠牲にしいている。しかし、その祝祭が彼らの内在的な生をどのように支えるかというぎりぎりのとこで、死の側に傾く微妙なゆらぎへの拒否が生じる。補助線的に言えば、仮にここでエロスの祝祭(水原とすずの性交とそのあとの周作とすずの狂おしい性交)が顕現すれば、水原は、物語の力としては死に定められる。その死にすずが同意したことですずも死に定められ、そして周作もすずのエロスの本性に充足して死ぬことになる。すべてを死が支配することになる。

戦争を巨視的にみれば、ニーチェやバタイユのように祝祭空間として位置づけることは可能である。そこに「エロスと死」を介在させれば、「戦争」の根源的な思想性はかなりの強度をもつ。そのことを述べたいのだろうか・・。

 

さあ、『この世界の片隅に』の作者・こうの史代は「戦争×祝祭×エロス」を意図したであろうか。

もちろん、戦争下であろうと「女性性」は健全である。むろん、人を愛するという深奥をもっとも知り尽くしているのは女性だ。男性は戦争下でも、愛ではなく快楽を求める。「死」に隣接している兵隊は、「生きている」実感をもとめて、性への欲動を止めようとはしない。

だからこそ、原作者・こうの史代は、(戦前・戦中の)エロスの構造をふまえつつ、「すず」のひとりの男(周作)に捧げる「愛のエロス」を描ききっている。「普通のおんな」であるからこそ、男の安直な欲動を制止し、女の愛・エロスを「すず」は見事に屹立させたのだ。

映画監督の片渕 須直は、こうの史代の女からみた戦争、エロスに敬意を抱いていたはずである。だからこそ「エロス化するイニシエーションの構図」をさりげなくデタッチメントしたのだ。

『極東ブログ』の著者がいみじくも、「そのことはもしかすると原作者、映画製作者、あるいは大半の受容者には意識化されていないかもしれないし、であれば、こういう私の構図も忌避されやすいだろうとも了解できる」と書いていたが、それはまったく当たらない。


最後のほうに、祝祭的な共同幻想と個人のエロス性をからめて吉本隆明、その著書「共同幻想論」に言及していた。やはりと思った。「finalvent」氏の独特の、知性的言い回しは吉本隆明の影響をたっぷりうけたように思った。『極東ブログ』のいい読者とはいえないが、粘り強い知性と広汎な見識に裏打ちされているのも、これで了解できた。ちなみに『極東ブログ』の著者のハンドルネームというのか、ペンネームは「finalvent」とあり原発をイメージすれば「最終通気孔」だ。「最後の頼みの綱」ほどの意味があるのだろうか。(ちょっと背負っているかと思いきや、「仮面ライダーの必殺技から適当に拾ったもの」らしい。

 

しかし、わたしは『反核異論』以来、吉本隆明を読むことはなくなった。彼の影響を脱し、自分なりの思考・プラットフォームを作りあげるのに10年ちかく要した。このことは本稿のテーマとは異なる。機会があれば、別のところに書くことにする。


(※注):この記事は1日おいて投稿した。私のブログの最初の読者は妻である。全部の記事ではないが、私が特定の人物、物事に関して批判的な記事を書いたときには、妻が読んだ感想をきいた上で投稿している。後悔したことがあったからだ。妻は、批判的し過ぎるわたしの言表には「危うさ」を感じているらしい。ものを書くうえでの礼節は弁えているものの、ときに短絡的、直情的な書き方になり、謙虚さを欠くようにみえるという。確かにその傾向はありと認め、妻だからこそ許容できる、私の人格的瑕疵の指摘である。

私はその指摘を受容した。この記事を一日寝かせ、再度吟味して投稿したことを、数少ない読者に対して正直に告白する。「あなたが批判的になるとき、心配になるし、周りのものが引いてしまう」という妻の言葉に、心当たりが十分にありそれを踏まえて投稿した記事である。だから、私の記事は一方的な批判ではなく、見解の相違に基づく個人的な論評として、読者に読んでいただけるものと信じている。

 



 





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2 コメント

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山猫軒さま (小寄道)
2018-07-18 00:44:38
まさか私よりもヘビーなファンだとは・・。思いがけなく嬉しく、さらに「この世界の片隅に」を契機に、広島と呉への旅行に行かれたのは、まさに私と同じ道筋です。
しかし私の場合、「戦争体験」がありません。親や祖母からの又聞きでしかありませんので、山猫軒さまに比べれば、多少論理性はあるかもしれませんが、実態とはほど遠いものです。
ともあれ、意見を交換する機会があれば、ぜひともいろいろとご教示ください。
どうも先輩にたいしては、堅苦しい言葉づかいになります。他意はありません。
共にいい時間を過せたらと願うのみであります。ではまた。
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Unknown (山猫軒)
2018-07-17 18:22:20
私もこの映画を三回観ました。原作も読み最近は妻との広島旅行をで、原爆ドーム、平和公園、そして呉まで足を伸ばしましたので、コメントを置いておきます。ブログを拝読して、なるほどいろいろな見方があるものだと、感心しています。私はどちらかというと論理的に考えるのは苦手で、情緒的な人間なので、みなさんと少し違った捉え方をしています。それは何かといえば、「戦争体験」(幼いながら)があるような気がします。そのことはいずれ一杯やるときに語り合えたらいいなと思うのですが。
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