小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

守一の『轢死』を見て

2018年03月16日 | 芸術(映画・写真等含)

 

熊谷守一(くまがい・もりかず  1880‐1977)の『轢死』(1908)の実物をはじめて視た。

解像度がシャープな出版物でも、全体が真っ黒にしか見えず、ほのかに横たわってる身体が認められるだけの絵画。ぜひとも本物を目の当たりにしたいと願っていて、遂にその機会が訪れた。

ガラス越しであったが、見方を変えたり、目いっぱい凝らして観たが、やはり判然とせず何がなんだかわからない。遠目で見たらほとんど真っ黒な絵にしか見えない。

この時代の守一は、『蝋燭』(1909)をはじめ闇の中に溶けこんでしまう画像を好んで描いていた。裕福な実家は零落し、守一も辛酸をなめるような生活の中で描いていて、暗鬱な雰囲気というか、暗い色調の重苦しいイメージの絵が多い気がする。

▲『轢死』を描いた翌年、明治42年にかいた『蝋燭』。西洋美術の具象画の作風だが、色調はほとんど暗く、光との対比を意識的に描いている。『轢死』は真っ黒に塗りつぶされた絵にしか見えないので、ここには載せない。

『轢死』は、初期の傑作と言われているが、残念ながら油絵の具の劣化が激しい。絵がもつ本来のテクスチュアさえも判別できない。すこぶる不満である。最近は絵の修復技術も進化している。特殊な洗浄を施し、原初の状態にもどせないものかなと願いながら鑑賞した。『轢死』、『蝋燭』のいずれも岐阜県美術館蔵なのだが、予算的に難しいのだろうか・・。

今回の『没後40年 熊谷守一 生きるよろこび』は出展数200点以上、日記や画材などの展示も含まれ、岐阜の「付知(つけち)記念館」所蔵はじめ多くの美術館から蒐集して壮観であった。

また、画業の変遷を6つのコンセプトに分けて展示し、作風を変化させていく技と方法、秘密もよく理解できた。転換となる重要な作品には、参考とすべき西洋絵画のミニチュアや、コンパクトな美術評論の解説があり、はじめて熊谷守一を観る者の理解に供するよう、丁寧でこまかな配慮が感じられて秀逸であった。

『轢死』の、その作品解説には、初めて知ることも書かれてあったので、そのことについて書いてみる。

美術学校を卒業した守一は、1年後に樺太へ向かった。漁場調査隊に加わったのだが、その間2年間、北海の島々、各地を旅行しスケッチをたくさん描いたという(作品のほとんどが関東大震災で焼失)。その後東京にもどり(1907年、27歳の頃)、上野桜木(谷中)、千駄木、日暮里に住んだ。

あるとき、日暮里駅の踏切事故の噂をききつけ、守一が実際に足を運び、現場にある女性の轢死体を鮮明に目に焼きつけて(あるいは素早くデッサンして)、その後で丹念に描いたものだ。

驚いたのは、その踏切とは日暮里駅の御殿坂側と書いてあった(周辺は高台になっており、江戸の殿様がここで鷹狩りをしにきたので「御殿坂」なる名がついた)。

(次の記述は間違いだがそのまま残す:地元の駅だが、踏切は今はないし、地形的にありえない。いまから100年以上前のことだから想像するしかないが、踏切があったとしたら、道灌山から日暮里へ切通した現在の「開成通り」に踏切があり、その道は御殿坂にも通じていたのであろうか・・。(※追記)

 

解説にはまた、『轢死』と同じシチュエーションが、夏目漱石の小説『三四郎』のなかに、守一の絵画を彷彿とさせるように表現されていると紹介。その頁の箇所と文まで引用してあり、その丁寧さは嬉しいのだが、「熊谷守一は、夏目漱石の影響をまったく受けていない」と断定的に書かれてあり、それはどうかと思った。

以前、岡崎乾二郎氏の芸術論『抽象の力』において、熊谷守一の抽象化の画法が漱石の芸術理論からの影響であると言及されていた。私も感化され、我が意を得たりと『草枕』のテーマに隠される西洋芸術の粋を、守一独特の抽象化の美学に重ねて論じようとしたが、自分でいうのも何だが見事に挫折した。(※参考)

 

それはそれとして、今回の展覧会において、『轢死』という作品が熊谷守一にとっても作画の大切なモチーフだったらしい。守一は裸婦をモデルにした作品も多いが、昭和初期の『裸婦』という絵画には『轢死』と同じ構図、色調で描かれたものが二、三認められる。20年を経た後にも、女性の轢死体の残像が忘れがたくあったのだろう。それはもちろん、残酷な嗜好ではなく、科学者にも似た観察眼と独特の美意識によって、横たわる女体の存在感を追求しようとした結果だ、と筆者はかんがえる。

そうした創作の精進と、色・形へのたえまない探求によって、守一ならではの「抽象化の美」は深まっていった。

▲最近、何故か見入っている『水口』。80歳のときの作品。(今回の展覧にはなかった)

 

 

▲近代美術館のエントランス。この日同時開催の、所蔵作品展の「MOMATコレクション」も観たが、別の機会に・・。

 

(※)『熊谷守一と、漱石の草枕』:https://blog.goo.ne.jp/koyorin55/e/79b1f9a181bdab6db1f32d3014befef2 

挫折して書いた記事がこれ⇒『草枕の源流になにを見る』:https://blog.goo.ne.jp/koyorin55/e/8fecd7f9477aa06451061807f45d09d0

 

(※追記)踏切の場所について、どうも腑に落ちなかったので調べた。日暮里駅は1905年に開設された。三河島 - 日暮里間が開通したことによるもので、現在の常磐線の位置にあたる。その後、1909年に東北本線の所属にもなった。つまり、守一の『轢死』が描かれた1908年には、日暮里駅は現在よりも規模は小さく、したがって、御殿坂もまっすぐ下日暮里(通称)方面に伸びていて、坂道は東北線手前あたりまで伸びて、その先に踏切が設置されていたようだ。開成通りとはもちろん関係ないのだが、こちらにも踏切は敷設されていたはずだ。日暮里駅が出来て3年後の踏切事故、当時としてはかなりの騒動であったことが推測される。(2018 3/22記)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。