小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

DNA型鑑定に、限界はあるのか

2018年06月15日 | 社会・経済

 

 もはや3,4日前のことだ。どうしても書き留めておきたいことがある。通称「袴田事件」の再審請求が却下された、このことについて触れたい。

有罪が確定した人でも、一縷の望みは残されている。それこそ「法」が発揮すべき本来の力、可能性だ。「再審請求」の意義はここにある。

とはいえ、日本では「刑法」のもとに裁かれた人は、否応なしに99.5%以上の確率で有罪となるのが現状。残りの0.5%は、有罪がひるがえって無罪になったのか。 

(直近では99.8%? もの凄い実績である。素晴らしい仕事ぶりである。でも、もし間違いがあったなら・・。些細なミス、見逃しや手抜き。最近話題の、証拠の改ざんやねつ造があったならば、空恐ろしい顛末をむかえる。)

いや、その事よりも、容疑者は、つまり「灰色」であっても、報道では「黒色」に粉飾されるという現状が問題だ。この事実は、とても特殊で、日本的な情況だということを頭に入れておいて損はない。

自分は罪を犯していない。だが、ひょんなことから事件にまきこまれ、あろうことか犯人(車内の痴漢など)にされたら、99.5%以上の確率で有罪になる。

 

1966年に起きた静岡県の一家4人殺人事件。その犯人として袴田巌さんの死刑は確定した。自白を誘導され、証拠もねつ造(?)され、冤罪ではないかと多くの人が危うんでいた。

40年ほど経ってから、証拠物件のシャツについた血痕は、袴田さんのものとは違うことがわかった。新たなDNA鑑定によって、別の誰かの血液だと特定されたのである。別に真犯人がいるということだ。その可能性が認められた。

これにより、弁護側から出された再審請求は、科学的信用にたる鑑定結果だという判断のもと、静岡地裁によって裁決されたのだが・・。

事件、裁判の経緯を、正直わたしは詳しく知らなかった。報道がなかったら、関心ががないまま過ぎ去ったことだろう。

冤罪そのものに、誰もが憤りを感じるはずだ。もしも自分だったら、という思いが頭をよぎるからだ。

冤罪は恣意的に、組織ぐるみでしかつくれない。白、灰色のものは、何かを使って着色しなければ、黒色にはならない。

罪を犯してない人に、罪を被せることは、人間の尊厳を根こそぎに破壊することになる。人権侵害の、それ以前の問題である。

なぜ冤罪というものが生まれるのか、どう考えても理解できない。司法に与する組織、個人はまず、市民を利する地平に立つことが初動条件ではないのか。

 

「灰色はあくまでも白である」という「推定無罪」の見地をはずしてはならない。それが基底であると、法律を勉強した身でなくとも、基本的な人権として教えられ、叩きこまれた。

DNA鑑定は50年前には、犯罪捜査にはまだ確立されていなかった。だからこそ今、確定された刑罰でも、新たな疑義、証拠が見つかったならば、再検討をくわえることは必須になるといえないか。

「袴田さんのものではない」と認定した筑波大の本田克也教授による、新たなDNA鑑定とは以下のものだ。

選択的抽出法といい、いろいろな物質が混じりあい経年劣化した血痕から、血液に由来するDNA型だけを取り出す。そのために、血液細胞に反応する「レクチン」という試薬をもちいる。

筆者はDNA鑑定について何も知らぬ素人で、本田教授の方法がどれほど画期的であるか分からない。しかし、血液というたんぱく質をターゲットに、その物質特性を抽出することに特化するのは理に適っている。試料は減少するだろうが、解析の精度を高めるというのはグッドアイデアだと思う。(※追記)


東京高裁は、本田教授の鑑定方法は「一般的に確立されていない」ものであり、「鑑定に手作業が入り込み、汚染の機会が大きくなる」という理由から再審請求を斥けた。

当初、検察側は、本田教授の鑑定そのものを検証するため、大阪医科大の鈴木広一教授という方に委嘱したそうである。先に書いたように、「レクチンにDNAを分解する酵素が含まれ、DNA型の検出量が格段に少なくなる」という結論をだした。)⇒

⇒(つまり、検体質量=試料は減少するのだから、鑑定は不適切だという指摘である。これは解析技術の進歩をまったく考慮していない論理だ。現時点では、きわめて微量な(ナノレベル)の質量でも、分子レベルの解析が可能なのだ。文系の私でさえ、一般常識として知っていることだ。)


東京高裁はなぜか、本田教授に鑑定に関するいっさいの尋問をせず、再検証した鈴木教授の鑑定そのものにも全くふれなかったという。どういう事なのか理解に苦しむ。再審請求を斥けた「根本理由」を、自ら放棄したことにならないか。

さらに、新聞の報道によれば、「自白の嘘を証明する新証拠となる取調べの録音テープの鑑定書を一蹴した」とある。

ながながと裁判の概要を書いてきたが、どうも辻褄が合わないというか、合理性が認められないのだ。素人のくせにきいたふうな口をきくなとお叱りをうけたら、はいそれまでだが・・。(新聞記事が偏向したものならば、筆者の書いたものは根本から崩れる。それはさておき、ということでご海容を)

素人ではあるものの、これだけは言いたい。「推定無罪」の原則をつらぬけ。「疑わしきは罰せず」である。「灰色は白」である。

 

日本の刑事裁判では、検察が立件したものは99.5%以上の確率で有罪になる。つまり、有罪になるものしか立件しないという逆説がある。袴田さんの件も、有罪に足る証拠を固めて立件した。そのときになかったDNA鑑定を採用することはやぶさかではないはずだ。黒がより「真っ黒」になる。

しかし、その証拠そのものが、黒から白、いや少なくとも灰色に変わった。意外だったか、面子まるつぶれか。でも厳粛な事実だ。

検察側は、DNA鑑定の内容に問題ありとしたわけだが、素人さえにも分かる合理的な理由を示してはいない。反証するために委嘱した科学的根拠もあるのに、それを法廷の場で示すことをしなかった。証拠能力が軟弱だとみずから認めたことにならないか。

 

有罪の言い渡しを受けた者の利益となる新たな証拠が発見されたとき」。これこそが、再審請求の確固たる法的根拠である。

さいきんの司法による一連の判断、裁定がどうもおかしい。ど素人の私でさえ、論証のプロセスが客観性に乏しく、科学的論拠が薄弱である。

司法というシステムに制度疲労なるものは成立しない。携わる人間、その組織がいままでにない劣化、歪みが起きているとしか思えない。

では神にすがれば解決の途は開かれるのか。そんなものはない。話し合いをつくし、叡智をしぼるしかない。そこからの手立てはいくらでもあると思う。

 

(※追記)DNA型鑑定に関する用語について、多少混乱があります。気づいたところから訂正していきます。「試料」と記述していますが、以前は「検体質量」などと我ながら不明な言葉を我流で使っていました。
化石や死んでいる動物からでもDNAを取りだすことはできます。試料としては微量でも、ネズミ算式にDNAを大量に増やすことができるPCR法(ポリメラーゼ連鎖反応法)が1980年代に開発されています。このことで「古代DNA」の研究が一挙に前進しました。『DNAから見た日本人』斉藤成也(ちくま新書)より

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