小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

「分」と人権

2016年05月13日 | エッセイ・コラム

 

前回のブログでは、「人権」というもののアプリオリな正しさ、確かさに基づいて書きすすめた。私の中では、論理的な整合性はつけたつもりである。

しかし、日本人としての感情というか、情緒性において、自然権とか人権というものの概念を実体として捉えきれていたか不安になっている。わたし自身の不安もあるが、生みだした西欧側にもそれはあり、一抹の不信を抱かせるのだ。それを解消しない限り、不眠のタネになりそうだ。

そもそも、日本には「人権」という概念はなかった。お隣、中国、韓国にもなかった。それに代わるものがあったからだが、日本でいえば「分」(ぶん)というものがあった。「武士の一分」のそれである。

江戸時代が長らく存続してきたのは、士農工商という身分制度が定着した社会であり、そのシステムが幕府を存続させてきたことと大いに関わりがある。この身分制度は、差別に基づく階級制度ではないが、暗黙のヒエラルキーはあった。が、実力者は、なろうと思えば、侍になれた。つまり侍「株」があって、借金で困った足軽や旗本から、この株を買って武士になった。(勝海舟の父親はこれにより士=侍になった)

「分」とは、全体を構成する一つの役割であり、「武士の一分」もあれば「百姓の一分」もある。すなわち、それぞれに弁える身分があり、その「分」に応じた役割と責任、さらに誇りと面子があった。だから、侍という「分」は頂点に立っているけれども人間としての上下関係ではない。武士は、農工商という身分の人間を差別するような理由はさらさらない。それぞれが各々の「分」を認め、敬意を払っていたはずである。(地域的なエビデンスしかないので、これは確信ではない)

それ以外に「、非民」という、今でいう被差別民もいたが、本当のところは彼らの役割、存在理由は認められていた。限定された地域に住まっていれば摩擦はなく、彼らの生業は社会にとって必要なものだったのである。また、中世より、非民の世界は、五穀豊穣を祈願する芸能に通じる職能民であり、天皇が彼らを支えていた事実もある。網野善彦の史学の功績は多大であったといえよう。

「分」の具体的説明はさておき、「人権」なるものが我が国に入ってきた頃のことを確認したい。

▲花には「分」があるのだろうか。生態系を考えてみれば、花虫草木にも「分」はありそうだ。

さて、「明治維新」といういわば突然変異的な社会変革によって、表層だけの民主主義社会がつくられたことから、「分」を成立させていた社会規範が崩壊する。

「人権」という概念は、大日本帝国で規定されたわけであるが、あくまで西欧から持ち込まれた抽象的法概念で、一般市民には流布、浸透していない。むしろ、士族階級に混乱がみられた。実際には政府の都合のいいように運用されたにすぎなかった。(明治初期の「人権」の在り方がどうであったか、詳しくはわかりません)

当初、中江兆民、内村鑑三など優れたインテリが人々に分かりやすく解説したが、残念ながら一般に受け入れられることはなかったといえよう。

ただ一人、田中正造のみが実体としての活動、その思想を体現化したと、私は考えている。(人権という概念が、公害に抗する「自由民権運動」として一般民衆に浸透したのは、谷中村の足尾銅山鉱毒事件からではないか・・)

最後に、西欧の歴史において「人権」は、どのように形づけられたか。稿を改めて書いてみたい。

どうやら「人権」や「自由と民主主義」などは、普遍的な概念ではないのである。難しい話になりそうだ。

 

 

▲近所の野良猫。「綱吉」(ツナキチ)という名があり、喧嘩がめっぽう強い。この面構えは、「分」を主張するニャン。冬になると、どなたかの所に居候を決め込む。

▲今年も睡蓮が咲く。



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