小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

映画『離愁』の儚き記憶

2021年03月17日 | 芸術(映画・写真等含)

敬愛する竹下節子さんのブログにジャン・ギャバンとシモーヌ・シニョレが共演した映画『猫』(1971年のフランス映画)を観た感想が書かれていた。監督はピエール・グラニエ・ドゥフェールである。この名前が、かつて観た『離愁』を想いだした。作品として強烈な既視体験はあるが、恥ずかしながら映像シーンのほとんどを覚えていない。実のところ、女優のロミー・シュナイダーの凛とした表情しか思い出さない。

その前になぜ『猫』は日本で評判にならなかったのか気になった。フランス男女の大俳優が出演し、メグレ警部シリーズで有名なジョルジュ・シムノンの原作とあらば結構観る人が多かったと思われるが・・。で、ドゥフェールのフィルム・グラフィーを検索したら、なぜか見当たらなかった。たぶん公開されなかったようで、DVDも輸入されていないのか・・。
ということで、『猫』については、竹下さんのブログを拝見していただきたい。

『猫』ジャン・ギャバンと シモーヌ・シニョレhttps://spinou.exblog.jp/32030604/

ちなみにピエール・グラニエ・ドゥフェールの作品については、映画関連のほとんどのサイトで『離愁』が筆頭に紹介されていた。その他、『帰ってきたギャング』(1966 主演:リノ・ヴァンチュラ)『帰らざる夜明け』(1971 主演:アラン・ドロン)、『限りなく愛に燃えて』 (1976 主演:ロミー・シュナイダー)、主演がブルーノ・クレメルのメグレ警部シリーズの映画が3本あった。

また番外に1967年作品で、主演:ジャック・ペランの未青年 』があったが、題名からいうとドストエフスキーの映画化であろうか。当時からフランス映画はごく一部のマニアでしか観られてなく、ゴダールやトリフォーにしても大ヒットになることは稀であった。それにしても『未青年 』と『猫』は気になる。

フランス映画ではそのほかにフィルムノワールの巨匠ジャン・ピエール・メルヴィルの映画も好きだったが、作品数は少なく『リスボン特急』を最後に1973年に亡くなってしまった。その後はリュック・ベンソンくらいで、フランス映画は、個人的には衰退の一途をたどったというしかない。

それにしても、ピエール・グラニエ・ドゥフェールという監督は、この日本ではほとんど知られていないと思う。

まあ、ドゥフェールという人は、表現したい主題の幅が狭かったのかもしれない。ヌーベルバーグと同時代だったけれど、斬新な映画手法には関心がなかったのだろう。フランスの大衆に共感できる表現のみにこだわったというべきか。

昔の映画は、なぜ恋愛映画が多かったのだろうか。男は戦争映画、女は恋愛映画。そんな棲み分けがあった気がする。生きるうえで「愛情」がいかに大切であると分っていても、実際には儚く、軽んじられ、個人の身勝手により忘れ去られる。そんな「愛情」こそが失ってこそ尊いものだと分る映画の数々。

かつて観た『離愁』のトレーラーをYouTubeで探したら一番最後の肝のシーンがあった。まあ、しかしこれだけを見ても、男女の表情の変化、女性が顔を触られて、やがて男性にしなだれてゆく理由が分からないはずだ。全編観たうえで最後の5分ほどのシーンが、この映画のキャッチフレーズ的な謳い文句「究極の愛」の表現であることがわかる構造になっている。(追記)

ネタばれを恐れずに端的に書く。

二人は不倫関係にあった。女性(ロミー・シュナイダー)はドイツ生まれのユダヤ人で人妻。男性(ジャンルイトランティニャン)の方は当初臨月の妻がいた。第二次世界大戦がはじまる最中だろうか、二人は列車のなかで偶然に会い恋に落ちる(『離愁』の原題は「Le Train」)。

これだけを見て当時、美男美女はわけもなく惹かれあうものだと認識した。そして腹立たしかった。美男じゃない「俺」は絶対にこんな経験はないだろうと激しく嫉妬した。まもなく生まれる子供と可愛い妻がいるのに、トランティニャンのこの身勝手さや倫理の稀薄さに憤りを感じたものだ。

フランス映画はかくも安易に男女が結ばれることを主題にするのか・・。当時の若き「俺」は、愛情の本質たるものを理解できていなかったのだ。いや、今にしてもそれは不完全かもしれない。

さて、映画の二人は、やがて愛し合い、仲睦まじいひと時を過ごす。ヒットラーの命令でユダヤ人を探し出し逮捕されるかもしれない状況は、やがて二人を追い詰め、別れさせる。数年後、男も妻に子供が生まれ平穏な生活をおくる。

そんな中、男はゲシュタポに召喚される。あるユダヤ人女性を知っているか。知っていることを言えば、ほぼ死刑になることの罪状だと認識している。

二人は引き合わされる。尋問するゲシュタポ役の俳優の演技もいい。ロミー・シュナイダーもトランティニャンも無言で演技する。表情や仕草の繊細な演技(変化さえ気づかない)だけで、二人の心理を推しはかることができ、観客の琴線を萌えさせる。ここはもうドゥフェール監督の妙技というべき演出だろう。

『離愁』のトレーラーは、最後のシーンだけをピックアップしたものだけだ。もちろん多くがカットされ、この場面はもっと濃密なシーンだった。最後の最後で、トランティニャンは「究極の愛」つまり死を覚悟して、女への無上の愛を表現するのだ。思い出すなあ、男と女が愛する機微のひとかけらも理解できない若造のぼんくら。この「俺」が理由もなく泣いた時もあったのだ。誰かが言っていた、映画ってほんとにいいものだって・・。

 

▲抑制のきいたトランティニャンの演技は実にいい。それを受けてロミー・シュナイダーの表情も、複雑な心理状態を表現している。江戸時代の芝居や落語の心中ものを連想したのは愚生だけかな・・。「ちょっとクサいんですけど」というお若いかた、もう一回見て出直してください。

 

(追記):『猫』は観ていないが、『離愁』の対極にある映画のような気がする。会話もなく、お互いを干渉しない夫婦生活。「究極の愛」ならぬ「究極の自立」なのか知らん。ともあれ居場所を共有することの関係を保ち、愛らしきものを曲がりなりにも成立させるのは「猫」なのだろうか? そんな見立ては、たぶん外れであろうな・・。


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