小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

ドビュッシーを語る日本人のドイツ語が美しい

2018年09月01日 | 音楽

 

クラシック音楽は、まだまだ私の内奥に浸ってこない。触れる機会が圧倒的に少ないし、自分としても「勉強しよう」という枷をつくっている気がする。

最近では、トリオ・ニテティスのバロック音楽を偶に聴いている。

若いときは遠い親戚のつながりで武満徹を熱心に聴いた。高校時代に小遣いを注ぎこんだポール・ヴァレリーつながりでドビュッシー、友人のすすめでブラームス、マーラーに一時期だが、のめり込むように聴いた。

ベースつまりコントラバスの音が好きなので、ヨーヨーマ、カザルスの有名どころのチェリストの音源は少ないが持っている。が、何回も繰りかえして聴くCDの類は数少ない。

それでも、竹下節子さんの機縁に乗じて、バロック音楽、アンサンブルの楽曲、バッハやドビュッシーを聴くようになった。

でもそれは、自分がいつも聴く音楽が煮詰まったときに限る。気分転換といっては畏れ多いのだが、不思議にも安堵感みたいなものを感じ、しばし時を忘れて聴き惚れる。

 

とはいえ、これだという楽曲、演奏者にめぐり会ったとはいえない。3.11からのイヴリー・ギトリスそしてマルタ・アルゲリッチは遅まきながら感銘をうけ、クラシック音楽の凄さの琴線にふれる思いも経験した。

 

先日、偶然にもYouTubeで内田光子というピアニストに辿りつき、この方のドビュッシーを弾きながらのピアノ演奏を語る映像をみた。それを流暢なドイツ語で、ドイツ人らしき男性に語っている。

語気荒く、唾を飛ばすような勢いのあるドイツ語。なぜか、ヒトラーしか思いおこせない、言語が破裂しているようにしか聞こえないドイツ語。

日本人の内田光子さんが、流れるようなドイツ語でドビュッシーの曲を、ドイツ人に懇切丁寧に解説している。のように、見えた。

日本人、女性だからだろうか、はじめてドイツ語のいいところを発見した感じもしたし、内田光子という人に凄く興味をいだいた(失礼な言い方であることは百も承知であえて)。

自分の記憶に残しておくために、この記事を書いた。まだまだ老年とはいえ、いいもの美しいものに出会うチャンスはあるのだぞ。と、自分に言いきかせて、寝苦しき夢路にはいることにしよう。

 

Debussy 12 Etudes : interview Mitsuko Uchida part1 (Germany)

 

 

 

 


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