小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

「沈黙」を見て

2017年02月16日 | 芸術(映画・写真等含)

 

キチジローをともなって密航でキリシタン禁制の日本に来た二人の神父。噂通りの現実を目の当たりし、苦渋にみちた顔で呟く。日本では何故、キリスト教が根付かないのか。

「日本は沼なのだ。種をまいても根は張らない・・」

西欧から来た聖職者たちの、日本人を見るまなざし。憐みと慈しみがない交ぜになったある種のやりきれなさ。キリストへの強い信仰をもって殉教する神父も、拷問に屈して棄教する神父も、みな一様の悲しい表情にみえる。フェレイラを探しに来た二人の俳優は素晴らしい。ぎりぎりまで身体を絞った役作りに感嘆した。ライアム・ニースンも短かいシーンだったが、その演技は深く映画の肝となった。いや、日本人俳優たちの皆も、遜色のない演技でよかった。誰もがいわば陰と陽の二面性を演じ分け、迫真のちからを感じた。初期の黒澤映画のような、求心力というか結集力が始めからあったのだと思いたい。

最後の方で中村嘉葎雄が出ていて存在感のある表情に凄みを感じた。頭脳警察のPantaはどこにいたのか。


▲塚本晋也の「野火」を絶対見ようと思う。浅野忠信の英語、窪塚洋介の気弱、イッセー尾形の老獪、役者やのう。笈田ヨシは別格。

日本人にとって八百万の神は今も健在で、アニミズム的な信仰が神仏と同等として浸透している。五穀豊穣を祈り、無病息災も祈る。人間として当然の行いである。そして日本人は祈ることにかけては、中国人はじめアジアのどの国の人にも引けをとらないほど真摯だ。

真実の神はなぜ唯一であるのに、イエス様がいるのか。神と精霊とキリストとの関係性も腑に落ちない。そんなふうに考える日本人に、「デウスは大日であると」と諭せばいっぺんで受け入れたという。長崎、五島のわずかな信仰深き人たちが、ロドリゴたちと共に生きる。ただ、日本人は十字架、ロザリオのお守りなどのモノをやたらに有難がる。そんな物神性が強いからか、イエス様の板を踏まない。踏んでも、転んでも、イエスはともにある。なぜ、殉教の道を選ぶのか。イエスは大日だから、命を惜しまないのか。この地の果てで殉教する人たちを見捨てることはできない。告解をきいてくれた私の恩師、フェレイラさえ棄教し、いま日本人となって生き延びているというのに・・。

▲リーアム・ニースン後半が渋い。アンドリュー・ガーフィールドとアダム・ドライヴァーの名前は覚えよう。

スコセッシの映画「沈黙」の主人公神父ロドリゴの目を通して、私が懐いた感想の一部を書いてみた。ネタバレにならぬよう書いているので、どうしてもギクシャクとなる。遠藤周作は生前に「私はキチジローである」と告白していたが、このことは作品理解には重要だとおもう。両親がクリスチャンだった遠藤周作は、無意識のごとく洗礼をうけた。だから、キチジロー独特の信心、役回りもそうした背景を反映している。

私としては、遠藤周作よりもクリスチャン作家としては、高校時代に自ら洗礼を受けた小川国男の方に強く惹かれた。それ以前に、小川を見出した島尾敏雄にも傾倒した。この三人のクリスチャン作家たちは同時期に読んだ。「アポロンの島」、「死の棘」と並んで「沈黙」もまた私の自己形成期に色濃く印象に残った文学である。


ともあれ3時間弱の「沈黙」は濃密で短く、緊張感をもって楽しむことができた。スコセッシの前回の映画だったか「ウルフ・オブ・ウォールストリート」は酷かったので、正直いって「沈黙」を見るのが恐かった。本当に見て良かったし、ヒット作にはなりにくい映画だが、スコセッシの渾身の作品であることは疑えない。

キリスト教弾圧の歴史は教科書で誰もが習い知っているはずだが、「沈黙」を見たからといって個人の宗教観をあらためて問い直すことはたぶんない。明治以降に信教の自由が認められ、現在に至っても日本のキリスト教信者は1%未満(当初3%と表記。3/1修正)らしい。そうしたなかで遠藤文学の「沈黙」は、一定の評価を与えられているが、今日的な意義はどうだろうか。映画としての「沈黙」が海外でとりわけキリスト教の国で、どう受容されるか私には興味あるのだが・・。

パリ在住のキリスト教歴史文化学者兼バロック音楽奏者の竹下節子氏がこの映画、「沈黙をめぐって」と題して連日ブログに書いている。すでに10回目となり、丹念な氏の見方、考え方はとてもためになる。「沈黙」がもつ今日的な意義について、彼女の言葉に耳を傾けたい。竹下氏がこの映画に深く傾注するのは、同じくパリに住む俳優兼演出家の笈田トシが出演していることが、おおきな理由かもしれないが・・。

  L'art de croire 竹下節子ブログ:(左端のブックマークからもOK)

 http://spinou.exblog.jp/26431693/  (※)

 

『沈黙』の最期に、原作にはないシーンがある。ロドリゴの棺の中に小さな木の十字架がある意味は? 竹下氏はこう書いている

エピローグに東インド会社のオランダ人によって、ロドリゴが何度も棄教の宣言をさせられたとある。つまり、彼は何度もキリスト教に戻ったのだ。遠藤は彼が信仰を持ち続けていたと言いたかったのだろう。遠藤は別のところで、第二次大戦後にイエズス会を去った還俗司祭を1950年代初めにあるレストランで見かけたことを書いている。食事が出された時、その人が十字を切って食膳の祈りをするのを見たという。それもヒントになった。信仰は何かとてもパーソナルなものになったのだ。

私の見方は違って、そこまで読み切れなかった。ロドリゴを死ぬまで見張っていた役人はいたはずだ。そんな施政者側の、役人の誰かしらの粋な計らいではないか、と私は思った。棄教し幕府に協力してくれたことへの、ささやかな感謝の気持ちかもしれない。或いはキチジローの銘をうけて、誰かが託したのか。いずれにしても、死に旅たつロドリゴを思いやって、副葬品ぐらいの意味でさりげなく握らせた。そんなふうに映画を見ていたのだが・・。

 

 

           

▲私にとって多大なる影響を賜わったクリスチャン作家、三人集。遠藤周作、小川国男、島尾敏雄。

 

(※)竹下節子氏のブログ、「沈黙をめぐって」は11回目でいったん終わるとのこと。「殉教における自由」というテーマで、現在執筆中のご著作とのつながりから「沈黙をめぐって」は書かれてきた。そして今、そのテーマでブログに書くこと以上の領域に踏み込みすぎた、ということらしい。11回目の内容をここに要約することは困難、また失礼だと思った。自分とは彼岸ともいうべきコンテキストをよく咀嚼して、自分なりの受けとめ方を次回のブログで書くつもりである。さて・・(2月18日 記)

  


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。