鎌倉の隠者

日本画家、詩人、鎌倉の鬼門守護職、甲士三郎の隠者生活

125 神仙境の草庵

2020-01-23 14:30:00 | 日記
最近日本でもスローライフ志向の人が増えていると聞く。
そのスローライフの究極は東洋古代からの見果てぬ夢、神仙境の暮しだろう。
隠者は長年その研究のために、身命を賭して来たと言っても良い。
ここは私の出番だ。
早速手持の古器や古画を過去への扉として、仙境夢幻界へ移転してみよう。

(古九谷色絵徳利 古九谷色絵盃 江戸時代)
この徳利と盃に描かれている景こそ古来知識人達の理想郷にして、この隠者の夢見てやまぬ終の住処でもある。
清澄な山中の花咲き鳥が歌う楽園に簡素な草庵を建てて、質素だが選び抜かれた美しい家具什器類に囲まれ、俗世を離れて画技詩文三昧に暮すのだ。
更にはこの古九谷の徳利盃などは明治大正の文人茶人垂涎の神器だったらしく、こんな神仙境で雅友と交わす一献は正に羽化登仙の悦楽となっただろう。
山水楽土に花鳥浄土、これに加えて電気とインターネットさえ有れば無上の我が楽園だ。
盃の画中橋上の杣人は夢幻界におけるこの隠者の姿なのだが、諸賢もこの幽境に入り込んで暮らす自分を想像してみればこの画の魅力がわかると思う。

(賢人山居図 狩野派 江戸時代 探神院蔵)
この屏風も賢人達の理想の棲家を描いているが、その類の絵の代表は蕪村と池大雅の共作の国宝十便十宜図だろう。
彼等の描いた村や庵は周りの田畑や木々山々まで含めてただの風景画ではなく、当時の知識人達の胸中にある聖なる楽園の景なのだ。
蕪村の号は、陶淵明が都の生活のすべてを投げ擲って故郷の廬山の麓に帰る時の詩「帰りなんいざ、田園まさに蕪れんとす」に始まる『帰去来辞』に因んでいて、「蕪れんとす」は「荒れんとす」の意である。
なので蕪(かぶ)の村では無く、戦乱に蕪(荒)れた村なのだ。
ただしそんな格別の思いや脱俗高邁な精神が無ければ、古人達が心底から希求した理想郷の暮しも必竟ただの田夫の暮しと堕す。
---厭離穢土 欣求浄土---(戦国徳川の軍旗)

(永福寺遺跡の池 左奥の山裾の僧房跡に我が探神院がある)
我が探神院は鎌倉の山裾にあり脇を沢水が流れ、深山幽谷とまでは行かないが気分は半自然の中の暮しで山河草木 花鳥虫魚など、詩題画題にも事欠かない。
加えて永福寺跡は龍穴の地にして天霊地気の残滓くらいはあるし、写真右奥の大塔宮護良親王の首塚山は今もダークファンタジーだ。
山蔭で電波の受信だけは弱くケーブル経由のWIFIしか使えないが、それは電話嫌いの隠者には返って好都合なのだ。
欲を言えばもっと幽邃な、例えば隠国(こもりく)の初瀬吉野あたりで深山(みやま)の桜と紅葉に囲まれた悠久の歴………。
つまりは一年でも良いから、あの吉野の西行庵を私に貸してもらえないだろうか。

©️甲士三郎