およその歌学書は詰まる所みな和歌の夢幻界へ至る道筋を示していて、古語による典雅な韻律や流麗な調べなどもその浄域へ入るための魔法の詠唱のような物と思えば良い。
古雅な歌ほど文学より音楽に近い。
江戸時代までの歌学書の多くが調べ(雅韻)の重要さを教えている。
元来の詩歌は活字本で黙読する物ではなく声に出し詠唱する物であり、儀式ではさらに厳かな声力や拍子により聖性を得ていたのだろう。
(鈴屋自選集手写本 江戸時代 青南京壺 清時代)
以前紹介した本居宣長の歌集「鈴屋集」とは別に、これは弟子達が宣長自選の数百首と教えを書写した希少な手書き本だ。
「鈴屋集」は明治大正までは名作中の名作とされて来たが、彼の国学が軍国主義に利用された反動で戦後は一気に評価を落とされ、現代では歌人としては忘れられた存在となっている。
だが隠者の好みではこの鈴屋自選歌集は日本文芸史上の白眉だ。
「置きわたす田面(たおも)の露も深き夜の 稲葉に重る秋の月影」本居宣長
気韻生動する神秘的な詠歌で、静寂なる月読の神域までも思わせる。
対位法の綾なせる旋律のような流麗な調べも見事だが、残念ながら現代人には古歌の調べや韻律などと言ってもなかなか感応し難いだろう。
ヨーロッパでもまだ精霊達が生きていた19世紀の壮麗なロマン派ピアノコンチェルトなどを聴きながら、宣長のファンタジックな和歌の神域に浸ろう。
現代の邦楽からはなかなか画期的な新作が出ないが、中国では唐宋の詩に最新の曲を付けた笛笙や箏の現代的な楽曲が次々と出ている。
(龍笛 古面 桃山時代頃)
中でも笙の名手Wu Tongの「春暁」や「離騒」のアレンジは気が利いていて、本人が古の詩人の装束で自然の中で歌うPVも美しい。
また陶笛(塤)の音色もフルートより深みがあり古詩の神韻とも合っている。
我家にも古い龍笛があるが、残念ながら漆にひびがあり実用では無い。
ただ古楽器は置いて眺めているだけでも楽しく、中世の鎌倉に幽玄な音色が響いているような景が浮かんで来て飽きないものだ。
後ろにある古格漂う面は能楽の顰(しかみ)だと思うが、浅学にして断言は出来ない。
一方で俳諧(俳句)の方は平俗さが売りなので似合う音楽と言えば、三味線や小唄の類いは当然合うのだがその他は………まあ昭和歌謡だろうか。
(直筆句軸 芭蕉 江戸時代 緑釉小壺 明時代)
ただし「猿蓑」や「奥の細道」あたりの蕉風俳句には格調高い響きがある。
写真は芭蕉の「腰長や鶴脛ぬれて海涼し」の短冊軸装。
この句は「奥の細道」では上五を「汐越や〜」と改作しているが、旅の途上では上記の形で現地の句碑でも「腰長や〜」となっている。
短冊上部にはその地名の由縁書きがあり、文字通り涼しげな桂句だ。
それを知らないとこの軸は贋物扱いとなるから、例によりこの隠者が無競争に近い安値で落札出来た訳だ。
この句や有名な「荒海や佐渡に横たふ天の川」のような品格のある句なら、先週紹介した初期バロック音楽などとも良く合うだろう。
英国ロマン派の詩人ワーズワースの名作リリカルバラッドにはまともな日本語の韻律訳が無く、低俗な口語訳では水仙もナイチンゲールも精霊から只の小生物と堕してしまっている。
神聖古代語による妙(たえ)なる調べこそ、夢幻の神域へ至る鍵なのだ。
©️甲士三郎