今日は朝から高齢単身オーナーが住む八丁堀の古い賃貸ビルの共用箇所の全ての電球交換をやって差し上げて、一日が始まった。
大手や素敵な不動産屋は、すでに年末年始のお決まりの猿の休暇に入っているが、こうやって、人のいなくなった年末年始にあちこちの高齢化したオーナーのところを回り、大工仕事や細かな作業を代わりにやって差し上げている。
自営とは、こういうことを言う。
ゼニカネの絡むところに、自分というモノは置かない。
ゼニカネの絡むところでは、自分の欲求はナニも無い。
独り暮らしの身寄りの無い高齢者のところに順繰りに顔を出し、困ってないかと笑っている。
包括支援な動きでもあるが、利益など最初から求めてない仕事だから、時間外も当たり前。
これを30年以上も、淡々と続けている。
一昨年・去年と、バブルを作って当社も系列会社も儲けさせていただいて、すべて借金・負債が無いので還元しているようなもんで、ゼニカネなんてそんなものでしかなく、見下して馬鹿にして生きれるようになって初めて、大自然の中で本当の生きて居る意味を知る、そういうことだ。
ウクライナ極右勢力の薬物中毒が集うゼレンスキー一味は、アメリカのハリウッドに住み、その撮影セットの中で同じアメリカ架空大統領バイデンと会談し、あくまでも架空の存在として振舞っているようでもある。
その架空の存在に脅かされて、煽動され、現場では多くの猿らが右往左往、甚大な被害が出ているが、これは新型コロナの煽動とまったく同じ連中が仕掛けている猿芝居だろう。
人間の考えてやることなんざ、その程度のモノで、どんなに高度で精度の良いコンピューターが社会を管理していようとも、じきにボロが出て来るのは、人間が仕掛けている幼稚なお遊戯だからだ。
馬鹿馬鹿しい。
こういう愚かな社会は、一度リセット、崩壊まで行った方が人類の為だ。
古き悪しき、無意味で硬直してしまってる風習や習慣のことを、この令和の時代にも頑なに守って、それが日本の良き伝統だとほざいて群れて生きてる奴らこそ、日本のことがナニも解ってないどころか、売国の徒として日夜メディアに振り回されて生きて居るという、滑稽な島国の特殊な猿社会が年末年始も日本中の風物詩になっている。
伝統とは、しきたりや習慣や祭りやセオリーではなくて、厳しい島国で合理的に生きて来たという江戸時代以前の日本のことを言うのだが、外国の勢力によって鎖国させられて以降の江戸時代からは、そんな良き伝統がぐちゃぐちゃにされて、無意味な土民管理と、ゼニカネ一局集中社会用の奇妙な伝統ゴッコが始まってしまった。
現代社会でも、メディア洗脳のゼニカネ儲け用の言語や会話と、実体の現実で生きるための言語は、分けて使うようになった。
そんな簡単な日本人の日常の話ですら、意味が解らない大人たちがおるとしたら、もう終わっているさ。
単細胞は、一種類の言葉と意味だけで生き、幼児服のまんま社会でも生きて来て、その時々の経験や成長に合わせて新調することもなく、これからの未来もおなじボロボロになって行く幼児服のまんま、高齢化して行く訳だ。
価値観の話だ。
ナニが楽しくて、あなたは生きているのか? いつもまわりの死んだ目をした大人たちに聞いてやってる。
小さな、平穏な、少しの、可愛らしい、そんな幸せがあれば、良いの・・・。
では、幸せとはナニを言う?
変わらない日常で、淡々と、笑っていたい・・・。
没コミュニケーション、自閉的な社会は、こうしてネットメディア主流の無味無臭な社会を作り上げた。
大声を出すことすら、大音量の音楽や騒音にとって代わってしまってる。
迷惑な、話だ。
他人や社会との関わり合いから逃げてしまってる高齢化社会では、いまだに身内や血族を大事にして、近親相姦な、隠微で閉塞感満載な孤独な日常を続けている訳だが、子や孫の代ともなれば、必ず行き詰まる結末は見えている。
自分たち自身が高齢化して行ってすらその親や爺婆から教えられた風習や習慣を頑なに守ることが、優等生・善人だと信じているからこそ、社会は崩壊して行ってる。
合理的に生きるには、要らないモノを片っ端から破壊して捨てて、新しいモノを作る作業が繰り返される。
モノではなく、心という、形而上のモノをこそ極めて研ぎ澄まし、無駄でしかないモノには興味を持たない、そんな社会へと人類は変化して行かなければ、このまま地球上から淘汰される種になって行くだろう。
ゼニカネがなければ生きて行けない社会が、その足枷になっているならば、まずその足枷を外すために自営の商売を始めて儲けを出すことから俺は始めた。
ゼニカネに振り回されない資力を持ち商売を続け、そこからモノには左右されない自由自在な楽しみを手にする。
まず先駆者に襲い掛かる災難は、その足枷の方だから、それすら乗り越えてしまえば、敵はいなくなる。
こういう日常の境地に達するには、蔑んでいる一芸馬鹿にすら負けない体力や精力も身につけてなければ無理だ。
どんなジャンルでも、そこの一芸馬鹿どもにすら負けない、なんでも出来る、人類の世界では敵はいなくなる。
死ぬまで手を抜くことも無いわけだから、負ける訳が無い。
勝って間抜け面して喜ぶことも、無い。
毎年、店の神棚に俺が入る為に貰ってくる白紙のお札は、当然に身ぎれいな日常を送っている神社からもらってくるが、来年の俺が入る御札の為にどこの神社が優秀だったかと、あちこちでその日常を聞き込みして回ってもいる。
参拝者が多くても、デカいだけで由緒だけで、薄汚い糞野郎が集まってる神社には、決して近づかない。
俺様が入る訳だから、それ相当の苦行を日常に平然とこなしている神社でなければ、入る神は相当な鬼か夜叉だから、半年でそこのお札はボロボロに黄ばんで役に立たなくなる。
このコロナ下で、身内の高齢者を自分たちで介護・面倒を見続けることは、至難の業と言っても良い。
まず見る側の生計がギリギリで、余裕の無い借金体質であれば、これは叶うものでもないし、オツムの構造が暗記・偏差値至上主義者であれば、優等生・エリートになればなるほど、模範解答通りの軽々しい安易な行動に終始することになる。
洗脳され、煽動され、その些少な猿の社会で競い合う悪癖しか持ち合わせてない訳だから、哀れなもんだ。
こういう連中を子孫に持つと、高齢者たちは施設や病院に放り込まれて、資産家や財産家ですらゼニカネだけ巻き上げられて命を玩具にされて終わって逝ってる。
俺は去年、資産すら食い潰して来た両親の状態に最後通告を出し、有無を言わせずに実家を整理し、銀座から歩ける、古いが管理は良くて日当たりは全室最高という2DKに引っ越しさせて、酷かった爺様の認知症も毎日の愉快な訪問で治してやり、直腸癌ですら、大病院から大病院を渡り歩いて、医者も多くの医者と話し合いを続けて、最期まで俺と婆さんで見守ってやるという態度は変えず、意見の合う在宅医療の先生や、ケア・サービスや、そんな腹を割って話せる人たちと日々のケアを続けて、自宅で、眠るように逝かせてやることが出来た。
後悔というものが無い俺の人生の、一コマがまた増えた。
笑って、送ってやった。
決して愛する者は、他人の手には最期まで渡さない、これは俺の生き様でもある。
子供らも、見ていただろう。
医学や薬学や、最先端医療と言ったところで、この命を預ける相手がロクでも無い守銭奴や偏差値・肩書だけで生きて居る猿であれば、二度と頼むことも無い。
今年の春は古女房のいきなりの癌ステージ4通告もあったが、これも医者や病院を選んで転院までさせて、後は俺の思い通りに連れ歩き、お見事秋には快癒までこぎつけた。
俺の大反対を無視して、職場の居場所を守る為に、コロナワクチンを2回うっていた。
命のことは他人には任せっきりにはせず、主導権は常に俺が持つ、おかげで病気や医学についても、知識はどんどん豊富になってるから、大病院の看板に甘ったれてる医者なんざ、説き伏せることすらある。
ダメな患者と取り巻きが、どんだけゼニカネ積み上げて任せたところで、ダメな医者や病院では、それがメディアで有名な大学病院や大病院であったとしても、最期は哀れなモルモット。
肝に銘じておくべきだろうな。
常に現場で実践して生きて居る俺には、その足元まですべてが丸見えになってしまってる。
愛すべき者を、安易に他人の手に渡して、良いのか?
現実だけで生き、宗教や精神の世界なぞには見向きもしない。
それが根本にある。
それが出来てから、精神の世界の遊びは自由自在になる。
独り身になった婆さまのとこには毎日顔を出し、生活の大転換を進めている。
部屋の模様替えやら要らないモノの断捨離、そうやってすぐに動くことで感傷ボケを防ぎ、爺様の供養は俺のやり方でやっている。
糞みたいな宗派やしきたりなんて、いっさい興味が無い。
88歳でも暴走気味の俺の母親だから、アメ横に一緒に出掛けたり、買い物に出掛けたり、お屠蘇を買ってから喪中だったことを思い出したり、笑える日々は続いているが、寂しく独りにしないようにと、周囲の人間にも協力してもらって、ご飯を食べに行ったり、オモシロイ余興を見たりと、新年も予定を入れてやってる。
人間は、立ち止まることなど、出来ない。
動きながら次へ次へと生きて行くだけだ。