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元・近鉄の岩隈選手引退と、チョッピリ回顧録

2020年10月20日 22時59分25秒 | ブログ

◆岩隈久志(いわくま・ひさし)
堀越高から1999年ドラフト5位で近鉄に入団。2年目に4勝を挙げ頭角を現すと、03年から2年連続15勝。
04年には最多勝、最優秀投手に。
05年に球団合併によりオリックスに分配されるも入団を拒否し楽天に移籍。
開幕投手を任され球団初勝利投手となった。08年に21勝を挙げて最多勝と初の沢村賞を獲得。

11年オフに海外FA権を行使し、マリナーズと契約。メジャー2年目開幕から先発ローテの一角に定着。
13、14年と2年連続2ケタ勝利。15年はノーヒッターも記録した。16年には自己最多の16勝を挙げエース級の活躍を見せた。
しかし、その後は故障にも苦しみ18年にマリナーズを退団。同年12月に巨人入団が決まった。
以上、ネットからお借りしました

巨人入団後も1軍登板は無く、今年でユニフォームを脱ぐことになった。



長い間近鉄を応援して来たが、とうとう最後の選手・岩隈も引退になってしまった。
(正式には後二人いるそうですが、当時は分からない選手だった)
応援し始めた頃は、「球団名が近鉄パールズ」だった。
ドラゴンズとかライオンズ、ホークス、タイガース、ブレーブス等々、強そうな名前を付けるのに
パールズはチョット弱そうにしか聞こえませんね。

成績も、やはり6球団の内決まって最下位だった。
その内に球団名もバッファローズに変え、ドラフト制度も功を奏していい選手も集まるようになってきた。
監督も、以下の方たちの頃が強かったように思います。
•三原脩(1968 - 1970)
•西本幸雄(1974 - 1981)
•岡本伊三美(1984 - 1987)
•仰木彬(1988 - 1992)
•梨田昌孝(2000 - 2004)


いてまえ打線と言われ、リーグ最低の投手成績でも打ち勝つ豪快な野球が楽しかった。
パリーグでは何度か優勝出来るようになったが、とうとう悲願の日本一にはなれなかった。

1979年のプロ野球日本シリーズ第7戦、対広島戦で終盤絶好のチャンスだったが「江夏の21球」に象徴される様に
今一歩で敗退した。
惜しむらくは、1989年劇的なリーグ優勝を決め、そのままの勢いで日本シリーズも3連勝したが
巨人はロッテよりも弱い」発言があって、相手の奮起に会い
その後4連敗を喫して近づいた日本一を離してしまった。
日本一に成れなかった、12球団で唯一のチームだったと思う。
球団社長も1回位はチャンピオンフラッグが欲しかったと思います。

近鉄が消滅する年に、楽天の進出が認められ選手が分配になった。
オリックスが優先的に指名出来て、2番手に楽天・・・、の様な分配で
岩隈は、当然オリックス行きになるはずだったが、男気を見せ拒否をして楽天に行った。

最後の近鉄戦士・岩隈も引退して、とうに忘れていた近鉄を少し思い起こさせてくれた。
あの頃は、応援するチームがあって勝っても負けても楽しかったナ。

岩隈選手、長い間お疲れ様でした。

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