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* 時間の長さの感覚は、生物がそれまで過ごしてきた時間の総量を分母として考量されます。五歳の子供にとっては一年は人生の二十%の時間です。五十歳の大人に取っては二%に過ぎません。だから、子どもにとって主観的時間はゆっくり流れます。一日がひどく長い。自然現象もゆっくり推移する。子どもたちは雲の流れや、海の波や、蟻の群れや、野草の花弁をじっと見つめていることがあります。あれは対象が意識野一杯に広がってしまっているのです。大人たちがちらりと一瞥して、そのまま記号的に記号的に処理して済ませてしまえる現象が子どもたちにとっては長い物語として経験されている。
* けれども、私が知る限り、学術的論件をコロキアルな語法で展開するということに知的リソースを投じるという習慣は欧米にはありません。学術的論件は学術的用語で語られ、生活的事象は生活言語で語られる。哲学用語に生活用語が流用されることはしばしばありますが――ハイデカーの「dasein(そこにいる)とか、レヴィナスの「visage」(顔)とか――それは哲学用語の語彙を拡大するためであって、哲学を学んだことのない生活者にも話をわかりやすくするためではありません(よけいにわかりにくくなるだけです)
内田 樹 『日本辺境論』より 新潮社
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毎度、的外れの抜粋で申し訳ないが、この二つの抜粋は、長年の徳さんの疑問と不安に答えてくれた箇所なのだ。
上の抜粋。
還暦をとうに過ぎて、この計算でいくと、徳さんの一年は人生の0.015%に過ぎないこととなる。
どうりで、月日の流れが速いはずだ。
どんどん一年の価値が下がっていくようだ。
いやいや、そうじゃない。
価値が下がるんではない。
主観的時間の流れが速くなるのだ。
時間の流れのスピードに反比例するような価値をそこにぶち込めばいいのだが、、、。
う~ん。出来とらんな。
このまま、永遠に大人に成れないんじゃないかと不安がっていたガキの頃が妙に懐かしい。
下の抜粋。
コロキアルとは、口語的とか話し言葉の、という意味らしい。
リソースは資源。
徳さん、哲学用語とか、思想関係の用語が異常に苦手だ。
なんとか理解したいと何度かあがいてみた。
哲学用語辞典を買ったこともある。
現代思想入門という類いの雑誌も何冊か買った。
しかし、徳さんの脳みそがミキサーにかけられたようになるだけだった。
その時の脳の損傷が、今、後遺症として残っているような気がして成らない。
もっと、健やかに己の脳を育ててあげたかった。
ともかく、徳さんは納得した。
話し言葉に翻訳されていない本は、徳さんの脳が受け付けないことを。
そして、その理由を。
カイロジジイのHPは
http://www6.ocn.ne.jp/~tokuch/
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