考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

理科と社会は内と外

2006年04月17日 | 教育
 「理科」あるいは、「自然科学」は、観察対象を外部に求めているようで、ホントのところは、ウチに向いてるんじゃないかと思った。
 自分は、黒い枠線に囲まれ、内部が白くなっている点である。その白い中に、イロイロ何かが詰まっている。いわゆる「自然」と同質のものが詰まっているわけだ。身体が自然あるとは、養老先生の言で、事実である。高いところから落ちれば、物理の法則に従うだろう。惑星の観測と同じ結果が得られるだろう。(ま、そっちは、もっと複雑な自然が関わるだろうが。)

 一方、「社会」あるいは「人文科学」は、観察対象を「他」に向けている。自分は、黒い点であり、内部に観測すべきものはない。目は常に外に向いている。この「外」とは、自分と同じような黒い点である。要は、他人と言うことで、その他人が、どう動くが、どう反応するかをひたすら追求し、同様に黒い点としての自分の位置付けや他との関係を考えるわけである。
 「社会」の基本は人間関係であるが、人間関係とは、一見、心理的で自己の内部に関わる部分が多そうだが、実は、全く、逆。だって、心の中で何を考えていようと、大事なのは、自分にしろ、他人にしろ、どんな行動に出るか、それが他にどのような影響を及ぼすか、という点に尽きる。つまり問題になるのは常に「外」であって、ここの内部はどうだって良いのである。

 数学は、自然科学になる。直線は、脳の神経細胞の働きと関係があるらしい。脳の構造を明らかにする学問が数学らしいということである。1+1が常に2になる世界である。
 政治は違う。「社会」である。多数決である。1+1が3になると言う人が多ければ、3が正しい答えになる。

 学校で教えるべきことはどっちなのかなと思う。基本はきっと自然科学だろう。人間が文明を築き上げたのは、自然科学ゆえだと思うからだが、現実に教えられていることは、そうでもなさそうだという気がする。
 たぶん、上記両者のどちらをより好むかは人によって異なると言うことだろう。

  

紙の辞書だと予習が大切になる

2006年04月15日 | 教育
 今年は、新入生ガイドブックに「電子辞書をすすめない。紙の辞書を薦める。」と入れた。教室で、電子辞書を使っている子もいるにはいるが、極めて少数である。 
 電子辞書を全く否定するわけではない。が、そうそう人間というものは、機械的な効率の良さばかりを求めてうまく生きていけるようにはできてない。様々な行為や活動は常に複合的な意味合いを持ち、「効率」という一方向性で判断できるものではないのである。学校の教育活動として「辞書を引く」という行為にしても、単に「調べ物をする」という目的だけのために行われるわけではないのである。

 クラス日直日誌に「予習の大切さがわかった」という英語の授業コメントがつくのは、紙の辞書のお陰ではないかと思う。
 
 電子辞書だと、実は、単語の訳くらいなら、事前の勉強無しで、その場で引けてしまう。授業中に先生に指名され、それから電子辞書をピピッと押せば事足りるほど、能率良く「勉強ができる」。

 でもね、と思うのだ。

 授業で辞書を引かせるのは、ただそのときに調べさせることだけを目的にしているのではない。当然、意味を理解し、記憶に留める、ことを隠れた目的にする。しかし、ただ辞書を引く段階でここまで考える人はあまりいない。

 人間の脳味噌は、そんなに賢くない。「あっ」という間に辞書が引けて、意味がわかったとしても、それで「あっ」という間に覚えられるわけではない。現実は、「あっ」という間に意味がわかると、「あっ」と言う間に覚えることができたという「錯覚に陥る」だけである。おまけに、電子辞書は賢いから、調べた言葉を覚えていてくれる。人間が、わざわざノートに書き留める必要すらないのである。よって、辞書を引いて、自分はわかった気になり、実は、脳味噌空っぽ、ただぼうっとしているだけになりかねないのである。真の目的を理解する例外もいるだろう。しかし、ほとんどの子どもは(おとなも)、自分のやっていることの意味をそこまで深く捉えない。(そこまで自分を見つめる目を持たない。)今の学校においては、上級生を見よ、というところか。

 「辞書を引く」という目的性が濃い行為をするとき、おそらく人間は、その目的以外の目的や効果まで思い至らないのだろう。そういう意味では、人間は、端から「無駄」をできないようにできているのであろう。(これ、意外に面白い。こういった思考過程が、さまざまな問題の根っこにあるような気がする。)

 わかった気になって、ぼうっとするのは、勉強の大敵である。これは怖い。

 一方、紙の辞書を使うとなると、引くのに時間はかかる、書き留めなければならない、などややこしい手順が必要になる。だから、事前にやっておかなければ、「間に合わない」。生徒は、予習を余儀なくされる。当然、家庭での幾ばくかの時間、身体を机に拘束し、手指を動かし、脳味噌を活性化させねばならなくなる。そうやって、骨身を惜しまず時間を掛けて活動を行うことで、たぶん、理解や記憶の量が増えるだろう。
 ここにおいて辞書を引く行為は、「意味を調べる」という目的だけでなく、「学習する」という目的をも達成することになる。また、この過程は、「先のことを考えて準備をする」という、人間独自の意識的な行動を辿ることにもなる。電子辞書を使う生徒にしばしば見られるような、その場で何とかやりくりする、という場当たり的な「生き方」とは発想が大きく異なるのである。

 これが、あらゆる点で大変によろしい。

 もちろん、紙の辞書を使わせる最大の理由は、スキミングやスキャニングがしやすい点であるのはあります。他の意味も書き留めよ、とか、例文も写しなさい、という指示にも、従いやすくなります。
 
 まだみんなは自分ややっていることの意味はわからないだろう。でも、頑張るんだよ。力を付けるために。

読書する生徒(と読書する私)

2006年04月13日 | 教育
 図書館利用ガイダンスがあったようだ。そのせいだろう、休み時間に本を読んでいる。学校の本である。
 こんな光景、初めて。
 
 ますます隔離したい。

 関係ないけど、自分が読書をする理由がわかった。というか、なぜ、このように読み差しの本が多くて平気なのか、わかった。
 私は、どうやら知識を得ようとして本を読んでいるのではないようだ。(笑)知識を得たいなら、最後まで読むはずである。でも、読まないことが多い。(まるで、ばか。笑)
 で、何をしているかというと、脳味噌の整理をしているのである。本は、何らかの「論理」に従って書かれている。(というか、そう言う傾向の本を私は好んで選ぶようだ。)で、それに従って、「読む」という行為をすることで、私の脳味噌も、何か秩序だってくるような気がするのだ。
 放っておくと、ぐちゃぐちゃになるのが多少すっきりする。もう一つ、ついでに言うと、書くのも「整理」である。まあ、こっちの効果の方が高いけど。
 「考える人」で、養老先生が、時間について考えたとき、本を集めたが読まなかったらしい。人の考えが邪魔になるそうだ。養老先生ほどアタマが良くなくても、この気持ち、よくわかる。自分一人で考えても、けっこう考えられるもの。養老先生も脳の中を「整理する」とおっしゃっている。とてもよくわかる。 

 有り難いのは、みなさんです。お付き合い下さって、どうもありがとうございます。
 私は、ブログのお陰で、脳味噌の健康を保っているのかもしれない。(笑)

1年生を隔離させたい

2006年04月12日 | 教育
 赴任して初めてと言っていいくらい極めて平穏な日々を送っている。
 学校全体の「雰囲気」は大事である。人の前に立つ人(複数)の存在は大きい。
 なぜ、これがもっと早く実現しなかったのか。
 にしても、交流の多い生活が始まれば、やがて「危機」は訪れる。このまま、隔離させておきたい。
 授業で、勉強では「同じ・似ている」「違う」の視点が大事なんだよと言ったら、なるほど、という顔をしてくれて、嬉しかった。

「考える人」の養老先生

2006年04月11日 | 養老孟司
 「考える人」の春号が出ました。「万物流転・意識の博物学」が、滅茶苦茶面白い。ドキドキ胸が高鳴ります。何がって? よくわかんないけど。(笑)

 私、たぶん、抽象化能力はそれなりにあると思んだけれど、言語能力が低いので、うまく表現できない。抽象化ってのは、たぶん、「同じだ」とわかることです。これ、結構、わかる。
 
 「同じ」と「違う」の話です。意識の話です。
 ついでに、概念の階層性にかかわる、入れ子構造の話も出てくる。日本人は、階層性の感覚に乏しいらしいが、関係詞がないからだそうだ。(英語の文法で、私が最も好きだったのは、実に「関係代名詞」。(笑)凄く面白いと思った。もともと概念を階層的に捉える考え方をする性質だったのだと思う。モームの文体が好きだった。外国人の英語だから、言葉そのものに情緒がぐちゃぐちゃしてなくて、関係詞が多用されていて、すっきり、読みやすいと思った。)

 養老先生、大好き。
 私の脳味噌のずっと延長上に、養老先生の脳味噌があるに違いない。それで、私が養老先生を面白いと思えば思うほど、私の脳味噌は、養老先生の脳味噌へと至る道にどんどん近づいても行くのだろう。
 自分の脳味噌と近い感覚の人の本が読めて、私はとても幸せだ。自分がどこにいるのかわかるから嬉しいのだ。 

 ついでに、内田先生との対談もあり。これはまだ読んでない。万物流転だけで興奮してしまいました。

中学校の職業教育の利用法

2006年04月09日 | 教育
 一度書こうと思って、ずっと忘れていた。書いてなかったと思う。

 「保育科」は人気である。保育士が人気である。昔からの人気職業ではあるが、いっとき、もの凄い数の女子生徒が保育士になりたい、と言っていた。やがて原因がわかった。中学校の職場体験で、どうやら非常の多くの女子が保育園に行ったらしいのだ。そりゃ、子どもを見たら「可愛い」と感じて保育士になりたい、とそれほどではない生徒も勘違いするだろう。

 もし、不足している仕事があったら、中学生の職場体験の対象とすると良い。今の子は何の体験もないから、何だってやればけっこう「面白い」と感じると思う。それが、彼らの大人になるときの「夢」になってくれれば、なり手不足は多少緩和されるのではないかな。

 高校でアルバイトを禁じている学校はかなりあると思う。理由は簡単だ。働くと、学校で勉強をする以上に、必ず「頼りにされる」。これが嬉しいのである。で、学校に行くより自分の存在をしかと確認できるものだから、「今すぐ働きたい」と思って学校を止めるきっかけになるからだ。
 

英語の続きのようなもの

2006年04月09日 | 教育
 quimitoさんにTBをいただいた。ブログにコメントをしようと思ったが、うまくいかない。TBいただけるのは有り難いことだと思う。

 日常生活は、「中学校の英語+それなりの語彙・語法」でこと足りる。で、私は、生徒に、込み入ったことを言いたいときには高校英語が必要になる、と言っている。語彙は豊富で表現は多様な方が良い。確かに文法なんぞは、そこまでしなくても、というか、読んだり使うためにはもっと違うアプローチがあるとは思うが。

 別のブログで、京大の入試問題は、ネイティブも違和感を覚える文体ではないかとあった。京大の問題は、きっと相変わらずの英文和訳だろう。しかし、内容が深く濃いからふむふむと面白い。高校生でこれが読めたら凄いと思う。
 大人になって、芥川でも漱石でも読むと、確かに文体は現代的でない。(今の小説は言葉が薄い。)しかし、文章の骨子が整っている。語彙の使い方が非常に論理的整合性に富み、しかも美しい。(前も書いたけど。)まさに日本「語」の小説を読んでいるという感である。だから、学校で学習すべきものとしてやはり相応しいと思う。母語だから、外国語だから、と言う観点による相違は、あるのかないのか、あるべきか考えなくて良いのか、私はよくわからない。京大の問題は、たとえればどこか異国の日本語入試問題に、芥川や漱石が出てるみたいなものなのか。それで良いじゃないか。この大学は、たぶん、英語ができるかどうかだけが知りたいのではない。論理的に読める才覚があるかどうかを見たいのだ。そうでなければ、大学の文献を読む素養を得られないからだろう。
 文章をなめるように読む読み方は、学校でしか行わない。けど、人生のある時期、抽象的思考が整い始める頃にそう言う読み方を学習するのは悪いことではないと思う。

 具体的に何を指してのことかわからないのだが、ま、自分のブログにふだん書いている様々な考え方をさしてのことだろう、「古い」と言われた。まあ、そうだなと思う。私は新しいことが、新しいから良いという考え方を取らないから、だからどうだと思ってしまう。人間は古今考えることもすることも、そう変わらない。
 

名前を覚える繰り返し学習

2006年04月08日 | 教育
 新年度になると、新しい生徒と接する。名前を覚えるという大仕事がある。
 なんだかんだと、生徒を待たせて並ばせる機会も多い。で、そんなとき、名簿を片手に、順に顔と名前を一致させる。

 学生時代に教えて貰った自己紹介ゲーム?だが、ユースホステルなどでよくやるらしい方法がある。
 最初の人「○○です。」次の人「○○さんの隣の××です。」その次の人「○○さんの隣の××さんの隣の△△です。」と、続けていく。だから、最後の人は大変だ。
 これを教室でやらせたこともあった。覚えようと言う気持ちがある集団だとおもしろがる。その気のない子や、何のためにするのかということがわからない子が多いと効果がない。
 
 私は、自分でこれをする。
 廊下に並んでいるとき、「○○さんね」「○○さんね、××さんね」「○○さん、××さん、△△さん」・・・・すぐに覚えられるわけがないから、繰り返す。最初の○○さんに戻って何度も繰り返す。
 と、生徒の中のいたずらっ子が、途中でわざと順番を変えて並んだりする。これ、困る。最初の記憶は定着しやすい。一生間違える危険性がある。わきあいあいする面はあるが、騒ぐのは困る。

 で、生徒集団によって、個人によって反応が2通り出る。
 私が一生懸命に覚えようとするのに興味津々、協力的に対応してくれる場合と、私があまりにも繰り返し繰り返し何度もしようとするのを、「まだやるのぉ」と呆れるような反応を見せる場合と。
 で、違いは学力差と相関する。もちろん、高い集団の方が、人の「学習状況」にも興味を示すようだ。
 一種の根気強さをどれだけ肯定するかだという気がする。

ちょうど良いアタマの良さ

2006年04月04日 | 物の見方
 ってのが、あるようで。ウチの学校のレベルです。

 「ふつー」の人よりちょっと賢いから、適度に良い暮らしも可能で、人付き合いが普通にできればマジョリティの仲間に入り、世の中の矛盾にもあまり気が付かず、世の中の流れに沿って、いい頃加減に幸せになれるような気がします。

 「英語」の続きを書いたら、UPに失敗。消えた~。。しょっく~。

人間の能力

2006年04月03日 | 教育
 養老先生が、誰の脳味噌も似たような大きさだから、総合的な能力は同じだとか書いていた。うん。私もそう思う。能力の定義が違うだけだ。
 (前も書いたっけ? だったらごめんなさい。)