考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

英語を2つに分けたらいい

2006年04月02日 | 教育
 以下、先回UPした記事の続き(のような内容)。(追記:特に、最後の辺りは推敲して、もっとはっきり書きました。自分でも論点がすっきりして、今、とっても気分が良いです~。)

 国際人を標榜しようとして、英語のコミュニケーション能力を高める戦略を採ろうとしているのが今の文科省で、(愚かにも)小学校から英語の授業を取り入れようとしている。これに対し、藤原先生は「まずは国語」とおっしゃる。イギリス滞在の経験から真の国際人足るべく姿を思い描いてのことである。

 ボタンの掛け違いのような発想の違いは、要は、「読み書き能力」と「聞く話す能力」の違いによると考えられる。

 藤原先生のおっしゃる「国際人」は、文化的にも深い造詣があり、教養人たる国際人で、文科省の言う「国際人」は、生活のための英語を習得しているレベルを指しているのではないか。で、これは取りも直さず、深く思考する「読み書き能力」と技術としての「聞く話す能力」の違いにそれぞれ対応するのではないか。

 そういえば、教材・辞書作成に関わっている英語の先生のブログに、(うろ覚えだが、)読解の受験英語と、いわゆる英会話の英語について、重なり合っている部分はあるにはあるが、学習する際には、はっきり両者を区別した方が良い、というようなことが書かれていた。重なる部分を重視しても非効率的だという。
 この考えと重なるではないか。

 藤原先生と文科省の設定は、なるほど話がかみ合わない訳である。それで、私の疑問も解ける。

 今のセンター試験が示すような「聞く英語」、「コミュニケーション能力」を重視する考え方は、これができれば日常での人と人とのごく一般的な生活で利点があるものだ。毎日の暮らしで何気なく過ごすときに大切にされるのは、「挨拶をしよう」「人の話を聞こう」「相手の気持ちを考えよう」など、対面での「聞く話す能力」に関わる事項である。
 対して、旧来の受験英語、教養としての英語にあるような深い思考を伴う「読み書き」は、実は意外に気が付きにくいと思うが、日常生活においてはさして重要というわけではないのだ。日常生活に多いのは衣食住に関わる情報のやりとりだから、深い思考や教養は生活そのものには必要不可欠と言えず、「役に立たない」のである。これは意外に「盲点」ではないか。「学校で英語を習っても何の役にも立たない」と言われる所以はおそらくここにある。

 識字率が低い国でも、多くの人の日常生活がそれなりに成立していることを考えればよくわかる。生活するため行われる他人との意思疎通は、「聞く話す」活動だけで結構こと足りる。識字率の高い日本においても、何らかの事情で学校に行けず読み書きができないまま老年に達する人がいるという事実があるだろう。(何年も前だが、テレビ番組で、夜間中学で文字を学ぶそういう人を取り上げていた。)「読み書き」ができなくても、皆、ご苦労はされただろうが、立派に生きてきているのである。
 ご苦労されたのは、日常生活で識字能力がないと困る場合があるせいだ。しかし、この種の苦労は、「日常」と言っても「対面では解決できない組織的活動」に関わってくる場合に限られる。役所の届け出や、電化製品の説明書など、「対面では解決しない事情」が介在してくるときに大きく支障が出ると思われる。(役所は、「国家」という多人数に関わる、非常に抽象的な組織の末端である。電化製品の制作者は自分の知らない人である。)しかし、こういう場合であっても、身近に親切な人を介在させれば何とかできるようだ。そのテレビ番組に出ていた人は、役所で書類を書くときには近くにいる人に「ちょっと手がしびれて字が書けないので代わりに書いてくれ。」と頼んで書いて貰っていたなどと言っていた。辛かったことだろうと拝察するが、この人が赤の他人に「代わりに書いて」と頼むことができたのは、立派な「聞く話す」コミュニケーション能力をもっていたからだ。この方は、「聞く話す能力」を的確なコミュニケーション能力として駆使して数十年の人生を生き抜いてきたと思われる。

 一方、「読み書き能力」について確実に言えるのは、人間がここまで文明を発展させることができたのは「聞く話す」能力の向上と言うよりもむしろ「読み書き」能力を獲得できたからではないかという点である。「読み書き」能力とは一種の外部記憶である。となると、それを用いる人間の役割は、外部記憶にある情報をつなぎ合わせて何らかの新しい別物を創造する機能を果たすことである。
 今、私が行っている作業はまさにそうである。「読み書き」が外部記憶であるということはどこかで読んだ内容でもある。が、私は今その情報を利用して、新たに「となると、~」の内容を生み出したわけである。
 より高度なものを生成しようとするときには、より多くの情報を必要とするだろう。その際に有用なのが「読み書き」能力なのだ。それで、「学校」という教育機関で学ぶべきことが「読み書き」に収斂されるのは、実に道理に適っているのである。
 
 だから、藤原先生は、子ども時代に、将来の「読み書き」能力に繋がる深い思考力の育成を、母語によらなければ不可能な能力の育成を邪魔するような教育を施すことによって、こういった肝心な能力の涵養が図れなくなるのを危惧されるのである。しかも、こういった能力は、上に書いたように、なにしろ日常性から外れることだから「学校」という特殊な環境でしか学び得ないに等しいのである。この点に関して藤原先生は、「学校でしかできないことを学校で行え」とおっしゃっているのである。

 これで、思考力に関わる「読み書き能力」と日常的なコミュニケーションに関わる「聞く話す能力」が持つ特性を明確に対比できた。

 よって、問題点も見えてくる。現在は、たとえば「英語Ⅰ」等の教科で、「読む」「書く」「聞く」「話す」の4技能の全てを学習することになっている。しかし、少なくとも「読み書き」と「聞く話す」技能は、これほどまでに異なる特性を持つため、同一の教科書で扱うことにそもそもの無理があると思われる。

 だから、いっそのこと、「英語」と言う教科は、読み書き中心でより深い文化的理解を目指す「思考力を目指す英語」と、正しい情報のやりとりを目的に、決まり文句を覚えれば事足りるような「日常生活英語」に二分すれば良いのである。以前、“Freeze”がわからずに殺害された日本人留学生の事件から、口語表現の重要性が言われたが、これも「日常生活英語」の一つである。だから、これはこれとして教えれば良いのである。

 そういえば、平成13年(だっけ?)に何だったけ?文科省が出した案には、二層化に関わるような英語に関する方針?があったような気がするが、それを教科の科目レベルにまで押し上げて考えればいいのである。

 中学の英語は、「教養としての易しい英語」が良い。最初から会話と言ってもなかなかムツカシイはずである。(だから、小学校から英語が入ってきて、中学1年1学期段階で既に英語嫌いがいるらしい。昔はなかった現象である。昔は、中1の1学期と言えば、みんなが英語が好きだった。また、変に「楽しい英語」等を先に学習すると、ある種の「勘違い」が起こり、思考力育成という次のステップに進みにくくなってしまうと思う。)とにかく、英語の基本を多少身に付けさせて、それから、本格的に、より深い思考を伴わせる「読み書き英語」や場に応じた表現が使えるような「日常生活英語」を共に高校で別個に学習すれば良いのである。

 それを今は、奇妙な形で日常生活英語が読解英語に入り込もうとしているようで、学習のポイントがつかみにくくなっているように思う。
 読解用の文章が、やたら浅いという問題がある。現代英語が書き言葉も平易になっているという事実もあろう。(日本語だって同様だろうが。)ぺーパーバックでも語彙が少ないものが多く、日本人にも「読みやすい」本が増えている。ネイティヴがそんな本を多く読んでいるからと言って、それが理想とは限らない。深い思考力を育てる読解力は身に付かないからだ。さらさら読むことが大事だとされるが、中身のある文章は、そんなにさらさら読めるものではない。行きつ戻りつしながら、噛みしめるように読むのが含蓄ある文章の読み方で、「書き言葉」の意味があろうというものだ。学校で学習するからには、ただ読めればいいと言うものではないのだ。しっかりとした読解力は必ず深い思考力を伴うものである。そのためには、是非とも骨のある文章を読まなければならないのだ。古典の学習が大切なのと同じである。読解力や思考力に時代遅れも何もない。普遍性をもつのが真の読解や思考で、これが創造性を育み、次なる文明を、それこそ「新しい時代」を生むのである。人間が「読み書き能力」を獲得した真の意味はそこにあろう。「今の時代」は、それこそ正しく情報をやりとりすることを目的とする「日常英語」で学べばいいだけの話である。「今の時代」を学習することを目的としていては、逆説的に「時代遅れ」になるだけである。

 英語を2つに分けろ。それで、今の英語教育は、大部分がすっきりするはずである。