考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

きちんと勉強をする意味

2009年10月13日 | 教育
 大抵の人は思い当たるだろうが、「勉強をしよう」と思ったときに最初に手がけるのが、机の上および近辺の掃除である。勉強をするには、それに適した環境が必要なのだろう。たぶん、おそらく、勉強そのものは、脳の中の整理整頓だから、人は勉強前に掃除をしたくなるのではないか。脳の配線があっちこっち乱雑な状態であるのを整理する過程が、「勉強をする」という仕事だったり作業だったりするのではないか。
 身の回りに起こる様々な事象はでたらめに生じ、雑然と存在する。「感覚」が捉える世界に同じモノは1つもないから、それらを全て一つ一つ処理しようとしていたのでは大変なエネルギーを要することだろう。しかし、何らかの基準枠に設けて数多くの異なるモノを1つの範疇に納めてしまえば、処理能力にとってかなりの省エネになる。言葉に切る作用があるとは、こういったカテゴリーを作成して手際よくものを扱うためであろう。我々がモノの名前を知れば、それそのもを理解したかのような気分になるのが正にそれである。先生から、「AはBだよ」と言われて、「ああそうか、AはBだ」と鵜呑みにしてわかったつもりになるのも同様だ。

 もうおわかりだろうが、「勉強をする」とは、この情報処理をどこまでスムーズに行うかの鍛錬である。勉強とは、全て、抽象化をする過程、つまり、ある視点を設定することによって、1つとして同じモノがない多様な存在物を「同じ」と捉えることである。この際重要なのは、いかなる視点を取るかということである。どのような視点で何をどのように捉えると、雑多な物事がより良く整理整頓できるかということである。

 こう言われて納得できない方は、抽象化に至るまでの前提条件に引っかかっているのである。抽象化するために必ず行われなければならないのは、外界にある多様な事物を自分自身の感覚に捉えさせることである。この段階で引っかかると抽象化はほど遠くなる。
 我々が勉強をする際、難しいと感じる第一の関門がこれである。「勉強ができない」、「わからない」のは、まず、感覚が渾然一体とした事物を、分割できるモノとして、しかも、それぞれに差異のあるものの集合体として捉えることが出来ないからである。勉強をするという抽象化に至るには、逆説的であるが、手始めにものを分割し、分割されたモノそれぞれについての差異を捉える感覚が優れていなければならないのである。ある物とある物が同じであるとわかるためには、その前提として、ある物とある物が本来異なるモノであることに気がつかなければならない。そうでなければ、ある視点から見て「同じ」「類似物」になることに気がつくことも出来ないということだ。AとBが同じであると判断するには、AとBがそもそもAとBという2つの別物だという前提がないと、「AとBが同じだ」とAとBの2つを認める判断が出来ないということである。これは、「A」と「B」を、ただ漠然とした1つのものと捉えることは全然違う世界の感じ取り方である。視点の定まらない、整理されていない「1つ」、つまりは「混沌」として捉えるだけでは、おそらく人間の脳は「わかった」と思わないのである。

 たぶん、人間の脳は、そのような整理の仕方、捉え方をしている。
 勉強が苦手は生徒が何を難しがるか、自分自身が何が難しかったかを振り返ると、そのように思い至る。それまで自分が意識したことがないものを意識しなければならない苦痛、自分の感覚では漠然としか捉えられず、分割できないとしか捉えられないモノを、目を凝らして見るかのように差異を見つけて分離分割して見なければならない苦労、これら全ては、相当な努力なくしてできないのである。生徒が難渋するのも基本的にはそれなのだ。大変にアタマの良い生徒は、これがすぐにできる。(まあ、相対的な問題でしかないが。)彼らは感覚で詳細に物事を捉え、それらをさらに異なる視点から詳細に分割することで「違い」と「類似点」を見いだす。勉強をするとは、こうした階層性でもってものを捉え、見るということである。

 しかし、ホントは、こんなことを書くつもりでなかった。

 整理することの重要性である。一昨昨日くらいから書きたかった。
 それで、ものの共通点と差異を捉える訓練を積むことによって、おそらく脳は回路が整理される。整理されると、仮に「ものの道理」とでもいうべき「道」が脳の中にはぐくまれるのではないか。大事なのは、これである。
 「論理」とは、誰にとっても同じものである。これが面白い。勉強をすると、論理がはぐくまれる。それは全ての人間にとっての共有事項である。
 で、話はちょっと飛ぶが、真の創造性とは、「ものの道理」にはぐくまれるもので、独自的なものでは決してないだろうということだ。物理の法則でも数学の定理でも、独自性は全くない。誰が考えてもそうしかならないものに軍配が上がる。たぶん、誰の脳にもそのような癖があるのだ。
 それで、勉強をすると、おそらく誰でもが、こうした人類としての共有物を所有することになる。勉強をすることに関していろいろな言説があるが、基本は人類の共有物の所有であろう。これをおいて他に何があるのか。知識だとか生活のための手段の獲得などは、このずっと下位に位置するものであろう。この点で右往左往するのは、真に勉強する意味を取り違えているからだ。それで、真の勉強をすれば、見えてくるものがある。それは、必ず見えてくるものである。それが何かは、勉強をした人だけに見えるもので、その人そのもに直に繋がり、本当のところは言葉を超えているその人そのものになるはずだ。なぜなら抽象化することで、抽象化して得られたモノは再度「感覚」に戻る。それで、感覚とは、その人の身体そのものだからである。


4 コメント

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未整理のまま放置されたある挫折 (わど)
2009-10-14 13:32:43
この記事を拝読して、上記タイトルのような過去の青い「恥じらい」を思い出しました。

言葉への関心に気がついたのはいつごろだったでしょう。たぶんそれは、小説などへの傾斜、人の心理や精神面への興味のふかまりと関係があったでしょうし、もっとザックリとらえれば、処理できそうにもない異性への驚き、孤独感や幸・不幸感の破壊的な体験があったからだったでしょうか。

そうした背景をもっていたかもしれない言葉への関心が、やがて日本語と英語の文構造の差異と類似の発見と喜びの茨の道に、当時のオタク少年(笑)を誘い込んでいったと思われます。

ところがこのオタク少年、なにを血迷ったのか、いわば言語の生成局面(無意識・暗黙・未開の段階)を探ろうと崖から海原へとダイビング。まだ1mも泳がないうちにドイツ語の性変化と遭遇して、ドイツ民族への口汚い呪詛とともに、あえなく溺れ死んだのでした。

そんな挫折を思いだして、先生の「勉強論」を古傷のうずきをともないつつ拝読いたしました。
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いつも読み違いで・・・ (愛読者)
2009-10-14 16:42:17
>人間にとっての共有事項

ほりさんがいつも書いていらっしゃる「前提」の意味が分かったような気がしました。
今の社会の「前提」の崩壊というか・・・価値観が共有できていないことの困難さー生きていくのが難しいのは、実はきちんと勉強していないことにあるのではないか。
数学やら英語やらの点数による偏差値いくつかの壁というより、もっと根源的な人間性(なんていうと差別的ですが)の壁。
そういった意味で、今の日本の教育制度は勉強をする意味を取り違えているように、私には見えます。
一番手、二番手高校の生徒といわゆる底辺校の生徒を分離した教育では「人間にとっての共有事項」を構築するのは難しいでしょう。どちらの学校もきちんと勉強させることができているのか疑問です。
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感性の世界 (ほり(管理人))
2009-10-14 22:44:37
わどさん、コメントをありがとうございます。

たぶん、言葉の世界にしろ数学の世界にしろ、感性という感覚の世界なんですよね。だから、人によって当たり前だけれど、捉え方、捉えられ方が違う。

>差異と類似の発見と喜びの茨の道

そうそう、勉強ってそういう道なんだと思いますよ~。同感。

ドイツ語は、私も(というと、失礼になりますが)全然ダメでした。私は、過去分詞が後置されることがどうしても理解できず、道が閉ざされました。って、自分で閉ざしたと言うべきでしょうが。やっぱ、手始めは感覚の世界なんだよね。

そうだなぁ、若いときのこうした思いは、そのうち「六十の手習い」になるのかな、なんて言ったりして。
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おっしゃるとおり (ほり(管理人))
2009-10-14 22:53:31
愛読者さん、コメントをありがとうございます。

>今の日本の教育制度は勉強をする意味を取り違えているように、私には見えます。

私もそう思いますよ。
今の勉強は、学校も塾も、ホント、試験対策が勉強だと思っている。たぶん、生徒が最も手にする「参考書」の類は、資料集や年表より、「1問1答」。英単語は、教科書からでなく、単語集で覚える。

こんなことをやっていると、「大事そうなこと」を自分の力で見出す能力が養えません。試験対策として効率良い学習方法は、真の能力養成に関しては、最も非効率な方策だと私は思っています。

生徒の試験の出来が悪かったのですが、生徒に言うべきは、試験で何点を取れ、何点を目指せ、ではなく、そこそこ英語はできるようになって卒業せよ、だと思っています。
そこそこがどの程度かを決めるのも生徒自身で良いと私は思ってます。
昔、シラバスの重要性を言われたとき、とってもえらーい先生に、曖昧な目標だ、と批判されましたが、他人が与える目標は曖昧で構わない、と思ってます。(笑)
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