「文明」は、道具の発達の歴史に関わるだろうと思う。道具とは、もちろん「何かをするという目的完遂のための物品」だが、人間というヤツは、案外に、道具そのものを作るのが結構好きなんじゃないかと思う。その結果、より便利に効率的に目的を果たすことができる道具、より快適に使える道具を作ることが出来るようになってきた。車も飛行機も、眼鏡も望遠鏡も、テレビも電話もコンピューターも全てそのはずだ。で、多種多様な道具を作り出してきたのには、目的完遂のためだけというより、ただひたすら工夫して、次から次へと新しく作り直すことそのものが好きだってことはないのかなぁ?(←言いたかったのは、これ。)
で、「道具を工夫する能力」は、国民性や民族によっても異なる可能性があるだろう勝手に想像するが、ここで日本人の登場である。
日本人が、物まねというか、改良するのが得意なのは、そもそも「工夫好き」の血が流れているからではないかしら。
もちろん、「自然の豊かさ」に関わる。
道具とは必ず「モノ」である。(よくわからないが)コンピューターのハードは「自然」に関わる「感覚世界」に所属する。だって、機器として成り立たせるのは、プラスチックにしても電気にしても何にしても、物質(やその類)である限りもともとは「自然」の産物だからだ。(脳味噌の中から、機械の原材料は取り出せない。)小さなチップ(と言うのかな?)を作るには、「モノ」を使わないことに、しかも使いこなさないことに、どんなにアタマの中で正確な設計図を書いたとしても実体化は不可能である。
で、なんてたって、自然の豊かな土地で暮らしてきた日本人は、感覚世界の住人として、抜群の才能を示すだろう。扱う「モノ」が変わろうと、「そこに存在するモノを意に沿わせるがごとく工夫して扱いこなす」という過程は同じだからだ。
で、加えて(かどうかよくわからないけど)、日本人は「新しいモノ好き」のようだ。(養老先生によると、そもそも大陸から出てきたことそのものが新天地を求めてのことになる。)それで、モノが豊富なこの土地で、どんどんその才能を発揮した。材料に不足はないうえに、どんどん新しいモノに出会いたいという欲望がある。で、工夫していくことの面白さを知ってしまった。それで、改良を重ねて「より良いモノ」を作る。それがこれまでやってきたことだろう。
社会の規模が大きくなってくると、分業化が起こる。「工夫する人」と「それを使う人」に分かれる。「お客様のご要望に応じて」が起こる。これが更なる工夫、改良となって連鎖し続ける。
「新製品」と聞くと、ついつい買って試したくなるのにはこのような背景があるのではないのかな? で、こういった購買層に支えられ、工夫する側の人の生活を支え、新たなる新製品開発の動機を与える。
えー、ちなみに、私は、(こんなこと書かなくてもおわかりになると思いますが、)新製品にそんなに興味がありません。(笑)
で、「道具を工夫する能力」は、国民性や民族によっても異なる可能性があるだろう勝手に想像するが、ここで日本人の登場である。
日本人が、物まねというか、改良するのが得意なのは、そもそも「工夫好き」の血が流れているからではないかしら。
もちろん、「自然の豊かさ」に関わる。
道具とは必ず「モノ」である。(よくわからないが)コンピューターのハードは「自然」に関わる「感覚世界」に所属する。だって、機器として成り立たせるのは、プラスチックにしても電気にしても何にしても、物質(やその類)である限りもともとは「自然」の産物だからだ。(脳味噌の中から、機械の原材料は取り出せない。)小さなチップ(と言うのかな?)を作るには、「モノ」を使わないことに、しかも使いこなさないことに、どんなにアタマの中で正確な設計図を書いたとしても実体化は不可能である。
で、なんてたって、自然の豊かな土地で暮らしてきた日本人は、感覚世界の住人として、抜群の才能を示すだろう。扱う「モノ」が変わろうと、「そこに存在するモノを意に沿わせるがごとく工夫して扱いこなす」という過程は同じだからだ。
で、加えて(かどうかよくわからないけど)、日本人は「新しいモノ好き」のようだ。(養老先生によると、そもそも大陸から出てきたことそのものが新天地を求めてのことになる。)それで、モノが豊富なこの土地で、どんどんその才能を発揮した。材料に不足はないうえに、どんどん新しいモノに出会いたいという欲望がある。で、工夫していくことの面白さを知ってしまった。それで、改良を重ねて「より良いモノ」を作る。それがこれまでやってきたことだろう。
社会の規模が大きくなってくると、分業化が起こる。「工夫する人」と「それを使う人」に分かれる。「お客様のご要望に応じて」が起こる。これが更なる工夫、改良となって連鎖し続ける。
「新製品」と聞くと、ついつい買って試したくなるのにはこのような背景があるのではないのかな? で、こういった購買層に支えられ、工夫する側の人の生活を支え、新たなる新製品開発の動機を与える。
えー、ちなみに、私は、(こんなこと書かなくてもおわかりになると思いますが、)新製品にそんなに興味がありません。(笑)
地球儀ひとつにせよ、どんどん進化して、すなわちほりさんの言う頭が悪くなるように機能しています。私といえば、捨てられた地球儀で「地政学」を学びました。「地政学」のことなら、なんでも聞いてください。
なるほど、だから「定義」なのですね。思ってもみませんでした。
>さて、「これまでと違った用法」を見つけた場合、どうしましょうかね。
これ、「子供の役割」なのでしょうね。先入観がないから、自由に扱う。それで、ときどき子供は大人に叱られる。「これはそんな風に使うものじゃない!」ってな具合に。
幸島の芋を洗って食べるお猿さんも何か似てるかな。
善し悪しに関しては、本来の定義を損なわず、行儀が悪くなければ良いんじゃないのかな、って気もします。
養老孟司さんにしろ、内田樹さんにしろ、私と同じ東京大学卒業です。森下礼先生????
・・・・・変でしょう?
振り返って見ると、たぶん、養老先生は、私は最初から「養老先生」と呼んでいます。だって、「養老先生」と呼びたいんだもの♪ 養老先生、大好き♪♪
でも、内田先生については、最初の頃は、このブログ内でも「内田樹さん」になっているはずです。(さっき、確かめたけどやっぱりそうだった。)
内田先生については、実は、最初は私の中でそれほど大きな存在でなかったのですよ。でも、だんだんと共感?してきて敬意を払いたくなる部分が大きくなってきて、「先生」と呼びたくなったのだと思います。
このブログは、ブログという性質上確かに「公」の場ではありますが、私の中では、自分の考えを綴る、かなり「私的」な場なのです。だから、心情的に、「養老さん」とはどうしても書けないです。もちろん、正真正銘(って、どんなのかわかんないけど)の公の場に書くとしたら、常識的に「養老孟司氏」「内田樹氏」と書くと思います。
いつもいろいろなアドバイスをどうもありがとうございます。またよろしくお願いします。