考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

表現者とその受け手

2009年08月31日 | 教育
 自ら何かを表現しようとする者は、天才でもない限り、自分が引き裂かれるものだと思う。
 美術であれ音楽であれ、文学であれ何であれ、己の何かを表現しようとする者が、自分の意を「受け手」に対して自分の意図するように伝えたいと思う場合、表現する者は、表現者であると同時にその受け手でなければならないようだ。
 自身の意図が意図道理に伝わるべく表現するためには、表現しつつも同時に受け手としての存在を冷徹に意識しなければ、表現は失敗すると思う。天才や「憑かれた」場合は、これが無意識的にすでに出来てしまっているのだろう。しかし、そうでない場合は、常にどこかしらに受け手としての自分を見ていなければ、表現は自分だけが自己満足的に認める「私らしさ」になる。
 自分に対して正直になりたければなるほど、逆に、他人の目を意識した自分を見つけ出さないことに「正直な自分」は存在しない。
 こうして考えると、「自己表現」と言えども、あくまでも自己とは他者の目に映る自己でしか自己表現はなし得ないということになりそうだ。表現とは、ありのままにあることではなく、他者を介在させなければなし得ないあり方のようだ。

 と、生徒の作文を指導して思った。作文は「言語」だからこういったことがさらに一層影響したのかもしれないけど、結局、自己とは、他者の存在なしに存在し得ないということなのだろう。これはそのまま人が社会的存在だと言うことを意味しそうだ。

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