考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

受験のお守り

2009年09月01日 | 教育
 以下、思考訓練として書いている。

 今の日本の公立学校では、宗教は外されている。だから、学校で、学問の神様の受験のお守りを飾ったりすることは特定の宗教活動にあたるとされるだろうから、禁止される。しかし、どういうワケだか知らないが、ストレートに「法律違反だからいけない」という言より、「不快感を感じる人がいるからいけない」と言う方の方が多いような気がする。私が聞く分には、「不快感」が多い。それで、実際に、不快感を表明する方がいるようだ。
 で、そういった不快感を示す方がなぜ不快感を示すのかを考える。
 その人たちは、町の中で自分の宗教ではない宗教施設を目にしても不快感を示さないだろうと思う。そんなことをしていたら、どんな町も歩けまい。大都会の真ん真ん中にもお稲荷さんやお地蔵さんがある、というか、みえる。神社仏閣、様々な教会もある。とすると、そういった方の不快感は、公立学校という特定の宗教教育や宗教的活動が法律で禁止されている場所で宗教が扱われることが不快感の理由だと言うことになる。ということは、不快感の理由の根っこにあるのは、法律を守っていないからだ、ということである。
 と、書くと、「なんだ、貴様は公務員のくせにその態度はなんだ、法律遵守が云々」と、猛烈な反感を買いそうであるが、上記、思考訓練として書いている点を考慮してください。思考訓練とは、「ってことはどういうことだ」ということを含むから、私は今まさに、法律で命じられているように、絶えず研究と修養に励んでいる最中なのです。

 ふ~む、そうか。
 「不快感」という言葉の意味は「決まりを守っていないのが不快だ」なんだ。

 それで、学校というところが、「ってことはどういうことだ」を考えるところだから、なぜそのような法律が出来たのかを考える。
 たぶん、GHQが、日本人に宗教を与えると、またとんでもないことをしでかすかもしれないから公立学校では宗教教育を禁止するのが良かろう、だろう。(私が知っている限り、みんな(←怪しい)そう言っている。)

 で、「決まりを守っていないのが不快だ」は、何故その決まりが出来たのか、という決まり成立の理由や経緯を問わず、結果的に生じて存在する決まりを信仰するのは非学問的な態度だろうと思うから、学校という学問の場でそれを問うのを何となくためらうのも、なんだかとっても変な気がする。
 

コメントを投稿