考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

情の流れ・知の論理

2006年11月10日 | 物の見方
 ニュートンはパラダイムを作った人だというのに、嫉妬心が強かったとかいろいろ「人間的」だったらしい。
 論理的思考と嫉妬心は相容れないものとも思われようが、ニュートンにおいては見事に(?)両立していた。

 つまり、人間とはそーゆーものであるということだ。
 たぶん、私たちの中には、「情の流れ」(←ネーミングが良くない・笑)とでも呼ぶべき、ある意味、野性に根ざした動物的欲求や感情に左右される思考と、知性と呼ばれ文明を築き上げた「知の論理」というべきものが分かちがたく存在する。

 古い脳の支配する世界と新しい脳が支配する世界とも言えるか、言えないか。よくわからない。でも、「理屈抜きで面白い」「面白くない」とか、「好きだ」「嫌いだ」には理由がない。「面白い」「面白くない」「好きだ」「嫌いだ」があるだけである。もちろん、これらは「情の流れ」に起因する。

 学校で指導上の問題になっていることも、「知の論理」と「情の流れ」の対立と見ることができる。この対立は、学ぶ側だけにあるのではなく、教える側の問題にもなる。そもそも人間とは「そーゆーもの」なのだろう。

 生徒の知的能力が高くなると「知の論理」が優勢になる。しかし、「情の流れ」がなくなるわけではない。(当たり前だ。ニュートンだ。)たぶん、生徒の知的レベルが低いと、「情の流れ」が圧倒的優勢を占めるだろう。「コトバ」ではなく動物的な勘で教員を見て「査定」するだろう。

 「あんたの言うことなら聞く。アイツの言うことは聞かない」は、「情の流れ」による判断である。
 銀行が金を貸すか貸さないかを決めるとき、きちんと査定された担保は「知の論理」に基づくものだろう。しかし、誰だっけ?芸能人が銀行にお金を借りに行ったら、支店長が「○○さんならお貸しします」ということで話がついたらしい。人気俳優だから、取り損なうことはないと踏んだのだろうが、人柄を見ての話だそうだから、これは「情の流れ」に近いものではないかと思う。

 学校で生徒が「○○先生の言うことなら聞くけれど、××先生の言うことは聞きたくない」という科白を聞くと、私はむっとする。
 学校は、基本的に「知の論理」を訓練するところである。だから、このような「情の流れ」に即した判断をして貰いたくないと思う。コトバに出せること(つまり、意識化できること)は言うまでもなく、無意識のうちになされることであっても、このような判断の仕方をして貰いたくない。無意識の判断ですら是正すべことが多々あると思う。(いじめの加害者の心理でも何でも。)

 人間は本当のところは「知の論理」によって行動するわけでない。人を本当に動かしたいときは、「情の流れ」に訴えるべきものである。その方が、人は素早く納得づくで動くものであろう。近頃の「政治」はこの力に因っている。

 しかし、学校までもがこれに則って動かそうとしているのが問題ではないか。こと「学校」に関する限り、そこは「知の論理」の習得を目指させるべき場だからだ。

 現代の文明は、「知の論理」によって達成されたものである。文明化に最も近いのは、学校であろう。どんなに最新の工業製品を作っている会社よりも、先端医療を施している病院よりも、学校こそが最も文明に近いところにあるのではないか。学校の抜きに、知の論理の育成はできないからである。
 で、たぶん、例えば、危急の事態に直面したとき、人は「情の流れ」に即して行動するだろう。本能的にそうしか行動できないはずだ。しかし、その際に全体を見渡して冷静に判断できるとしたらそれは「知の論理」によるものだろう。それで人間は、「知の論理」を発達させることで事故を回避したり緊急事態に的確に対処してここまで繁栄してきたのである。

 現代社会は、社会全体に「知の論理」が蔓延ろうとしている。しかし、それは、生育過程にある子どもにとっては「まやかし」にすぎない。なぜなら、子どもが触れたとしても子どもの「知」を十分に論理的に育て上げる力はまったくないからだ。
 しかし、何となく漠然と蔓延している「知の論理」のせいで、逆に学校における「知の論理」の育成がいけないものであるかのように扱われている。それで、近頃の学校内部のシステムというか、感性というかが、「情の流れ」に即したものになってきて、学校が本来持っていた機能が失われ掛かっているように思われる。
 
 もう少し、冷静に社会全体の有り様や人間がどのように人間になっていくのかの過程を見つめ、教育がもつ働きというか役割を考えていくべきではないか。何かが根底から間違っているような気がしてならない。


8 コメント

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情の人・ニュートン (森下礼)
2006-11-11 13:45:12
ニュートンは、確かに「情の人」という一面も持っていましたねえ。彼がイギリス科学界にデビューしたとき、ロバート・フックが勢力を張っていて、抗争がありました。バネの弾性の法則で名を残す人です。フックを葬り去ったニュートンは、以後のイギリス科学界を支配し続け、むしろそれがフランスやドイツにおける科学の進歩にイギリスが遅れをとる原因になったとも言われます。
 微分・積分の分野でも、ドイツのライプニッツと、どちらが先に発見したかで泥仕合を演じました。ただ、こと数学においては、ライプニッツのほうが優れていたようで、現在の数学で使われているのは、ライプニッツの考案した記法であるところを見ると、どっちが勝ったかは、結果が出ているのですが。
 「知の人」の代表格であるニュートンは、「情の人」としての弊害をも残したと言えるでしょうね。
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Unknown (執事)
2006-11-11 19:39:50
情の流れと知の論理、ですか。
振り切れることなく、止まることなく。
振り子かメトロノームのようでありたいものです。

他人の偏りを見ると、バランスを取るために逆の考え、違う考えを示したくなります。
そもそも、賛成なら何も言いませんしね。
単に天邪鬼なだけかも知れませんが。

こっちはその場限りのつもりで発した言葉を覚えていて、あとになって引っ張ってきたりする人もいて、むしろ感心してしまうこともありますねw
「確信犯的な中道」は「日和見主義」と言い換えられてしまうと反論が難しいです。

話を戻して教育について。
徹底的な管理教育でのいじめの押さえつけは、違う部分での歪みを現出させるだけだと思いますけどね。
じゃんけんの三すくみ、みたいな「平和的いじめシステム」がいる。
まずは力で押さえつけるのも仕方ないでしょうが、そのまま押さえっ放し、ではあまりに芸がないでしょう。
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バランス (ほり(管理人))
2006-11-12 22:55:07
執事さん、コメントをありがとうございます。

情と知は、要はバランスでしょう。

>>違う部分での歪みを現出させるだけだと

何であれ、同じ次元で解決を図ろうとするのは、モグラたたきで、まさにおっしゃるとおりでしょう。

何かで読んだのですが、一卵性双生児がそれぞれ里子に出され、一方は犯罪者、他方は聖職者になったということです。
「情」の発現の仕方が環境によって大きく変わった例でしょう。聖職者の方も、気が小さくて、まあ、そんなにしっかりと立派な人柄というわけでないそうです。ということは、「人柄の部分(情)はそんなに違わない、しかし、発現の仕方が異なる」のがポイントだと思います。
ここに大きなヒントがあるに違いありません。

子供(若者)の場合は、「成長」という要因が加わるので、それとの兼ね合いという要因がまた更に加わりますから、これを利用しない手はないと思います。
が、今は、「今現在の子供の状態を受け入れる」という考え方が強く、「子供をしかるべき方向(といってがんじがらめではなく、緩やかな感じの方向性)に持っていく、変化させる(=成長させる)」言葉を換えると、「一回り大きくさせる、飛躍させる、挑ませる」みたいな感じがない気がしてならないのです。
大人が、自分自身が子供だから追いつかれたくないのでしょうかね。(笑)いつまでも、子供が自分以下の存在でいた方がなんとなく自尊心が保たれるというような。

>>まずは力で押さえつけるのも仕方ないでしょうが、そのまま押さえっ放し、ではあまりに芸がないでしょう。

う~ん。。これは「いじめ」だけについてですか?(この文脈だと当然「いじめ」だけでしょうが。笑)一般論ですか?
勝手に一般論と解釈してしまうと、生徒の立場だとそんな風に見えることも多いんじゃないかと思います。
まあ、押さえつけられてると思うことであっても、時間が経つと、意外に違う見方がでてくるものですよ。
なんだろ? こういうの、もう私の能力では説明できませんが。
次元が変わるというか、地平が変わるというか、そうなるとまた変わってくる。人生はその連続のようにも思います。「今の思い」だけが結論じゃないってことでしょう。だから、人生生きるに値するのでしょうよね。

ちょっと出かけて少々疲労気味なので、支離滅裂なレスになってるかもしれません。ごめんなさい。

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科学者も人間 (ほり(管理人))
2006-11-12 23:46:58
森下礼さん、コメントをありがとうございます。

これは、藤原正彦さんの本で知ったことでした。
しかし、絶対的な(自然)科学の世界であっても、科学者の人間性が関わるのは、まあ、人間とはそーゆーものだからなのですね。

芸術の世界でも、宮廷画家などは、貴族や金持ちのご機嫌取りがうまかったらしいし、今も、現実にそーゆー類の人もいるらしいですね。
指揮者の小澤征爾さんがボストン交響楽団でしたっけ?うまくやっているのも、指揮者としての能力だけでなく、パーティーなどでも人の輪の中に盛んに入っていく社交性があるからと読んだことがあるし、お金持ちのおばさんファンが多いある宝石のデザイナー?は、顧客をじつによく覚えているらしい。
私の説?で言うと、「ロケットが多数決で飛ぶか飛ばないか」の問題は、多数決「も」必要、ということのようです。
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Unknown (執事)
2006-11-13 20:23:22
一般論とすると。

時々どうにも理不尽なことを言う人はいますねw
でも、表面はどうあれ大抵のことは裏にある理由が洞察できれば、別に気にならないです。
周りを見ていると、理不尽だと感じるのは単に洞察力不足であることも多いように思います。

「今の思い」も一つじゃありませんしね。
それぞれの立場で何が正しいのか、対立する考え、方向性の違う考え、色々あります。
ただ、どれを他人に示すか、どれが自分にとっての利益なのか、です。

他の人はどうなのか知りませんけどね。
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申し訳ないですが (ほり(管理人))
2006-11-13 22:29:50
執事さん、コメントをありがとうございます。

洞察力は大事だと思います。勉強をする意味も、私は洞察力の育成という側面があると思っています。(それだけではないけど、もちろん。)

「今の思い」も、おっしゃるとおり、一つではないでしょう。そんなに人間の考えていることなんて、単純ではないと思います。どんな子供であっても。
ちょっと関係ないけれど、私は、子供が幼いうちから、まだ十二分な言葉も概念も考え方も知らない段階でものを言わせることに余り賛成しません。(入試の小論とかも。)考えさせるようでいて、実のところは思考を単純化させて丸めることを覚えさせてしまうと思うからです。

>>ただ、どれを他人に示すか、どれが自分にとっての利益なのか、です。

この考え方は、お若い方の考え方のように感じます。
自分自身とは、そんなに分断できるものではないように思います。「分断」という表現では言葉が足りないかな。「どれ」はあくまでも意識化の範囲内のことではないかと思います。違うかもしれませんが。なんて言うのかな、うまく表現できませんが。

ところで、執事さんには、これまで私の記事を読んで頂き、いろいろご意見も伺いました。大変有り難いこととも思う気持ちが私にあります。しかし、別のコメントで申し上げたように、現役の高校生が私のブログに関わることを私は好みません。やはりそこのところは一線を引かせて頂きたいのです。
この議論に関しても、きっとまた様々な考えを巡らし、上記のコメントをくださった時とは異なる表現を望まれるかと思います。それで、それは当然とも思います。私や他の方の予測の付かないことを考えていらっしゃる可能性も高いと想像します。

私は、加えて議論をふっかけてしまっている点を反省しなければならないでしょうが、先回、今回のレスは他の読者を意識してしまったと言うことでお許しいただきたいです。

もし、執事さんが今後も私の記事に興味を持って頂けるのだとしたら、晴れて高校を卒業し、大学生になってからではいかがでしょうか。それまで待って頂くわけにはいきませんか。余程のことがない限り、このブログを続けるつもりはありますので。
また、私自身、それこそ職業柄、受験生とこのような議論をすることに抵抗を感じるのです。たとえ、ご自身にとっては一種のレクレーションや気分転換だったとしても、です。秋も深まって来ていることですし。

私は、春になってからを楽しみに待っています。どうぞ、お聞き入れください。

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Unknown (執事)
2006-11-14 00:12:07
んー、はい、了解です。
少し調子に乗って書き込み過ぎか、とも思っていたところです。

現役高校生、か。
隠しておいた方がよかったですね。
もう仕方のないことですけど。
では大学に合格したら、ということでどうでしょう?
春なら春で、待ちますけれど。

ほりさんの記事は思考のきっかけにしやすくて好感が持てます。
また書き込める日を。
それでは。
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了解ありがとう (ほり(管理人))
2006-11-14 21:23:02
執事さん、ご了解ありがとうございます。

>>隠しておいた方が

しかし隠しごとは良くないから、今回のやり取りは、これはこれで、執事さん個人にも私にも、それで、このブログを読んでくれている人にはこのブログのスタンスがはっきりして良かったと思います。

高校生は3月でも学校に籍があるし、大学に合格したからといって大学生になったわけではないから、まあ、やはり、春になってから、ということにしてくれませんか。
それまでは自分の勉強に一生懸命に努め、残り少ない学校生活を、生身の先生とのやり取りを通して、ホントに、いろんなことに触れてください。つまんないことであってもつまんないと感じることは、若い時期にはけっこう有意味ですよ、と私は思っています。(月並みかもしれないけれど。)

私のブログ、褒めてくださって嬉しいけれど、まあ、少なくとも在学中は読まなくていいですよ。高校生に読んで貰いたい思って書いているわけではないし、もっと良いことが書いてある本は世の中にたくさんあります。古今東西、そんなのを捜した方がずっと良いです。身近な亜流ではなく、一流のものに接してください。その方が、血となり肉となる。
それに、受験はせっかくのチャンスです。長い一生の中でも、この機会にしか勉強しないことが多々あると思いますよ。しっかりやってください。この先、何がどう結びついてくるのかわからない。底力にしてください。

私は基本的に(?)若い人が好きです。未知に向かっていくからです。(もちろん、私にもまだ「未知」はあるだろうけれど・笑)執事さんにも大きく羽ばたいていって欲しいと思っています。自分の中から、何が出てくるかは、誰にもわからない。

真に語り合える日を楽しみにしています。

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