考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

江戸幕府とスルタン

2008年01月25日 | 物の見方
とは奇妙な組み合わせであろう。
 
 聞いた話。オスマントルコだと思うけど、スルタンが統治していた。しかし、スルタンは世襲制らしいが、血を分けた後継者が一人決まると、他の兄弟は、たぶん、異母兄弟も含まれるのだろうが、皆、命をなくされたらしい。自ら死を選ばされたのか、あやめられたのかどうかは聞いてない。
 「そんなの、人間のすることじゃないよね」という感想がふつーだろう。

 しかし、(と、こんな書き方をすると、おまえ、人間じゃねぇな、と思われそうだなぁ。苦笑)そのお陰で、無駄な世継ぎ騒動や謀反が起こらずにすんだのではないのだろうか。「不要になった高貴な血」が絶たれることによって、「多くの庶民の血」が内乱で流されずにすんだ、東西を結ぶ要地にあって国家が繁栄したということはなかったのだろうか。
 
 このスルタンの例は、「集団と個」の対立にかかわるだろう。
 「帝国秩序の維持」という「集団」の利益を最大の目標に掲げた上での「政策」として、対立的に「個」たる「高貴な若い血」が流れたのだ。

 人間にとって、最も不都合なのは、共同体が維持されない状態、アナーキーな状態であろう。そこでは、個々人の生活、命の基本が全く保証されないからである。現代社会では民主政治が最高のものとされ、専制政治や独裁は否とされる。しかし、アナーキーを土台に想定すると、たとえそれが独裁政治や専制君主の存在であったとしても、アナーキーより「まだまし」「ないよりずっといい」という判断が可能になるだろう。なぜなら、ともかくも「ああするとこうなる。こうならないためにはああすると良い」などの「予測可能な未来」としての「秩序」が存在する。個人の自由などが保証されるわけではないが、「その制度」への適応を図れば、なんとか生き残る道が開かれるのである。
 その点、「王の血を分けた」というだけで命を失わされた者たちには、極めて非人間的で理不尽な仕打ちだったろうが、「帝国」という「共同体」を守ろうとした手段として、考えられ得る方策だったとも言えるのではないか。もし、スルタンが「兄弟」と反目し合い、内乱が起これば、「帝国」はそれだけの理由で潰れた可能性を孕んだはずだ。イスタンブールの繁栄の陰には、おそらく「高貴な血の犠牲」があったのだ。

 その点、江戸幕府さんは全然違う。というか、世継ぎに恵まれないことが多かったというのはあるのかもしれないけれど、それでも、御三家が謀反を起こすことなんぞ、想像し得なかったはずだ。もっと言えば、スルタンの例に倣えばそもそもは邪魔になったはずの「御三家」である。それが時機を得たときに機能したのは、実に幕府の統治がうまかったといえるのだろう。もちろん、民族性の違いが関与したかもしれないし、また、将軍そのものが、常に暗殺や勢力争いの渦中に位置しているという危険を前提としたこともあろう。「毒味役」なんてのは対策の典型だ。(と言って、スルタンに毒味役いたのかいなかったのかどうかは知らない。)
 もちろん、江戸幕府にも「泣いた個人」の存在が数多く陰にあったはずだ。それで、その人たちは、必ずしも「庶民」とは限らなかったのだ。庶民は平和なときにあって、平和を当然のものと欲望する。しかし、その陰で、支配者層の欲望だからといって、皆が皆、必ずしも叶えられていたわけでなかったはずである。

 個と集団の関わりを考えると、なんと人間の欲望とはややこしいのだろう。

 

2 コメント

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Unknown (執事)
2008-01-26 16:18:16
ああ、とっても面白いですね。
人間の歴史を見れば、つい最近まで、人間は生きることで精一杯でした。ゆえに個より集団が優先される。
その後、何とか食えるようになって、今度は反動から個が優先されるようになる。帝国主義の広がりともリンクします。(帝国主義と植民地主義は違いますよ。これは蛇足)

そして今は、欧米以外の国、具体的にはBRICSなどの発展で、個を優先するイデオロギーから脱しつつあります。欧米、特にイギリスはその動きに抵抗するでしょうが、この動きは止まらないでしょう。
それぞれの国、地域がそれぞれのイデオロギーを持ち、しかし世界大戦には至らない世界。テロや紛争をなくすことはまだできないでしょうが、世界は確実によくなってきています。

集団と個に対して、日本はどんな答えを出すのでしょう? 多神教の国として面白い立場が取れるのではないかな、と思うのですけど。
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空気と人口 (ほり(管理人))
2008-01-26 22:39:20
執事さん、コメントをありがとうございます。

>ああ、とっても面白いですね。

どうもありがとうございます。

>何とか食えるようになって、今度は反動から個が優先されるようになる。

今の日本は、豊かさの極限を行ってるでしょうから、コドモの「個」まで認められる時代環境になってるのでしょうね。問題は、本能的な、内田先生の言葉を借りると、6歳児でもわかる欲望の成就が「個」のあり方として定着しつつあるのではないのかなと思います。

>個を優先するイデオロギーから脱しつつあります。

学校などでは、「個」を認めているような顔をしながら、意外に「画一化」の動きをしている。「勉強は試験のため」「わかりやすさ偏重」などもそれでしょう。
学校の授業にしても、(高校での学習としてですが)「考える方法」に徹する方が、本来は「個性」が生きてくるもののはずです。「学問という絶対性」に向かう態度、感受性は、人によってさまざまですから。(まあ、数学の問題の解き方にしても、マーク問題ではどうしようもないですよ。)
ひどくバランスを欠いています。

こういったバランスの悪さは社会全体の傾向でしょう。(だから、それが学校に入り込んできたとも言える。)それが、養老先生が今季号の「考える人」万物流転にも書いてる「日本人は生きていない」や自殺者の増加に繋がっているように思います。

>それぞれの国、地域がそれぞれのイデオロギーを持ち、しかし世界大戦には至らない世界。

人間が本能的に持つ支配欲、承認欲求をどのように昇華させるかにかかるのではないでしょうか。

>多神教の国として面白い立場

「空気(雰囲気)に支配される文化」がありますから、これがどう絡むかと思います。
「空気」が、「集団」としての機能を果たしてきたとも思いますので。
まあ、個人的には、人口が減ることが最高の対策と思います。(笑)多神教というのは、要は物量、自然の豊かさに依存し、依拠するものですから、今の国土に1億は多すぎますよ。人の絶対数が減れば、個としても集団としても意外に共生できるんじゃないのかな。

>世界は確実によくなってきています。

これはそう思いますね。
「個」が生き残るために他人を蹴落とすような荒々しさは少なくなってるはずですから。
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