考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

俯瞰的なものの見方と「上から目線」というコトバ

2009年06月24日 | 教育
 近頃、「上から目線」という表現があるようだ。人が自分に向けて発した言葉を非難する際に使われるようだ。たぶん、命令的な内容や口調だったりするとき、まあ、要は、「ちぇっ、偉そうだなぁ。」と思ったときに非難として使われるのだろう。(と言うのが、私の理解。)

 それで、ふと思ったのは、俯瞰的なものの見方をした場合、人によっては、何を言われても「上から目線だ」と捉える人がいておかしくないんじゃないのかなぁ、ということだ。
 ↑と、こんなことを言うだけでも、何人かは、「上から目線」と思うんじゃないのかな。(そう思う人は、このブログを読みに来ないと思うが。)

 「上から目線」という表現が非難であるなら、「目線」は、どこから来るのが望ましいのか? 当然、対等であるか、下から、と言うことになろう。「私とあなたは平等で、対等よ」「私を見上げて♪」というのが、「上から目線」を嫌い人が望む関係だろう。まあ、「お客様は神様です」とか「患者『様』」の類だろう。---う~ん、そう考えると、厚労省も「上から目線」という表現を流行らせる土壌を作ったということか。

 「俯瞰」が何であるかを考えると、どうしても、「上方から全体像を掴んでものを見る」ことになる。それで、「こうこうである」という見方をすると、ある意味で「上から目線」になると思わざるを得ない。それで、そのものの見方を知った人が「全体像」を描くことが出来ない場合、つまり、俯瞰するものの見方ができなかったり、しなかった場合、自分自身がふわっと(かどうかがともかく、)上に上がれないから地面に這いつくばるような気分で、俯瞰的なものの見方を「上から目線」としか捉えられなくて当然だろうと思ってしまう。

 「俯瞰」は、たぶん、抽象化と関わるだろうし、それこそ、絶対神の西洋的なものの見方と関わるだろう。八百万の神の日本の風土には合わないよなぁ、と思う。 西洋でも「上から目線」という言葉が批判的な言葉として流行ることがあるのかしら? 神は常に「上から目線」でものを言うだろうから、どうなのかなぁ?


14 コメント

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Unknown (執事)
2009-06-25 01:09:40
「社会はそんなに甘くない」とか「よそ者は口出しするな」とかみたいに、それを言われたらもうどうにも話が続かない常套句も沢山ありますよね。
これらも「上から目線」の否定と同根であるように思います。

早い話がムラ社会なんですよね。
一つの組織内でも、直属の上司の言うことなら聞けても、経営者は「ムラ」の外の人間だと考えて、経営者の考えや思いを斟酌せずに「現場のことをわかってないくせに」と切り捨ててしまったり。
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あとは知ったことかという態度 (ゾウムシ)
2009-06-25 10:05:37
こんにちは.

ほり先生の一連のエントリをいつも楽しみに拝読させてもらっていますが,素朴な疑問が沸いて来ました.

ボクは,ほり先生と同じく養老先生を師と仰いでいるので基本的な理念としては賛同以外の何ものもありません.また,それを理想の絵空事だというつもりもありません.

ただ偏差値55ではありませんが世の中は普通の人間が大半で,それらの人たちはある一定の常識の中(塀の中)で過ごしています.その常識が結果として,たとえ自分たちを苦しめているにせよ,です.

養老先生は塀の上を歩いてきたとおっしゃいました.しかも,それには大変な芸がいる,とも.

世の大半は塀の中しかも中心を目指しています.それが効率化など都市化の「ああすれば,こうなる」でしょう.

ほり先生は立派だと思います.コメント欄に出入り禁止になった方もおられますが,そういう外野からの「そうは言っても現実は・・・」には揺さぶられない.ほり先生も塀の上を歩く覚悟がおありなのでしょう.

でも,ボクくらいの生半可な人間だと,ある時まで世間のど真ん中を目指して,これはおかしいぞ,と思って塀の上を歩こうと思っても,なかなか塀の上は歩けない.やはり芸がいるんです.

そうするとポジション的に社会の辺縁のほうにいることになる.本当に縁ギリギリなら,それはそれで芸のいることだから,いいと思うんです.片方の足は世間に浸かっていない.価値観が半分は違う.

でも,途中から塀の上志向になっても,それは社会にドップリ浸かったままで,端のほうに行くだけになってしまう.価値観は9割方,世間の常識のまま.塀の上を歩くのと,隅に追いやられているのは大きな違いです.

だから,いっそ効率化でとことん突き進んだほうが,卑近な例では儲かる.コンビニ業界のように,まだ食べられる弁当でも捨ててしまったほうが儲かる.

お金がすべてではないですが「衣食足りて礼節を知る」という面もあるわけです.これは養老先生も結構書かれていますよね.もちろん今の日本で飢え死にすることは滅多にないわけですが,ギリギリの生活をしている人もたくさんいます.衣食足りない状況になれば人間の考え方も当然変わってくるわけです.養老先生は,戦時中などそれは単に栄養不足でそういう考え方になったのだろうというようなことを書かれているときが結構あります.

人間といっても所詮は動物ですから考えるよりも食うほうが先なので,食えなきゃ,今の社会のここがおかしいぞも何もないわけです.教育界の問題なんて,そんな状況で考えても良い案が浮かぶわけもありません.

世間の常識のままでいるとどうしても世俗の欲が肥大化します.弁当捨てたほうが儲かるなら,それでいいじゃないか,となる.あるいは表向き批判しても,内心では,そうやって儲けているのがうらやましい.

とにかく,社会の辺縁に置かれ,金銭的にも低待遇であれば,礼節なんていってる余裕はありません.

でも,それはそれで普通のようにも思います.

何の文章か忘れましたが「世の中は普通の人が作っている.そう信じたい」と養老先生も書かれていました.もちろん違う文脈のものを無理やり引用しているのですが.

あるいは,(悪いニュアンスでの)「教育ママ」ということに対しても,養老先生は「そうは言っても,現実はこうだから,母親達はそれに一所懸命適応させているのだ」ということも書かれていました.

確かに弁当を捨てるのは論外です.さすがの公取委も動きました.世論の流れもそうでしょう.

ただ,世の中がそんなに清廉潔白になるかといえば,そうではないでしょう.これまた養老先生の引用ですが,「世の中に正直者で人のことを疑わない良い人ばかりの国があったとする.そこは詐欺師の天国になるはずである.よって,一旦ウソがその中に入るとある一定の均衡が取れるところまで,嘘つきが増殖し,個人の中にも正直な部分と嘘の部分が混在するようになる.」 文言は正確ではありませんが,意味としてはこういうことでした.

ボクは,積極的に弁当を捨てろ,嘘つきになれ,とは言いませんが,今の社会状況で,養老先生やほり先生のような主張をして,弁当を捨てていることに気付かせて,まっとうな人にしようと思っても,そのことで苦しむ人が出てくるんじゃないかというような気がします.

最初に書いた素朴な疑問とはそういう意味です.

偏差値55の人間を頑張って偏差値70あるいはそれ以上に上げようとなさることに否定はしませんが,多くの場合75に上げようと思っても58くらいで限界だったとなる.補足するまでもないですが,この偏差値は考え方としての偏差値で直接のテストの結果のようなものではありません.

いうなれば,ほり思想の偏差値70以上には普通の人はなかなかならない.

コメント欄出入り禁止になさるのは,ほり先生のブログですからご自由にされたらいいと思いますが,出入り禁止になった方の基本的な考え方は,ほり先生の言われることは良く分かるけど,それを分かった上であえて,効率化のほうも支持する.という苦肉の策のような方だったように思います.

あえてバカのままでいたほうが,偏差値55的に大きな顔して過ごしていられますから.そちらの方がその人にとって幸せでは?

その偏差値55の推奨がほり先生は我慢ならなかった.でも,偏差値70以上が無理なら,あえて鼓舞しないというのもあるのかなと思います.「知ることの怖さ」というのでしょうか.今は「情報公開」の時代ですが,昔の知恵としては「知らないほうがいいこともある」でしょ.

踊る大走査線というドラマでいかりや長介が「正しいことをしたければ偉くなれ」と「現場」代表のような存在の織田裕二に言います.

でも,偉くなるには「正しくないことをして,のし上がっていかなければならない」という面もあるはずです.さっきの嘘つきのいない状態,詐欺師の天国に通じる話です.

養老先生が東大を定年前に辞められた理由はたくさんあると思いますが,「人を変えることが怖くなった.特に今の若い人を変えるなら,若い先生が相手をしたほうがよい」というようなことがあったと思います.

ある臨床心理家との対談でも,トラウマを特殊な「治療」をして治すということに危惧を抱いておられました.重篤なものは別として,そうでないなら,トラウマを抱えたまま10年20年30年と生きて,それを自分で解決していく.それが人生だと.

ほり先生は養老先生が東大をお辞めになった歳よりはまだかなりお若いと思いますが,自分の考えで生徒さんを啓蒙していく(当然,成功すればするほど人は大きく変わります)ということに対して,どのようなことを考えていらっしゃいますか?

ブログでのご主張も然りです.

人を変えるということに対する,ある種の権力者が持つ「うしろめたさ」というのをお持ちですか?

人生の1/3は眠っているのだから,所詮私の意見も最大で2/3,実際は半分も当たっていれば十分とお考えですか?

ホリ先生は自分は英語ができないなどとは書かれますが,信条的な部分に関しては,自分でも自信がないという感じではないような印象です.かなり自信がおありではないですか? 俯瞰して見ておられるんですよね.神の目線ですか? さすがに自分が神だとは思ってらっしゃらないことは自明なのですが,でも,俯瞰は危険じゃないか,とも思うんです.

もっとも,これも9.11のテロが起こったあとに,養老先生が「7割くらいしか自分で信用していない意見は,短期的には10割の意見(原理主義)に負ける.私見ではこれが原理主義がなくならない理由だ」というようなことを書かれています.どうしても何かを主張したいときには10割で言いたくなる.ほり先生のお気持ちも痛いほどわかります.でも,養老先生は7割も自分の意見を信用していない,と.

7割も自分の意見を信用していないという点で,卑怯な逃げとも取れるのですが,だからボクは養老先生を信頼できます.

独特の養老短文,断定などと言われていますが,そうは言っているけど,俺の言うことなんて真に受けるなというメッセージが行間から読み取れます.あるいは,いろいろ書いているけど,あとは知ったことか(これは行間でなく本当に何度も書かれていますが(笑)).でも,そういう一見投げやりなところがいい.

ほり先生はちょっと必死すぎる感じがして,いったいどこを目指しているのかなぁ.ひょっとしたら,あとは知ったことか,とは思われてないのかなぁ.というようなことを思いました.

余計なお世話ですが,一応言ってはみるが「あとは知ったことか」というようなスタンスのほうが結果的によいのではないでしょうか.

いつも長文で,しかも今回はかなり不躾になってしまいました.すみません.ご容赦を.
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これが全てと思うか否か (ほり(管理人))
2009-06-25 20:31:40
執事さん、コメントをありがとうございます。

ムラ社会も、実は、「あり」ですよね。
これを上手に使い分けているのが、私、内田先生だと思うんです。
自分が所属する共同体をしっかりと形成して、一人では生きていけないのも芸のうち、とおっしゃる。
で、ご本人は、ちゃんと俯瞰的な視点も持つ。で、行ったり来たり、の自由を確保する。それで、メシを喰っている。
才能と運と、それなりの努力と他に何だか分からないけれど。
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「効率化」も「それに反対すること」も等しく扱う態度 (たぶん出入り禁止になった人)
2009-06-25 21:04:41
ゾウムシ様

> 出入り禁止になった方の基本的な考え方は,ほり先生の言われることは良く分かるけど,それを分かった上であえて,効率化のほうも支持する.という苦肉の策のような方だったように思います.

ちょっと違うかな。

ほんとうに、より俯瞰的な立場からものを見たいのであれば、「効率化」も「それに反対すること」も等しく扱う態度が必要なのですが、ほり先生は、その態度でものを見ることを選択なさらなかった、ということです。

これを、「職業的限界」と見ることもできますが、実際のところはどうなのでしょうね。
内田先生なんかは、この「職業的限界」をうまく突破して生きてらっしゃるようにも考えられますが…。

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偏差値70の生徒を50扱いするなと言いたいの。 (ほり(管理人))
2009-06-25 21:26:35
ゾウムシさん、コメントをありがとうございます。

お返事になるかどうかわかりませんが、私の一連の記事(というか、ブログ)の根底にあるのは、賢い生徒をバカ扱いするな、ということなんです。

今の教育、それも、授業そのものが、その辺の旧帝大はもちろん、それこそ東大京大に行くような生徒を対象にしてすら、授業は英単語や古文の「小テスト責め」に「プリント学習」、自由時間は、滅茶苦茶多い「課外学習」で拘束する。
全く自由がない。自由というのは、自分で学習の手順を考えるヒマさえ与えないことです。(そのくせ茶髪やだらしなさや化粧はOKだったりする。)
脳味噌コドモ、身体、格好だけオトナ。
「自由」が、外見的なものとしてしか捉えない。そう勘違いしてたり、勘違いさせていたりする。

それで、こう言うと、必ず「今の子どもは違うから」等という。
そんな「今の子供」を作っているのは、そう言っていっているご本人たちです。

だから私は、授業プリントを止めた。
それでも、止められない学校もあるでしょう。先生たちで何かしらの「競争」を、しかも、目先の競争をすることで、長い将来に必要であろう能力を養わない教育を施す。それが、効率的な学習で、力を付ける学習だと言う。

私はなるべく「受験のため」と言う言葉を使わないでいます。それで、一見、ソンをする生徒もいるでしょう。出もしない教科書の単語を覚えて。(まあ、でも、実際は、究極的には役に立つんだけど。)

「偏差値55」が教えているからこうなるんだろうな、と思ったりします。(まあ、実際は、偏差値70の人だって、同じようなことをしてるんですが。)
理由は、「現実に即するために」。
でも、実際には、一見遠回りの学習の方が、底力のある実力が付く。

なぜ、みんな気がつかないのだろう?

底力をつけてやれば、いいじゃないか。
あとは、それぞれが、「勝手にやれ、私の知ったことか」です。
でも、生徒の中には、この考え方を「冷たい」と思う子がいる。

それから、
生徒は、なかなか変わりませんよ。(笑)
多数につきますから、私個人の力は微々たるものです。

今の学校教育が、何を目指しているのか。
正直者が馬鹿を見る社会であっても、学校は、正直者を育てればいいと思っています。たぶん、その方が、より多くの人が幸せになれるだろうから。
今は、個人を幸せにするのが教育だと思われているから、詐欺師を育てるのも教育だと言うことになる。(だって、詐欺師個人はそれが自分の幸せだと心底思っていれば、幸せ者になれるだろうから。振り込め詐欺がなくならないのは(最近、この手のニュース、聞かないけど、無くなったのかなぁ。。或いは、法律に違反してないなら、何でもOKなどの考え方とか。)だからでしょう。小学生に株を教えるのも、そうかな? あ、これは、株屋が儲けるためだね。個人投資家というのかな、それが増えれば、株の売り買いの「手数料」が入る。株屋の目的は、個人投資家を増やして、手数料を設けることでしょう。)

たぶん、教員をしているから、こんな考え方をしているのだと思います。
ふつーの仕事(って、どんなか分からないけど。)をしていたら、目先のことを優先させるでしょう。
で、私は、目先のことを優先させないのが、教員という仕事だと思ってます。

金銭的にはともかく、結構、社会の辺縁にいますよ、私。人からは、「仕事をしない」と思われているだろうし。
個別指導は嫌がる。講習は、まあ、やっているけど、そんなに熱心でない。授業しかしない。しかも、授業ではトレーニングをほとんどしない。(今は、これでも保ってるから良いけど。)

授業は、最低限の仕事、講習をして普通、その他の指導、個別指導でも何でもをして「良い先生」と言う評価なら、「最低」にランクづけられて良いでしょう。(笑)実際、長い間、そう思われていたし。そういう評価が蔓延っているから。

それで、生徒も、授業はいい加減に聞いて、講習もいい加減、通信添削や予備校、塾を頑張る方が、「頑張っている気分」を味わえる。(お金もかけてるし。)授業はどうであろうと、講習以外に、エクストラ講習をする人が熱心だと思われている。
管理職も見抜けない。
それで、教師も生徒も成果が上がらないのに、気がつかない。5割上がるのを、1割上がって、それぞれが自己満足する。
何だか、本末転倒。

俯瞰は、「完璧な俯瞰」はあり得ないです。それこそ、「神」です。
でも、人間は、あくまで、高見に登ろうとあがく。それが文化を発展させるのではないかと思っています。これも、「結果」を求めることではなく、あくまでも、「過程」だと思います。
人間は、「過程」を生きることしかできないものだと思います。

最終的には、「何だってあり」だと思います。
だって、生き物の存在意義は、「存在することそのもの」だと思ってるから。
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数日したら消しますね。 (ほり(管理人))
2009-06-25 21:33:23
たぶん出入り禁止になった人さんへ

自分のブログで書いてね。
そこで、ゾウムシさんとやりとりしてね。

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ご返答ありがとうございます (ゾウムシ)
2009-06-26 09:51:12
ほり先生

私の不躾なコメントに丁寧なご返答ありがとうございました.

>賢い生徒をバカ扱いするな

これは重々承知しているつもりです.ですから最初に基本的に賛同以外ないと書きました.ただ,高校と大学,2番手校と東大医学部という差はもちろんありますが,養老先生が「賢い学生をバカに仕立てて送り出すのが東大医学部の役割だ」と.「賢い」「バカ」の意味が違うのですが,あえてこう書きます.

そこで,素朴な疑問で「バカのまま」で送り出してあげたほうが,場合によっては良いのかも,と思った次第です.

受験のためじゃない勉強が究極的には役に立つというのも異論はないのですが,そんなに究極を求めなくても凡人には良いのかななんて.

もっと言えば,賢い生徒が将来バカを演じて社会の中枢に入っていくくらいの老獪さがあれが良いのかなとも思います.

だって,単純には賢い人は嫌われるでしょ(笑).

養老先生は「俺の講義を真面目に聞くと出世のさまたげになるよ」と学生さんにおっしゃいました.

ほり先生は,生徒さんはなかなか変わらないとおっしゃっていますから,そんなに真面目に聞いてない前提なのかもしれませんが,ほり先生のいうことを真面目に聞いて実践すると短期的,世俗的には損になるということを自覚されて生徒さんに接してらっしゃるのかなと思ったもので.

教員だから目先を優先させなくて良いというのは正論だと思いますが,養老先生ですら,こっちのほうが将来的に絶対よいと思われても,目先は損しますよ,と断りを入れておられたくらいなので・・・.

高校生と大学生しかも東大医はまったく違うといえば違うのでしょうが,現代の若者という点ではなんらかわりないですし,高校生のほうが素直な子はスポンジのようにほり先生の言葉を吸収されるのかなと思って,おせっかいながらちょっと心配になっただけです.

養老先生は「頭の良さ」より「頭の丈夫さ」が大事とおっしゃいましたが,あまり丈夫じゃない人に養老思想が入るとボクのようになってしまうのではないかと思います.

あと,学校は集団に対して教育を云々というのも良くわかるのですが,「人を見て法を説く」という面も必ずあるはずです.個性がどうという意味ではなくて.だから,頭の丈夫さにも当然差があるので,正論をドンドン入れていけばよいかといえば,丈夫じゃない子は破裂するでしょう.

だから,ある生徒には高校なんて中退して体使って働けと言ってもよいのかもしれませんね.別にプリントを止める止めない程度で右往左往しないで,根底から崩してしまっても.

ボクが抱いた危惧というのは,ほり先生が全部を座学勉強に引っ張っていこうとされているような感じを受けたからです.

座学での勉強なんてしなくて良い!体使って働いたほうが,よぼど勉強になる!

こういうのは現実問題として難しいんでしょうかね.

こうやって書いてみると,ほり先生も現実の制約のなかで苦労されているような気がしてきました.

お疲れ様です.
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きょうは仕事が休みなので (わど)
2009-06-26 19:35:29
ほり先生、こんばんは。すぐれた意見と低級の意見って、一般にあるはずですよね。とくに偏差値の高低だけが支配するシンプルな数値化社会を経験してきた者は、そんなふうに無批判に思い込んでいるんじゃないでしょうか。高級・低級の区別はシティー・ホテルだけじゃありませんよね、たしかに。
しかし実際の発話者として、自分のほうが相手より高級であるという感じは、いかがわしい場合のほうが多いんじゃないかなと思っています。相手に知識が足りない場合もありますが、知識の多い少ないは意見の高低と直接に関係ありません。何かを誤解している相手もいますが、一般に誤解ほどおもしろいものはなく、その原因を探してみるのは最高のサプライズです。

こう考えてみるのは、どうでしょうか。広い立場に立った考えもすぐれた意見も、ともにこの世界を説明するためのひとつの未完成な「物語」なのだと。この世界にたいする公式見解から、人々は自由になる必要があると思われます。

あれほど忌み嫌われてきたドイツ・ナチスの政権ですら、ワイマール体制という超不況からの克服という点で再評価されだしているという噂です。
ご存知でした? ←先生にたいする強烈な上から目線(笑)。
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詳しく言うと。。 (ほり(管理人))
2009-06-27 00:06:54
ゾウムシさん、コメントをありがとうございます。

「偏差値」を多用しすぎたせいかとも思いますが、ちょっと誤解があるような気もします。思っていることで書いてないことも多いので、仕方がないかもしれません。

「座学」についてですが。

人間の能力は、多岐にわたってます。で、いわゆる学校で学ぶような知的能力に関わることでも、人によって能力差があります。
それで、能力が低い場合は、一つのことを繰り返し、繰り返し訓練する。それで、やっとできるようになる。応用はなかなか利かないかもしれないけれど、これが職業訓練になって、いくばくかの働きになれば、稼ぐことだってできる。これは、これで「あり」だと思います。

でも、能力がもっと高い場合には、教えられたことをもとに、自分で創意工夫して、より良く活動することが出来る。

それで、私が「偏差値70の生徒を50扱いする」と書いたのは、上記の、自分で創意工夫ができるレベルにある生徒にあって、与えている教育の質が、能力の低い生徒対象と同じ訓練方法になっていることなんです。(コメントをUPしてから、「50」じゃなくて、こりゃ「40」かなとも思いましたが。)

良い例が、高校生にあってすら、「ドリル」が存在すると言うこと、「宿題」を出すと言うこと。「予習が宿題」という捉え方がされていると言うこと。予習なんて、してこなかったら自分がソンをする、ということなんです。それで良いはずなのに、「宿題だからやってこなければならない」と、生徒は考える。何のための予習なのかが分かってない。(これ、それなりの層の生徒にとっては、事実です。)

ゾウムシさんのおっしゃる、「バカなまま卒業させる」なら、まだマシです。現実は、それこそ、養老先生じゃないけど、「バカに仕立てて卒業させる」というか、バカになる勉強を教えているわけ。彼らが持つ創意工夫できる能力を、わざわざ妨げる教育をしている。ドリル、ノート提出、その他諸々。
その結果が、2年ほどまえかな?東大の先生が書いた新書で、授業で教えなかったことを試験で出したら、それをヒドイ、試験は、範囲をきっちり守って出せ、とかナントカ文句を言った学生がいた、と驚いていた、そんな学生を作り出している温床が今の日本のふつーの学校教育なんです。

私が言いたいのは、伸びる芽を摘む教育をしているということなんです。
で、この観点で言うと、ゾウムシさんのおっしゃることと、ちょっとずれて、というか、認識が異なるように感じます。

偏差値50でもそれ以下でも、自分で考える能力がある生徒にまで、考える力を奪う教育をしている。
考える、というのは、勉学でなくても、家計簿の付け方でも、なんでもありだと思うんです。メモの取り方、でも何でも良い。実社会に出て、応用ができることでしょう。
大事なのは、これでしょう。

まあ、そうだな。自分でノートを作らせないことが最悪かな。

体系化、全体の把握が、ノートにどのように線を引くか、何センチ幅で線を引くと、都合がよいか、などの判断。これは、俯瞰的に全体像を認識しないとできないことでしょう。でも、プリント付けのその場の知識習得のドリル学習がこの力を相当奪っている。

この能力は、いわゆる座学の勉強だけに当てはまることでもないでしょう。中小企業の社長さんが、跡継ぎの息子を丁稚奉公させるのは、大企業ではなくて、異業種の中小企業だそうです。会社全体を見るための訓練です。

私が理解する分のゾウムシさんの見解は、「それぞれ能力は多岐にわたっていて、みんながみんなできるようになるわけでないから、まあ、無理しなくてもいいんじゃないの?」ということかなと拝察するのですが、この理解で良いなら、私も同じですよ。
無理しなくても、いい。ただ、自分ができそうな分は、ちゃんと訓練して、能力を伸ばしたら?ということです。
それを伸ばしてないのが現実だと思うから。

すぐに「先生、次はなにをするんですか?」と言う。掃除でも、なんでもが、そう。「掃きなさい」と言うと、博という行為をする。ちょっと先にゴミがあっても、掃き集めない。目的が「掃くこと」であって、ゴミを集めることではないんです。考えてないんです。
自分でやっていって、何かを発見することをしない。だかた、倉本聰さんの富良野塾に集まるような積極的であるはずの若者も、指示をまっているだけ。
根っこは、同じなんです。
日本代表のサッカー選手が自分で考えない、というのも同じかな。(まあ、ここまで話を広げると、『日本人はもともとそうだ』と反論されそうな気もしますが。)

勉強に関しては、まあ、高校の教育課程、学習内容をそのまま、全入の高校生にさせる方が、まあ、無理。高校の勉強は、難しいですよ。
平常点や小テストなどは、全入の悪影響だと思ってます。イマドキは、学習に対する姿勢も悪い生徒が増えているので、単位認定を試験だけしようとすると卒業させることができない。その苦肉の策として、「日頃の努力を認める」という口実で、「平常点」をもうけた。実質の目的は、こんなところだと思いますよ。そのせいで、進学校の生徒まで、「ノート提出」「課題点」を出すようになった。そんなもの、必要がないのに。で、生徒は、学力をつけるためにノートを書くのではなく、ノート点を取るためにノートを書くようになった。課題点をもらうために課題をするようになった。ノートも課題(かつての自主学習)も学力を上げるためのものでなく、評価されるためのものになったのですよ。じわじわ~と、私は感じます。

まあ、とにかく、平常点や課題点を上げないと単位認定できない生徒たちの中には、あるいは、そうでなくても、能力がかなり相当に高い層でも、ゾウムシさんのおっしゃるように、体を使った仕事、野に出て山に入って体を使う仕事をするほうが、よほど性に合っている人たちは大勢いるはずですよ。

でも、その人たちの性分や能力が活きてないのは、学校が増えたせい。それで、教育産業や、大学職員を喰わせていくために、多くの人たちが、いわば、犠牲になってると言って良いかもしれませんね。
生徒が座学をして、塾や予備校、大学に行ってくれた方が、日本の失業率は下がる。ことに、教育産業が、座学の重要性に関わる「幻想」をばらまき、煽る。文科省が加担する。毎度言っていることだけれど、うまくできてます。

>座学での勉強なんてしなくて良い!体使って働いたほうが,よぼど勉強になる!

これ、道理にかなっていることだと思います。
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偏差値はたとえです (ほり(管理人))
2009-06-27 00:23:53
わどさん、コメントをありがとうございます。

偏差値は、たとえで出したまでです。
結局、人間は、個人としては、自分のわかる範囲でしかわからないということなんです。

ただ、大きな脳はより小さな脳を含有する。(養老先生が言ってる。)
多くの場合、大人は子供の立ち位置を理解する。(「気持ち」の理解とは別の次元の話で。)ああ、今、この子は、こういう成長段階だな、とか。自分もそうだったな、でも、そのままでいるわけにもいかないんんだよね、さびしいけど、とか、まあ、どの時々でいろいいろ。

よく誤解されるのだけれど、私は勉強一辺倒だと思っているわけではないので、その点だけはご理解ください。

基本的に勉強を教える仕事だから(学校は、そもそも世間では学べない勉強を教えるところです。)、勉強中心の話題になるだけです。
人間そのものの価値?とは、全く別物です。
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