考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

「センターは書かないから」だってぇ。

2007年11月02日 | 教育
 今授業でやっている教材について、「これだけの単語がわからないんですが。」と生徒が相談に来た。どうやら、「こんなにたくさん覚えなければならないのですか」という内容のようだ。それで、たぶん、その子は、私が「そうだね、大変だから、これとこれだけは覚えようね」と言ってもらえるのを期待したようだ。

 おあいにく様。
 「テキストに出てきた単語は、全部覚えるべし。」と、そのときはそこまではっきりとはいわなかったが(でも、授業中にはそう言っている。)、どうせまた次に必ずでるのだから、覚えなさい、たくさん覚えておいた方が、読むのがラクになるでしょ?と言った。

 すると、「単語を覚えればそれで良いんですか」と曰う。

 こういった反応は、今の子の特徴である。
 「何何しろ」と言うと、必ず、「それ『さえすれば』いいんですよね」という年の押し方をする。ここ数年、特に新課程になって、必ず、間違いなく、全ての生徒がと言っていいほど、こういった反応をする。

 部活動などで、かなりの成績を上げるような生徒でもそうである。
 ねぇ、部活であれだけ頑張ったのは、「これさえすればいい」って気持ちでやってたの?

 「効率の良さ」を勘違いしているのだ。「努力しないこと」が尊ばれる価値観である。「努力は最低限でよい」という発想なのだ。部活の努力な一体何だったのだ。

 あー、ヤダ、ヤダ。
 
 「センターは書く必要がないし。。。」と言い訳する。「時間がないし。。」
 「だったら、単語カードを作るなり、トイレにでも何でも張って覚えたらどうだ? やってご覧。とにかく。」

 だから、マーク試験は、ダメなんだって。
 ふつーだったり、ふつーより少し上位に位置する生徒に勉強をさせにくくする「効果」覿面なのだ。「書かないのだから、書けるように単語を覚える必要はない。」というのが理由である。
 まあ、要は、英語を習得する気がないのである。試験さえ出来れば、良い。英語は大学にはいるための手段に過ぎないから、記述試験がないなら、それでいいというのだ。
 英語が「道具としての語学」とも生徒には認められていないのだ。それがどうやら、今の「進学校に通う生徒の常識」のようだ。

 これが「格差」の温床になるのだろうな。
 一見無駄に見えることに大きな宝が隠れていることを知る生徒と、上っ面だけの効果しかねらえない生徒で、やがて大きな違いが出てくる。
 上位数パーセント、正確には、1,2%だろう、その程度の集団と、それ以外の大多数の集団に大きく分かれる社会になるのだろう。

 個人の能力に関しても、同様な傾向が見られるだろう。
 有る能力だけは特別に優れているが、他の自分の興味のないことは全然ダメ、など。それで喰っていけるようになると、「これでいい」となる。

 (大分端折るけど)たぶん、社会は、今後どんどん「スリル満点」になってくるのだろうな。公教育の目指した社会は、そういことか。
 これがなるほど「自己責任」って奴なんだね。


コメントを投稿