今授業でやっている教材について、「これだけの単語がわからないんですが。」と生徒が相談に来た。どうやら、「こんなにたくさん覚えなければならないのですか」という内容のようだ。それで、たぶん、その子は、私が「そうだね、大変だから、これとこれだけは覚えようね」と言ってもらえるのを期待したようだ。
おあいにく様。
「テキストに出てきた単語は、全部覚えるべし。」と、そのときはそこまではっきりとはいわなかったが(でも、授業中にはそう言っている。)、どうせまた次に必ずでるのだから、覚えなさい、たくさん覚えておいた方が、読むのがラクになるでしょ?と言った。
すると、「単語を覚えればそれで良いんですか」と曰う。
こういった反応は、今の子の特徴である。
「何何しろ」と言うと、必ず、「それ『さえすれば』いいんですよね」という年の押し方をする。ここ数年、特に新課程になって、必ず、間違いなく、全ての生徒がと言っていいほど、こういった反応をする。
部活動などで、かなりの成績を上げるような生徒でもそうである。
ねぇ、部活であれだけ頑張ったのは、「これさえすればいい」って気持ちでやってたの?
「効率の良さ」を勘違いしているのだ。「努力しないこと」が尊ばれる価値観である。「努力は最低限でよい」という発想なのだ。部活の努力な一体何だったのだ。
あー、ヤダ、ヤダ。
「センターは書く必要がないし。。。」と言い訳する。「時間がないし。。」
「だったら、単語カードを作るなり、トイレにでも何でも張って覚えたらどうだ? やってご覧。とにかく。」
だから、マーク試験は、ダメなんだって。
ふつーだったり、ふつーより少し上位に位置する生徒に勉強をさせにくくする「効果」覿面なのだ。「書かないのだから、書けるように単語を覚える必要はない。」というのが理由である。
まあ、要は、英語を習得する気がないのである。試験さえ出来れば、良い。英語は大学にはいるための手段に過ぎないから、記述試験がないなら、それでいいというのだ。
英語が「道具としての語学」とも生徒には認められていないのだ。それがどうやら、今の「進学校に通う生徒の常識」のようだ。
これが「格差」の温床になるのだろうな。
一見無駄に見えることに大きな宝が隠れていることを知る生徒と、上っ面だけの効果しかねらえない生徒で、やがて大きな違いが出てくる。
上位数パーセント、正確には、1,2%だろう、その程度の集団と、それ以外の大多数の集団に大きく分かれる社会になるのだろう。
個人の能力に関しても、同様な傾向が見られるだろう。
有る能力だけは特別に優れているが、他の自分の興味のないことは全然ダメ、など。それで喰っていけるようになると、「これでいい」となる。
(大分端折るけど)たぶん、社会は、今後どんどん「スリル満点」になってくるのだろうな。公教育の目指した社会は、そういことか。
これがなるほど「自己責任」って奴なんだね。
おあいにく様。
「テキストに出てきた単語は、全部覚えるべし。」と、そのときはそこまではっきりとはいわなかったが(でも、授業中にはそう言っている。)、どうせまた次に必ずでるのだから、覚えなさい、たくさん覚えておいた方が、読むのがラクになるでしょ?と言った。
すると、「単語を覚えればそれで良いんですか」と曰う。
こういった反応は、今の子の特徴である。
「何何しろ」と言うと、必ず、「それ『さえすれば』いいんですよね」という年の押し方をする。ここ数年、特に新課程になって、必ず、間違いなく、全ての生徒がと言っていいほど、こういった反応をする。
部活動などで、かなりの成績を上げるような生徒でもそうである。
ねぇ、部活であれだけ頑張ったのは、「これさえすればいい」って気持ちでやってたの?
「効率の良さ」を勘違いしているのだ。「努力しないこと」が尊ばれる価値観である。「努力は最低限でよい」という発想なのだ。部活の努力な一体何だったのだ。
あー、ヤダ、ヤダ。
「センターは書く必要がないし。。。」と言い訳する。「時間がないし。。」
「だったら、単語カードを作るなり、トイレにでも何でも張って覚えたらどうだ? やってご覧。とにかく。」
だから、マーク試験は、ダメなんだって。
ふつーだったり、ふつーより少し上位に位置する生徒に勉強をさせにくくする「効果」覿面なのだ。「書かないのだから、書けるように単語を覚える必要はない。」というのが理由である。
まあ、要は、英語を習得する気がないのである。試験さえ出来れば、良い。英語は大学にはいるための手段に過ぎないから、記述試験がないなら、それでいいというのだ。
英語が「道具としての語学」とも生徒には認められていないのだ。それがどうやら、今の「進学校に通う生徒の常識」のようだ。
これが「格差」の温床になるのだろうな。
一見無駄に見えることに大きな宝が隠れていることを知る生徒と、上っ面だけの効果しかねらえない生徒で、やがて大きな違いが出てくる。
上位数パーセント、正確には、1,2%だろう、その程度の集団と、それ以外の大多数の集団に大きく分かれる社会になるのだろう。
個人の能力に関しても、同様な傾向が見られるだろう。
有る能力だけは特別に優れているが、他の自分の興味のないことは全然ダメ、など。それで喰っていけるようになると、「これでいい」となる。
(大分端折るけど)たぶん、社会は、今後どんどん「スリル満点」になってくるのだろうな。公教育の目指した社会は、そういことか。
これがなるほど「自己責任」って奴なんだね。
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