考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

きっと悪文に違いない

2007年11月05日 | 教育
 授業で使っているテクストだが、文章がややこしくってしようがない。もっと簡明に書けよ、と言いたくなる。(自分のことは棚に上げて・笑)

 言葉が書き連ねてあるのだが、生徒は、要するに「こーゆーことなんだ」というけっこう単純な筆者の主張を汲み取れない。英語を丁寧に日本語に置き換えて自分が思い込んだ訳語で考えようとするものだから、かえって難しくなる。

 英語には言い換え表現が多い。だから、それにさえ気が付けば、「これはあれの言い換え」、「これとあれが対比」など読み替えていくことが出来ればそれなりにわかってくるはずだと思うが、一つ一つの単語の訳語に引っ掛かって、全体の文章構成が見えないのがわからない原因のようだ。(しかし、まあ、センター対策だと、意外に細かいことまで選択肢で問うている。重箱の隅を突っつくような問題もある。こんなのは、真の読解力を損ねるだけではないのかなと思うのだけど。)

 しかし、あまりに予習をしてないから、まあ、つまりは、質問しても答えられないから(難しいことを聞きすぎている気がしないわけでもないが。)、とうとう「訳してこい」と言った。
 日本語の単語に置き換えるのが目的なのではない。大事なのは、「筆者は何を言いたがっているか」を掴むことだから、要約でも良いよとは言っている。ただし、段落毎に読むのは鉄則である。
 だから、ワケの分からない訳をする子と有る程度わかって要約をする子とに分かれる。出来ても出来てなくても。自分でやることでしか力は付かないのだから、やることが大事なのであって、予習の結果の出来そのものはどうだってかまわない。授業では、顔を見ながらそれなりに説明をする。(で、これをアテにされて予習をしてこないのが困るんだよな。)一番大切なのは、「わからないとき、どうするか」だろう。それを言ってるつもりなんだけど、「結果」だけを求めて「わかった」ことにする。まあ、それもないわけではない。けど、「どうするか」という方法をこそ学んで欲しいものだ。

 和訳の良いところは、「自分がわからないところがわかる」ことだと思う。それが筆者の主張でもあったり、的確な日本語の表現だったりする。前者がわからないのは、読解力がないからであり、後者ができないのは国語力の問題である。

 にしても、文章につまらないのが多い。1行で済むところを長々と書き連ねている。

 えっ? 誰かのブログと同じだって?? それでもそれよりマシだろうって??
----まあ、それは言わないでよね。

 

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