考えるのが好きだった

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応接間と床の間が消えた家

2007年01月08日 | 物の見方
 家屋の広告を見るのが好きである。(笑)興味深いのはもちろん間取りである。

 この頃のマンションは、畳の間が一つもなかったりする。あっても、床の間は滅多にない。私の知る限りであるが、戦後すぐに立てられた2K風呂無しの住宅は、当然2部屋とも畳敷きだが、(2部屋共にかどうかの確信はないが)床の間が付いていた。今なら、床の間分の空間は必ず風呂である。
 もう一つ気が付くのは、3,40年前の住宅は、玄関脇に応接間があっただろう。それで、洋間はこれ一つ、他は全て和室だった。(床の間も最低限、一つは付いていると思う。)小さめの住宅であっても応接間が付いていたと思う。
 現在の住宅からはこれが消えた。代わりに出来たのがいわゆるリビングだろう。共に、ソファーセットが置いてあるかもしれないが、決定的に違うのは、応接間は「常には使わない空間」であるという点である。

 「ハレとケ」のような違いと重なりそうだが、床の間にしても応接間にしても、日常生活においては共に「役に立たない」ということである。
 床の間はクローゼットに変わり、衣類や日用品を片づける、生活上必要な空間になった。しかし、「床の間」は、生活空間ではない。ものを飾り、愛でる一段高い場所である。応接間も客人が来たときにもてなしをする場として、子供は入るなと言われたかもしれない「特別な場所」だった。

 藤原正彦氏は士族の出だが、信州の家には「切腹の間」があったと書いている。子供はもちろん、誰も入ってはいけない特別な場所である。大きなお宅ではあるだろうが、そこは完全に日常とは異質の空間だったはずだ。

 こうしてみると、今の住まいは、なんと実用本位になったことだろうか。人が立ち入ろうと思えば出来るのにも関わらず、そうしないことを旨とする「無駄な空間」がどこにもない。すべてが「ケ」、日常の場である。日常生活を営む上では実に効率的な空間設計である。だって、家中の全てが「使える空間」なのだから。「飾り」は、壁面でも家具の上でも部屋の一隅でも良いという考え方である。季節の飾りもそれで十分こと足りる。
 しかし、応接間や床の間は、常に使うわけでもないのに場所を取り、それ相応の費用を掛けないとどうにも格好が付かない場である。家という高い買い物にこんな「無駄」はできまい。

 言いたいのは、これも、何でもかんでも「効率優先」の考え方の一つだろうということだ。

 また、居住空間のあり方が住人の心に何らかの影響を及ぼすのではないかと考えれば、現代人の心に何かしらの余裕がなくなっているのも、床の間や応接間が消えたことと関係するのではないかと思う。

 

2 コメント

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無用の用 (森下礼)
2007-01-09 00:16:43
ほりさん、あけましておめでとうございます。現代人が「ケ」の空間から「ハレ」の空間を排除している、というお話ですが、ここで着目したいのは、「無用の用」を説いた哲学者・老子ですね。老子11章に、容器はがらんどうな空間が空いているから、中にものを入れることが出来るよ、といった話がでて来ます。「ハレ」と「ケ」の話とはちょっと違うかも知れませんが、床の間、応接間などの「無駄な空間」も実は無駄ではない、と主張できるかも知れません。
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そう思ったのですが。。 (ほり(管理人))
2007-01-09 23:30:32
森下礼さん、コメントをありがとうございます。本年もどうぞよろしくお願い致します。

>「ハレ」と「ケ」の話とはちょっと違うかも知れませんが、

記事を書く前、「無用の用」も思いついたのですが、ハレとケとうまく結びつけられず、どうしようかな、と思って、ま、これだけでもいいよね、とUPしたのが実情です。(笑)

で、さっき、これは、人間にとって「無駄」とは何か、という問題に行き着くのかと思ったりしました。
無駄は一種の剰余だから、以前に書いた内容で、「効率的な学習」は無駄を省く学習だから、一見良さそうだけれど子供の成長を阻むからいけない、というのと結びつくような気も(今、これを書いていて)しました。
う~ん、難しいです。。。ま、時間をかけてまた考えていきたいと思います。

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