東洋経済、もはやゴシップ誌に堕ちた!? 起訴中の人物に書かせた「宗教」記事
2018.08.29(liverty web)
伝統ある老舗経済誌の、あまりに乱暴な記事に驚きを禁じえない。
「週刊東洋経済」は2018年9月1日号で、「宗教 カネと権力」と題する特集を組んだ。
記事はこんな導入で始まる。
「強大な資金力・動員力を持つ一方、『信教の自由』を盾に、有力な宗教法人でも毎年の収入すら開示していない。注目教団のマネーから人事まで、厚いベールに包まれた実像に迫る」
ページをめくれば「『信教の自由』不可侵が隠れみのに」「宗教が儲かるカラクリ」といったセンセーショナルな見出しが躍る。
業界の「利権」を追及するようなつもりでいるのかもしれないが、そこには、宗教に対する根本的な理解不足がある。
宗教を「マネー」で見ることの浅はかさ
(1) 宗教は営利事業ではなく「魂の救済」
そもそも宗教が行っていることは、営利事業ではない。「魂の救済」である。
例えば、多くの宗教が「エゴイズムや憎しみの中で生きれば、死後、地獄に相当する世界で苦しむ」と説いている。
だからこそ、正しい心や善悪、そしてあの世の存在を説くことで、人々の魂が死後、迷ったり苦しんだりすることを防ごうとしているのだ。
さらに、神仏の存在を説き、神仏への祈りを捧げ、その臨在を感じ取る儀式などの場を設けることで、生かされていることへの感謝や、人生の意味を見出せるよう、導いている。
事故や病気で亡くなった霊にも、葬儀や「供養・鎮魂」という形で、正しく引導を渡す。
これは、仏教の説法や読経・修法にしろ、キリスト教のミサや洗礼にしろ、イスラム教のモスクで行われる礼拝にしろ、共通している。そしてその救済行の価値は、世界的に認められている。
こうした「魂の救済」という仕事の中身に理解のないまま、「マネー」の側面で宗教を論じようとするのは、極めて浅はかだ。
(2) 布施は対価性のあるものではなく「宗教行為」
また宗教における「布施」を、「お金儲けの手段」であるかのように見るのも、見当違いだ。
布施とは、神仏に生かされていることへの感謝を示すため、額に汗して働いた金銭などを、自分の生活を満足させるために使うのではなく、浄財として差し出すという「宗教行為」そのものに他ならない。
仏教においても、布施はこの世のものへの執着を捨てる契機とされてきた。イスラム教やキリスト教においても、「喜捨」「献金」というのは信仰行為だ。
つまり「布施」はそもそも経済活動ではない。信仰者が神仏に恭しく差し出したものを、税務署などの世俗の権力が横から取り上げるのは筋違いであるため、宗教への布施は非課税となっている。
これは、歴史的にも世界的にも常識だ。それを理解できない、または「税逃れの論法」くらいにしか捉えられないとしたら、なおさら宗教を論じる資格はない。
(3) 宗教は社会を向上させる公益事業
そしてもちろん、集められた浄財は、教団の運営に使われる。
その活動も、「魂の救済」というのはもちろんのこと、「道徳観を向上させ、犯罪を抑止する」「社会の荒波で打ちひしがれた人を立ち直らせ、自殺を抑止する」「コミュニティーを形成し、人々を孤独から守る」などという、極めて公益性の高い行為だ。
そうした側面を軽視して、頭から「金儲けが目的」であるかのように議論を展開する姿勢は、宗教の「し」の字も理解していない証拠だろう。
つまり、「利を食む宗教」という構図に新旧様々な宗教を押し込むこの特集では、導入文が謳うように「実像に迫った」とはとうてい言えない。むしろ、「政治を知らずに政治家を叩く」「経済を知らずに企業を叩く」ような、危険な報道をしているのだ。
社会的事件性のある時しか宗教を扱わないマスコミ
こうした偏向報道は、日本のマスコミ全体の傾向とも言える。
多くの宗教や聖職者が平時、どのような心構えで、どのような活動を行っているのかを、マスコミは報じない。当然、報じる側も読者側も、上記のような宗教的教養には疎いままだ。
時折、おかしな教団が問題を起こすこともあるが、そのような事件性のある時にのみ宗教を取り上げ、いかにも宗教全体が悪いものであるかのように報じる。
おそらく、今回の特集も、オウム幹部の死刑執行に合わせて企画したのだろう。
その結果、中身もよく分からないまま、「宗教性悪説」に立つ偏った報道が溢れることになる。こうしたことが繰り返されれば、日本人の宗教心・道徳心は失われ、この国が劣化していくことになる。
そういう取材、企業相手でもするんですか?
今回の記事では、取材手法もかなり歪んだものになっていた。
(1)「被告人」に筆を託す
例えば本特集で、「幸福の科学」に関する箇所を寄稿しているのは、藤倉善郎氏というフリーライターだ。
実はこの人物は、幸福の科学の教団施設に侵入し、現在、東京地検によって起訴されている「被告人」である。
また、幸福実現党の講演会に、顔にタオルを巻いてサングラスをつけ、ヘルメットを被るという格好で入り込むなどしている。
こうした行為は、幸福の科学に対してのみではない。
ある教団の信者が行っていた出版社に対する「断食デモ」の前で、わざわざ知人とともに牛丼を食べるといったこともしている。また、ある教団の著作物を全文インターネットにアップし、警察に強制捜査をされたこともある。
そうした人物に筆を託した編集部の判断は、メディアの信頼性を自ら貶めるものだ。
(2) アンチにばかり取材
また、幸福の科学広報局によると、東洋経済編集部は、藤倉被告人と1カ月以上も前から連絡を取り合っていたという。さらに、教団の退会者を集めて、座談会までも企画している。
一方、教団側には8月14日という発刊直前の段階で、まるで「後付け」のように取材の申し込みをしている。
誌面構成を見れば、4ページ中、3ページは藤倉氏の寄稿で、1ページが得体の知れない退会者と称する人たちの座談会だ。
例えば、通常の企業分析記事において、その企業と仲の悪い人物ばかりに話を聞いて誌面を構成したものが、果たして公平な記事だと言えるのだろうか。
それとも、「日本人は新宗教への偏見が強いので、雑に扱ってもかまわない」とでも考えたのだろうか。
(3) 内容にも事実誤認
こうした雑な取材姿勢の結果か、幸福の科学に対する内容も「豊富な資金で自己演出 離婚騒動で曲がり角」といった偏見に満ちたものになっているほか、事実関係においても間違ったものが散見される。
例えば記事において、幸福の科学が設立した高等宗教研究機関(大学に相当)であるハッピー・サイエンス・ユニバーシティ(HSU)に在学する学生について「一般大学の新卒者と同様の就職は厳しそうだ」と書いてある。
しかし、来春卒業予定の学生の内定率は8月の時点で92%を超え、全国平均の79.7%(大学生・大学院生の7月末時点の内定率。マイナビ調べ)を超えている。
また、藤倉氏の寄稿の最後に、「藤倉氏が記事中で言及した事実関係の一部について、本誌編集部が幸福の科学広報局に質問したところ、左記に回答が文書で寄せられた(要点を抜粋)」として、事実誤認に当たる箇所を列挙している。
記事内容の裏取りができていないことを自ら告白しているわけだが、藤倉氏の記事はそのまま掲載されている。これは報道の職業倫理に反しているのではないか。
石橋湛山の精神を忘れたか
そもそも、東洋経済新報社の歴史を語る上で外せない、石橋湛山・元主幹は日蓮宗の僧侶であったはずだ。
日蓮の宗教的な情熱を表す「我れ日本の柱たらん」という言葉を、自らを励ます言葉ともしていた。その気概で、時代におもねらない言論活動を行ったことが、東洋経済の精神にもなっているのではないのか。
「東洋経済は決して単なる商売で雑誌を発行しているのではない」
「(倉皇屈従すれば)雑誌の発行はそれに依って便宜を加え得るとするも、東洋経済新報は精神的に滅びるであろう」
この湛山の言葉に恥じない編集をしているか。それとも、真心から信仰し、人助けをしようとしている人たちの心を踏みにじり、「カネと権力」ならぬ、「カネと部数」に目がくらんでいないか。胸に手を当てて考えてみてほしい。
権威ある経済誌が、ゴシップ誌に堕してしまわないよう、祈りたい。
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