天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

湘子『黑』 7月下旬を読む

2024-08-02 04:38:35 | 俳句




藤田湘子が61歳のとき(1987年)上梓した第8句集『黑』。荒行「一日十句」を継続していた時期であり発表句にすべて日にちが記されている。それをよすがに湘子の7月下旬の作品を鑑賞する。

7月21日
舟着場から歩ききて踊りけり
島へ踊りにやって来た人。「歩み来し人麦踏をはじめけり 高野素十」に似た構図で展開に味がある。
炎天や蕭條として寺の屋根
「蕭條」は「蕭条」のこと、ものさびしいの意。この句はこの言葉、特に「しょうじょう」という音感に賭けた句である。

7月22日
かなかなや城ある町の紙芝居
城下町のどこかで紙芝居が行われている。「かなかな」「城」「紙芝居」という三つの物の不可思議な配合。読み手によって好悪が分かれる句であろう。
なほ西へ月夜は行けり高嶺草
月でなく「月夜は行けり」。作者ならではの美意識というべきだろう。「高嶺草」は高山植物ゆえ空気の澄んだ気持ちよさがある。

7月23日
北杜夫読む少年に雷近し
北杜夫は懐かしい。少年が本を読んでいて雷が鳴ったというのははっとする。はつらつとした少年を描いている。
白地着て闇にまぎるる心なし
夜道を行く。白地を着ているから俺は闇に浮きたっているぞ、という自負。いかにも湘子である。

7月24日
行きつつも白地の皺が尻の辺に
これは自分のことか他人のことか。自分の尻にできた白地の皺は手で感じることができるから自嘲と読んでもいい。

7月25日
箒木の形に一枝一枝かな
箒木は丸くまとまって見えるが一枝一枝が支えているというのである。その通り。当然のことを敢えて書くことで俳句になることのおもしろさ。

7月26日
紫蘇畑や日照り十日の変りざま
紫蘇はそうとうくたびれているのか。「日照り十日の変りざま」という言葉の畳み掛ける勢いが句の原動力。
帷子を着ておもしろう世過ぎせよ
帷子(かたびら)は麻で織った布の一重もの。「おもしろう世過ぎせよ」という命令形は自分へ言い聞かせているのであろう。言葉に抑揚がある。

7月27日
うまきものしづかに喰へば炎暑来
炎暑になったから美味いものを食べているのだろうがそれをひっくり返した。それも「うまきものしづかに喰へば」と味わい深く。言葉の芸人という感じ。
老人のかくしどころや天瓜粉
老人は作者のことだろう。「かくしどころ」に驚いた。そこに天瓜粉をはたく先生を想像すると笑うしかないのである。

7月28日
てにをはの泣いてゐる句や夜の秋
季語が適切かどうかやや疑問だが、「てにをはの泣いてゐる句」はわかる。弟子の句を見ているのであろう。もどかしさが伝わってくる。
蟹や海老剰して暑気を払ひたる
「剰して」に注目した。食べ残したということであれば食欲が落ちていたということか。それでは暑気払いできぬではないか。
機を見るに鈍なる蠅を打ちにけり
暑くて蠅の動きが鈍いのか。「機を見るに鈍なる蠅」は巧い。このフレーズを思いついたときの作者の顔を想像する。

7月29日
草取をして晴耕となす心
「晴耕雨読」が下敷き。晴れて耕すのが本来だが、草取をそれに充当した。そこが可笑しみとなっている。
誇るべき蟬の木もなし住み馴れて
確かに蟬が来て盛大に鳴く木は誇るにあたいする。先生の家の庭には朴があるはずだが、それには蟬が来ないらしい。

7月30日
白壁に月夜をあたへ誘蛾燈
凝った表現である。白壁は土蔵が。その近くに誘蛾燈がある。白壁と誘蛾燈は引き合う。
老夫婦泳ぐ夫婦を木陰より
泳ぐ夫婦を泳がない夫婦が見ている。泳がないほうは年寄で泳ぐほうは若い。おもしろい句である。俳句は一瞬の切り取りであると思う。


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