母はみづ父は光やめだかの子 兼城 雄
ヒトの卵と精子の関係をめだかに持ち込んだかのような一種の擬人化がおもしろい。卵に対して精子はそれが遺伝情報を持っているのだろうが、卵を起動させるきっかけみたいなようなもの。卵・胎という基盤は母が用意する。そのような見方でめだかの事情をとらえていて人間的なのである。
大楠の影ちぢみゆく大暑かな 亀田紀代子
太陽が真上に来ると影が小さくなる。それを述べた「ちぢみゆく」という語感にちりちり燃えるような印象があって効果的。木が樟であることも夏らしい。
身を伝ふ汗を力に岳を描く 橘田麻衣
おもしろい視点。「汗を力に」がユニークであるしそれで山を描くというのも個性がある。
枯園に火傷の痕を見せられき 桐山太志
「火傷の痕を見せられき」に驚くが場所が枯園とは抜群の設定。この作者は短篇小説が書けるのではないか、物語性十分。
白酒を座敷童に干されけり 久保いさを
人が飲んだに決まっているがこのさい犯人は追及しない。のどかな席である。ほんとうは自分が飲んだのではないか。とぼけている。
母の日の母にゆつくりわが名湧く 栗原修二
季語「母の日」をこの句のように枕詞のように使うことが増えてきて気になるが後半の「ゆつくりわが名湧く」は惚けの入った母の状況を見事にとらえていて切ない。
欠勤のままの退職冬さうび 黒澤あき緒
ぼくが現役のころこれに似た人がいた。彼は躁鬱病で休んだままいなくなった。作者は冬さうびを配していちおう心づかいをしているが躁鬱病の彼には薔薇を送る気分ではなかった。
桜守石臼廻すやうに言ふ 小泉博夫
石臼はとろろを搔き混ぜるように勢いよく回せない。この緩慢さと音が桜守の物言いの気の効いた比喩となっている。
春暁や星粒立ちて草ぬらす 佐竹美佳
一読して日野草城の<春暁や人こそ知らね木々の雨>を思い出した。星と草との空間をも描いて壮大さと細やかさをミックスさせた。
海域を越え来し芥蜃気楼 志田千惠
最近海岸のゴミの木片などにハングルや中国語をよく見る。北朝鮮の木造船の残骸もニュースで聞く。そういった昨今の事情に敏感な作者である。
義理欠きてあまりに高き桐の花 清水正浩
思わず笑ってしまった。そういう事情に気品あるこの花を配した作者の感覚は抜群。
書かざればものおもはざり枇杷の花 鶴岡行馬
京極夏彦がどこかで、言葉を知らなければ感情もない、と書いていたことを思い出した。俳句は感じるから書くのではなく書くから感情がいきいきしてくるという逆説が成り立つ。
ガーゼ取る目に金色の冬日射す 内藤喜葉
金色ということで手術の成功を暗示する。印象鮮明な句。
探梅行大きな墓を賤しめる 中山玄彦
寒いうちから梅の花を探して歩いていて誰かの立派な墓に遭遇した。この墓の主は探梅行などしなかっただろうなという心境。皮肉を含んだ玄人好みの句。
夕ざくら携帯持たぬ男待つ 西田玲子
たとえば3月28日に「4月4日18時上野駅1番線ホーム中央」などと決めれば愛が冷めないかぎり男はそこへ行く。けれど女はその間も電話やメールのやりとりをしたがる。男と女の根本的相違が出ている。
言つた言はぬ聞いた聞かぬの炬燵かな 西村五子
言が二つ、聞が二つでにぎやかの極致。今は昔の大家族的雰囲気をはらみ人の交情を端的に描いておもしろい。
どかと出てやがて潤みぬ春の月 野島乃里子
春の月は潤んでいる。「どかと出て」に喜びがあるしそれが満月かそれに近い丸さを感じさせて豊かな気持ちになる。
忘れけり虹立つてゐしこと以外 蓜島啓介
幸せな時間だったと思う。たとえば吟行旅行をしたときなど30句くらいなにやかや書いたとして残るのは1句だったりする。それが極上の句であったらその1句でよしとする。そういう極上の虹だったのである。
夏掛や子の寝姿はさあ殺せ 長谷靜寛
元気で寝相のよくない子の姿態。言い得て妙とはこのこと。
一湾の総毛立ちたる白雨かな 林るい子
俳句を作るのに描写と比喩は両輪という気がする。「総毛立ちたる」は比喩のようでもあり描写のようでもあり混然一体化している。写生の領域に至っているといってもいい出来。
子の家に徒食三日や巣立鳥 半田 岬
子は完全に巣立鳥であり自分が食わせてもらった。親鳥の自分を茶化していてユーモラス。
鈍行の優先席や春惜む 日向野初枝
「鈍行の優先席」にくつろぐ作者はこの世の華やかでないもろもろの象徴。「春惜む」の句として絶品ではなかろうか。
和布舟舳先に富士の浮びをり 廣瀬輝子
この時期の富士は雪が7合目くらいまであり白く中空に浮かんでいるように見える。下のほうは霞む。「和布舟舳先」は優れた構図。
年守るや老妓ひらめのやうに辞儀 藤澤憼子
この老妓は若い芸者の御目付役みたいな立場にあるのだろう。「ひらめのやうに辞儀」をしながら上目使いで世の中を隅々まで見る。
小春日や卵とる手を鶏つつく 古屋徳男
ぼくも実際にやられたことがあり痛い。とても懐かしく読んだ。
病める子の健やかな恋さくら草 三代寿美代
病める子に恋人がいるのがせめてもの救い。古い世代は「まこ甘えてばかりでごめんね。みこは…」というラブストーリーを思い出してしまう。それほどの重病でないことを願う。
短日の言問橋に別れけり 百橋美子
どこどこで別れたという俳句はかなりパターン化している。その場合、季語と場所の合わせ方に成否の鍵がある。この句の季語と場所は抜群。別れに橋は似合うが勝鬨橋ではこの味は出ない。
ぶんぶんやこの手の男捨つるほど 山田東龍子
ぶんぶんは黄金虫のことであるが言い方でこうも安っぽくなる。灯火の中へ飛び込んで行くが私はあんなと共には飛び込みませんよ、といったところ。
炬燵のみ残してみんな帰りけり 山田敏子
帰られたほうはじじとばば。もしかしたらばば一人かもしれない。淋しさを巧みに述べた。
佐保姫の袖のひと振り野に山に 山本邦子
佐保姫は擬人の極致の季語。さらにそれを押し進めて「袖のひと振り」といったのがはまった句。なかなかこうは決まらない。
晩春のとどのつまりは誰も居ぬ 夕雨音瑞華
俳句はなにげない文言がえらく効果を出す。この句の「とどのつまりは」がそれ。意味性より空気を醸す言葉の使い方の妙を味わいたい。
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