朝7時半、1キロ先の職場(アパート清掃)へ行く途中、喫煙ゾーンを異様に感じた。いつもと違うコースを行きコンビニのわきに喫煙ゾーンに喫煙者がたむろしていた。
喫煙者同士の会話なく狭いゾーンでひたすら煙を吸っている。異様な光景である。それをあつらえた人のおせっかいを思った。彼らがいなくなった日中、誰があつらえたの近づいてみたが主導者、責任者等の表示はなかった。
都心の密集した地域ならいざ知らず西国分寺のような風が吹き抜ける在にはなくてもいい措置ではないか。めいめい好きな空間で吸えばいいじゃないか、そう思ったのである。
とにかくこの世は指定する指定されることに満ちている。身近なところ俳句結社には「同人」というのがある。先日句集を出したというМさんに「出せばいいじゃない」と言うと「それにはまず同人にならないと」という答えが返った。
同人というのは句集を出す関門なのか。そういえば小生に届く句集もほとんど同人。1冊だけ無所属の人から来たことがあり頼もしく思ったものである。同人に指定されることが重要のようであるが出したかったらそんなこと関係なく出せばいい。主宰から認知されない、序文をもらえないということはあるかもしれないが、出すことがその人にとって最重要ならそうすべきであろう。
許可されたい、指定されたいという心理に満ち満ちてこの世が成り立っている。
「指定暴力団」という呼称もおもしろい。
構成員による集団的または常習的な暴力的不法行為等を助長するおそれが大きいとして、暴力団対策法に基づいて都道府県公安委員会が指定する暴力団とのこと。そう呼ばれることで世の中に認知されて堂々と存在しているような響きがある。警察にわれわれの存在を認めてもらえたというような安堵を感じてしまう。指定されていない暴力団の人々は寂しいのではないかと思ってしまう。
「世界遺産」というレッテルも世界の津々浦々の人々が求めている。
別もこれに指定されなくても行きたいところに行けばいいと思うのだが観光で飯を食っている地域は指定されたされないでは収入に雲泥の差が生じるのであろう。
九十九里浜はまず「世界遺産」にはならないだろう。風景にまったく目玉がない。
煙草を吸いたい人はどこで吸っても誰も文句を言わないだろう。ここを吟行したらおもしろいと思う。あるのは砂と水と風と雲。燕や蟹など小動物がすこしばかり目に入るかもしれない。サーファーとその道具は見える。
世の人が「何もない」という九十九里浜こそ何も指定のない自由な場所であろう。ここで合宿して句作に挑むのが華と思う。
ここで50句書けるか。どんなひどい句でも50句書けたら立派である。誰かに指定されるのでなくそういったテーマを自分自身の中に立てればいいのではないかな。
九十九里浜
ただ、「それにはまず同人にならないと」ってのは肩書き好きの日本人らしい発想ですな(笑)肩書きより書いた内容のほうが大事じゃないんですかね。俳句って。
「主宰から認知されない、序文をもらえないということはあるかもしれないが」って俳句ではそんなに権威や権力が大事なの?自分が生まれるずっと前に京大事件てのがあったらしいですね。