アパートの駐車場にワゴンが来た。506号室から荷物の運び出し中というプレートが窓に貼られているが新潟ナンバーであることと、その作業がプロの業者でないことを不審に思った。ワゴンの4、5人がとても場違いな感じがする。
やがて管理人室へこのアパートを管理するS林業本社社員が顔を見せてぼくに名刺をくれた。
彼は新宿からわざわざ来たわけである。
S林業を名乗っても本社社員が来ることのない下請けばかりなので驚いた。
彼の話によると約1週間前506号室で住人が人知れず死んでいたそうである。
会社の同僚が何日も出勤しないことを不審に思って警察立会いで入室したところ死んでいたそうである。
死んだ人が男か女かは知らないし、病死か自殺か殺人かも敢えて聞かなかったが殺人ではなさそう。殺人なら今日も関係者がいそうだし管理人のぼくも事情は聞かれそう。
以前から重そうな鉄扉のむこうで何か起こっていてわからぬ不気味さを感じていた。
人の死を閉す鉄扉や梅雨深し
梅雨深し生者と死者を分つ壁
人の生死は珍しいことではない。いまも次の瞬間も世界のどこかで誰か死に誰か生れている。樋から雨が落ちるように、竹の葉が風にさやぐように人は生まれたり死んだりしている。
芭蕉は奥の細道へ旅立つにあたり「草の戸も住替る世ぞひなの家」と詠んだし、村上鬼城は「生きかはり死にかはりして打つ田かな」と生死の変遷を詠んでいる。
けれどこの二つの世界は明るい。
芭蕉は自分がいなくなる家に若い女性が来て子をなす希望を、鬼城は田打ちという季語でずっと続く人の営みを称えている。
平成28年の東京府中市におけるワンルームマンションでの生は芭蕉や鬼城の句の内容とかなり趣は異なり、ざらざらしている。人と人との横のつながりが希薄なのである。
黴を拭く人知れず人死にし部屋
この部屋はすぐ掃除してまた新たな入居者を待つのだろう。はたしていつ新しい人が来て住むのか。前の人の事情はたぶん伝えることはないだろうし、入るほうもそう興味を持たないであろう。
この集合住宅の住民で新たな入居者に部屋の事情を告げるおせっかいな人もいないだろう。そもそも506号の人がいなくなったことすら何人気づいているのだろう。
人が誰かとつながりを持ちたいという欲求はわかる。人は苔や黴ではないわけだから。
3階にゴミをたいそう溜めこんでいる引きこもり男がいて気になる。あっけなく一人死んでしまったのだから。