先日、荻窪の大田黒公園で吟行したとき磯部薫子から分厚い『東京都区現代俳句協会35周年記念句集』(編集人:佐怒賀正美、発行人:松澤雅世)をいただいた。暮の掃除を終え、それをぱらぱら見ていたら気に入った句に出会った。ここに紹介する。
炎天のもう妻でなく草田男忌 赤澤敬子
中村草田男といえば「妻抱かな春昼の砂利踏みて帰る」「虹に謝す妻よりほかに女知らず」といった妻恋俳句がある。これを下敷きに作者は自分の境遇と草田男忌を巧みに重ねた。
読初のパウロローマにやつと着く 穴澤篤子
パウロの伝道の旅といはいい視点。「やつと着く」には「やつと読み終えた」もあり、この季語の句として金字塔。
石投げて川濁りたる桜桃忌 有馬英子
石を投げるという屈託と女と入水自殺した太宰治と引き合う。
春雷の遠近何れとも和さず 石井長子
夏の雷と違って春のそれは華々しくない。よって「何れとも和さず」はとても巧い。
熊笹の中に音あり雪解川 石川登志子
熊笹は丈があるので川をすっかり隠す。しかし音高く雪解川が響く。実直でけれんのない句。
緑蔭に捨て印のごと男いる 石口 榮
年配の男は一人でいるだけで哀れ。それが緑の濃い場所だとなおさら。まさに「捨て印」。
幼な児の立った歩いた金魚草 磯部薫子
上五中七の手拍子を打つ感じはみどりごへの期待と喜び。これを支える季語もいい。
枯尾花呼ばれぬ人も振り向けり 一井魁仙
松田さーんと読んだら村山さんも振り向いたという内容。複数の人の吟行かもしれない。よくあることでちょっとさみしい味わい。
それからの女狐話薬掘る 今野龍二
女狐はほんとうの狐かもしれないし女に騙されたことかもしれないが面白い。季語がさらに引き立てる。
六区には何でもあるぞサングラス 今村たかし
浅草六区である。見せ物なら何でもある。人も色彩も豊か。地位ある人は人目を忍んで遊ぶ。
象の鼻ゆっくりあがる初日の出 大平星雲
それだけのことだが俳句になっている。なんとも優雅な取り合せ。
相づちを打つだけのケア花八手 大山実知子
そうとう惚けていて昔話をするだけの人かもしれない。うんうんと頷いていればいいのは楽だがさみしい。
人混みを一直線に夏帽子 圍 喜江
繁華街を急いで行く夏帽子の人。それが落ちそうでおさえたりして。雑踏も夏帽子も元気な夏である。
蝌蚪群るる微熱の渦となりにけり 上村ツネ子
あれが群れているところに手を入れるとぞくぞくする。「微熱の渦」という感覚を肯う。
歩かねば歩けなくなる初詣 亀井孝始
めでたいはずの初詣を切実に読んで迫力がある。老齢者の意地と決意である。
番台も富士も煙りて大晦日 加茂達彌
豪華な銭湯である。湯気が濛濛としている。番台まで煙るかなと思うが大晦日だからいい。
かく赤き野分の空に目覚めしか 菊池ひろこ
天地騒ぐときはときに空が異様な色になる。野分の句としてユニーク。
若冲に楯突いている羽抜鶏 北迫正男
若冲の作品をくまなく知らない。ぼくの見た若冲に羽抜鶏はない。優雅な奴ばかり描くなよという視点がおもしろい。
日本橋日本晴れの梯子乗り 木村順子
日本のリフレインはめでたくまさに日本の正月。おまけに梯子乗りとは言うことなし。
片方の手袋安否問うように 倉本 岬
落ちている手袋。たいてい落ちているのは一つ。「安否問うように」は言い得て妙。
汗しとど讃岐極太うどんかな 栗田希代子
汗しとどの効き目はこれ以上ない状況。暑くて美味くて汗かいて、豊かな時間。
名月や二軒向こうの咳払い 栗原かつ代
名月に対して「二軒向こうの咳払い」という下世話なもの。まさに取り合せの妙である。
水を買うほおずき市のうら通り 栗原節子
表通りはほおずきに満ちそれにかける水も散っていて涼しそうだが飲む水がない。裏へ回て水を買って飲む。このアイロニーのおもしろさ。
ねこじゃらし直ぐにおいでと言われても 鍬守裕子
ねこじゃらしはおいでおいでと言うようにそよぐ。この句では好きな人に呼ばれたのだろうが女は身支度が要るのよ。綺麗に見せたいから。
対岸のさくら何度でもありがとう 小髙沙羅
対岸の火事は無責任でいいが桜はもっといい。「何度でもありがとう」が胸に落ちる。こちら側でないところが味噌。
江ノ電の女子高生や更衣 小林和子
海が見える江ノ電ゆえ夏を感じる。おまけに女子高生の白い制服。
日の沈む処見ている二日かな 小林幹彦
どうということのない内容だが不思議な味がある。元日でないところに隠れた技がある。
大柄な桐を咲かせて武者屋敷 佐々木いつき
武士と桐の花は合う。それが大柄だとさらに風情がある。行ってみたいような屋敷。
噴水は噴水として雨の中 佐藤洋子
噴水は水を吹き上げる仕掛け。雨は天から落ちる。アンニュイを絵に描いたような一句。
おにぎりの三角山は五月晴 椎野恵子
たぶんおにぎり屋の店頭であろう。さておにぎりを買ってピクニックへ行こうという場面。天気もよい。気持ちも晴れ晴れとしている。
煮炊きする艀に鴨の鳴く薄暮 柴田喬子
マレーシア近海にはボートピープルと呼ばれる人々がいて小さな舟で生活する。艀で寝起きはしないだろうと思うのだがうらぶれた景である。しかし人の生存する原点をしかと感じさせる。
うつぶせに流れて母は椿なり 渋川京子
水を流れる椿に死んだ母を見た。娘から見た母は憧れの対称だったのであろう。「椿なり」と言う断定が冴えた情念の濃い逸品。
アマリリスあしたあたしは雨でも行く 池田澄子
あ音を4回使って読むほどに気持ちがよくなる。俳句は意味ではなくリズムであるのだがこの句は恋の気分が満ちている。
撮影地:甲州街道 高尾山口駅から大垂水峠へ行く途中
読初のパウロローマにやつと着く 穴澤篤子
パウロの物語を読んでいるのでしょうが、「やっと」という副詞がその物語にも句にも深みを与えている。
石投げて川濁りたる桜桃忌 有馬英子
発想に惹かれた。川に石を投げる句の多くは、水切り遊びのような気がします(違うかな?)が、こういう「石投げて」を句に持ち込めるとは。
うつぶせに流れて母は椿なり 渋川京子
句の構造に惹かれた。「うつぶせに流れて椿なり」「母は椿なり」両フレーズを無理なく融合させて秀逸なのは、通常は人に使われる「うつぶせ」という言葉をきっと裏返って流れるのであろう椿に用いたこと。いずれにせよ、下五の断定の冴え。
【はてなの句】
炎天のもう妻でなく草田男忌 赤澤敬子
季重なり即アウトとは思いませんが、「炎天」「草田男忌」の季重なりはどうでしょうか。前者の情報は、後者に含まれており、上五は蛇足では?
仮に、いやそうではないとした場合、それは「炎天」の季語効果を認める立場でしょうから、この句の主季語は「炎天」ということになるのかな?