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皺の手に幼子診たり雛の日
町医われ一芸もなし文化の日
江見さんが吹田市でずっと医師をなさっていたことは知っている。90歳になって医師をおやめになったとも聞く。ご苦労様でした。
上記の二句はほほえましく、また実直でいかにも町のお医者さまという風情。ぼくは江見さんのそういう面しか知らなかった。
次の句に遭遇するまでは。
B29爆撃の春忍び逢ふ
びっくりした。
当句集で一句挙げよといわれれば躊躇なくぼくはこの句を推すだろう。
一読しただけで覚えてしまう句は秀句であるがこの句はまさにそう。言葉ひとつひとつが輝き一句全体が強く押してくる。
あの戦時下にかくも大胆に国策に反し恋愛を謳歌していた女性がいたとは……書物でしかそうした人は知らなかった。全体主義に逆らって彼女は蛇が舌を出すように春を謳歌している。
ほれぼれしてしまいこの年頃の江見さんにお会いしたいと妄想した。そう思わせる句は凄いのだ。
大胆に不逞に薔薇の大輪に
思うさま生きよ泰山木の花
「不逞に」が江見さんの深層にあり、それは「忍び逢ふ」と同質のものである。自分の思いを曲げずに遂げたい衝動である。「泰山木の花」のように自分を全開したいのである。その衝動は男に、森羅万象に向く。
ぼくは江見さんがかくも直情径行の女性であるとまったく気づいていなかった。
句集が来ると読むのが面倒だなあと思わぬでもないが、予期せぬ裏切りに遭うとうきうきする。これが人の句をまとめて読むよさである。
江見さんはゆとりのない人だとずっと思っていた。
中央例会のとき自分の句に対して名乗りをする。このとき自分の名をいうのにふつう1~1.3秒はかかるのだが「タケオカエミ」は0.5秒ほど。会場から名乗りのせっかちさに笑いが起こったものだ。
ボツになったときの江見さんの名乗りはもっと短く感じる。したがってユーモアの乏しい人と誤解していた。
ところが次の句。
河川敷大根首を伸ばしをり
茄子胡瓜暗算はやき八百屋の子
宝船布袋の腹の寒からむ
入学子まづは頭囲を測らるる
春闘やマニキュア赤き手を挙ぐる
幽霊の扮装涼しこんばんは
太鼓打つ大股びらき豊の秋
山葵採無垢の流れに臀立てて
黄落や馬房出でたき馬の脚
河川敷が効いて首を伸ばすがおもしろいし、暗算の子が茄子胡瓜に見えてくる。「布袋の腹」「頭囲」「マニキュア」を持ってきて効かすうまさ。
「こんばんは」で決める洒脱さ。
「大股びらき」「臀立てて」という猥雑さはほかの言葉、状況とのかかわりの中で当を得ている。
「馬房出でたき馬の脚」は描写することでおもしろさを出している。
こういうユーモア感覚を見せられるとこの人は実直な医師でなくても、商人としても成功したのではないか。
これが大阪人の根底にある人の心を鷲掴みにするセンスなのかと感じ入った。
とにかく自由闊達な詠みぶりである。
眼爛々泳ぎ切つたる顔上げて
鯨の尾ざぶりと黝し神送
鷗百二百港の雪深し
天が下すは巣作りの雀蜂
島風や別けても朝のほととぎす
象の鼻水噴きあげぬ仏生会
おおらかに物に対する姿勢もあれば次のような繊細さを併せ持つ。
炎天や這うて色無き火の行方
炎天のような明るさの中の火の舌はどこまで伸びているかわからない。下手に手を出すと熱いと手を引っ込めるはめになる。そのあたりの把握が絶妙。
また次の句は、擬態語を効かせていかにもこのころの季節感を出している。
雨一夜明けてひらりと秋来たり
句集の題名としたこの句の好奇心と進取の気象が江見さんの推進力であったと感じるのである。
先々の面白からむごまめ噛む
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