小池真理子のエッセイ集を読み終えたらその連れ合いの藤田宣永が気になり『老猿』を読み始めた。
津村節子と吉村昭も夫婦で小説家である。
夫婦が小説家というのは大変らしい。この二組の夫婦に共通しているのは、まず妻のほうが有名な賞を取ってしまい夫が遅れたことである。
吉村昭は芥川賞の候補に4度もなりながら結局受賞できなかった。この間、津村節子がその賞を受賞してしまう。
ぼくは吉村さんのエッセイ集をまとめたことがある。そのとき吉村昭の名はもう押しも押されもせぬブランドであったので「先生みたいな方が4度も落ちたとお書きになるのはめそめそしているから削りましょう」と提言した。吉村さんは苦笑しつつ「それは入れましょうよ」と言ったことがなつかしい。
あの大作家にしても芥川賞は格別なものなのだ。
小池真理子も夫より早く直木賞を受賞。そのとき「藤田はどうでした」と担当者に聞いたことがリアルにエッセイ集に書かれていた。
藤田落選を知り素直に自分の受賞を喜べずも悶々とし、5年して藤田も同じ賞を受賞したときやっと5年前の受賞をひそかに喜んだそうだ。
小池と藤田は籍を入れないこと、子供をつくらないことを条件として事実上の夫婦生活をしている。
若いときから酒を飲みつつ夜っぴて文学を語ったりしたとか。藤田は小池より絶対先に死にたいと言っているそうだ。
夫婦で文学を話すなどすこし羨望の念をいだいた。
ぼくは妻と文学など話したことがあったか。彼女が23歳のころノートに詩のようなものを書きつけてあったのを見たことがありロマンティックな会話をした記憶がかすかにあるが、子供を産むとともに現実そのものとなった。
そして40年も暮らすと、
「今日は段ボール出す日よ」
「茄子3袋、トマト1袋買ってきて」
「風呂入れて」
というふうに、会話というより生活のあれこれの一方的な指示・命令となった。
「俺は譲歩している」と思うのだが先方は「私はあなたのために我慢している」と思っていることだろう。
指示・命令に対してひとつでも異を唱えればどれだけの反駁を招くか、おお怖い。
そんな愚はしません、しません……。
しかし、しょちゅう文学を話す夫婦というのもそれはそれでたいへんなことである。
破鍋に綴蓋である。鍋と蓋はそれなりになじんでしまっている。
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